脱衣場には、さっぱりした藍色の、木綿地の着物が丁寧に畳んで置いてあった。
それを身につけながら、いつになく気が重かった。正直に言うと、棗と顔を合わせたくなかった。
ヒトとして色々、あるまじき醜態を見せてしまった気がする。
そのまましらばっくれて子猫の振りをしたまま店を出るのも考えたが、そもそも初めに目が合っただけで日番谷だと見抜かれている。
見抜かれている状態で棗に身体を洗われるのは、羞恥これに極まれりという感じではないか。
棗はその辺の感覚が全く鈍いようなのが、日番谷には理解できなかった。女というのはそういうものなのか、と思う。
―― 厄介な奴……
日番谷には困った方向にばかり鋭く、かつ鈍い。とにかく棗を前にすると調子が狂う。

棗は、店の手前にある和室で、茶を用意して待っていた。
店は、あの栞という名のうさんくさい男に任せているらしかった。
「……悪い。着物、借りたぞ」
手拭いで頭を拭きながら日番谷が入って行くと同時に、棗は俯いた。
「……笑いたきゃ笑えよ」
憮然として言ったとたん、弾けるように笑われた。どうやら日番谷が入って来た瞬間から、笑いをこらえていたらしい。
「本当に笑うか? そこで!」
ある意味情け容赦ない仕打ちだと思う。
「だって、おかしいわよ」
ひとしきり笑った後、棗は目じりに浮かんだ涙を指で押さえながら言った。
―― 消去してやろうか、こいつの記憶……
一瞬本気でそう思ったほどだった。
「どうしてまた、今日は子猫の姿だったの? ていうか、冬獅郎くんと猫の行動パターンが入り混じってるみたいに見えたけど。
あれが猫の演技だったらすごいね、何度か本当にただの猫かと思った」
「演技じゃねぇよ……」
さっき自分がやらかした行動を思い起こすと、穴があったら入りたい。
「意識はちゃんと俺なんだが、なんか猫の本能に引っ張られんだよ……」
「なんだか分からないけど、いいじゃない、猫の姿なんだし」
「そう……か? いや、よくねぇよ!」
思わず突っ込みを入れてしまう。

猫に変化する、自体は別に日番谷が望んだことではない。
「絶対に一回では覚えられぬ!」と夜一に断言されて、そんなに難しいなら一度挑戦してみようと思ったまで。
外見的には一回で成功した、が、滅多にその能力を披露することはなかった。
この忙しいのに、無力な猫に姿を変えている暇などなかったからだ。

が、たまに取れた非番の日にふらりと、猫の姿で瀞霊廷や現世をさまようことがある。
瀞霊廷では彼の顔を知らない者はいないし、現世でもおいそれと出て行けば、すぐに霊圧で気づかれてしまう。
自分の地位や、親しい人々を重荷と思うことはない。もちろん厭うてもいない。
……ただ、自分を誰も知らない場所へ行きたいと思う時間が、たまに訪れる。
無力で、たった一人で、知らない町を行くのは、せいせいした気分だった。
ごてごてと肩書を付けていた夜一が、猫の姿を好む気持ちも、少し分かる気がする。

「外見的には」一回で成功した、というのはつまり、内面的にはいくつか成功していない、ということでもある。
まず、しゃべれない。鍛錬が必要なのだと聞いたが、別に喋る必要も感じないため練習もしていない。
もうひとつは、変化すると行動まで猫っぽくなってしまう、ということだった。

いかに自分は人間なのだと自分に言い聞かせても、金魚を見れば飛びかかってみたくなる。
縁側をを見れば寝転がってみたくなる。水と言われれば嫌になる。人間の頭脳が、猫の本能に負ける感じだ。
おまけに、どうも頭の働きがいつもより弱い。猫の身体だから、という説明だけではたりないほど、ドジを踏むことが多い。
夜一にはそんな言動は見て取れず、人間の時も猫の時も変わりなく見える。一体何が原因なのだ、と聞こうとしたのだが。
相談したところで、高笑いされるのが関の山だと思う。

正体がばれることもある、と分かった以上、今後猫に化けるのは控えようか。そう思って日番谷がため息をついた時だった。
「どうしたの、なに笑ってんの?」
栞が店先からひょい、と姿を見せた。
「ああ、この子は……」
そこまで言いかけた棗が、言い淀んだ。確かに、さっきまで猫だったけど人間に戻った冬獅郎くん、などとは紹介できないだろう。
栞は、無言で日番谷を見やる。そして一言、
「なんだ、さっきの猫か」
と言った。

日番谷はさすがに目を見張る。
「なん……」
「なんで分かったんだ、とか、何者だ、とか止めてね。ついでに自分が何者なのか明かさないでね。僕、そういうの興味ないから」
言いかけた言葉に重ねるように、さらさらと言葉を並べたてられて、日番谷は思わずつんのめったように、黙った。
―― なんだ、コイツ……?
まさか誰もが自分の正体に気づくわけじゃないだろうな、と一瞬思い、そんなはずはないと打ち消す。

黒崎一護と似たような年齢だと思うが、こちらのほうが格段に落ち着きがある。優等生、という面持ちだ。
比べるなら、あまり言葉を交わしたことはないが、雰囲気は石田雨竜に似ている。
―― 死神でもねぇし、滅却師とかでもねぇ。知らねぇ気配だ……
霊圧、というものをそもそも感じないから、戦闘能力はないのかもしれない。
ただ……この男は、「普通の人間ではない」。それだけは確かに思えた。
最近は破面だろうがなんだろうが微塵も動揺しない自信があるが、この男は「不快」だとはっきりと思う。

ふぅ、と棗がため息をついた。
日番谷には湯呑にあたたかい茶を入れて薦め、栞の前には氷を落とした上に茶を注いだコップを置く。
「もう、栞ちゃん。どうしてそんな言い方するの? ごめんね冬獅郎くん、礼儀がなってなくて」
「……そう謝られると、僕の立場、ないんですけど」
「この人、村上栞っていうの。わたしのいとこ」
サラリと栞を無視して、棗が日番谷の方を向いて紹介する。
「……いとこ?」
何だか、しっくりこない気がした。同時に視線を向けられてみると、二人は妙に似通っている。
血がつながっているというなら、当たり前のことかもしれないが。
「びっくりしたでしょ。栞ちゃん、子供のころから色んなものが『分かる』の。超能力? っていうのかな」
「やめてよ。そんな胡散臭い能力もってないし。僕はいたって平凡な高校生です」
ぐいっ、と茶を一気に飲み干すと、ごちそうさま、と空のコップをちゃぶ台の上に置く。

「それより、着物、適当に見つくろってみたから来てよ。ご精算」
「あら、自分で見てくれたの? お金なんていいのに。親類だし」
「何を言ってんの。こんな小さなお店、取るところからはお金とらなきゃすぐ潰れちゃうよ?」
「高校生なのに生意気言うんじゃないの。ごめんね冬獅郎くん、ちょっと外すね」
揃って出て行く二人の後ろ姿が、まるで姉弟のように見えて、なんとなく嫌な気持ちになる。
何となく気に入らない栞が、棗と似ているという発想自体が気に入らない。