元は、赤ちゃん用の晴れ着だったのかもしれないな。目の高さに布を持ち上げて見ながら、わたしはそう思った。
そのきものの端切れは、無邪気な明るい桃色だ。
水色や緑色の糸で刺繍された兎が走り、雀が小さな翼を広げて飛んでいる。
ほぅ、と息が漏れるほど、見れば見るほど精緻な模様だった。
長い長い時を越えて、掌に乗るくらいに小さな端切れになった。
大人が縮んで、小さなおばあちゃんになってしまうように。
きっと、この端切れの最後の役目。わたしは、針に桃色の糸を通した。
机のそばに置いた裁縫箱は、夏の終わりに亡くなった祖母の形見だった。
祖母が新婚の時に母からもらい、母自身もそのまた母親からもらったというそれは、掌におさまる大きさの割りにどっしりとした木箱だ。
もしかすると大正、昭和時代のものかもしれない。木の部分は、綺麗な飴色に変わっていて艶々している。
はさみで布を縦横比が1:2になるように断ち、裏側を表にして半分に折る。ちょうど正方形になった。
右側と、下側の端をまっすぐに縫い、袋状にする。……と言っても、縫い目はすぐに泳いでしまう。
そういえば、まだお店のレジを閉めていなかった、とか。小腹が減ったな、とか。気づけば、関係ないことを考えている。
―― 「間に合わせの仕事なら、やらないほうがましだよ」
祖母の針を使っていると、ざらざらしていてあたたかい、祖母の声が耳に蘇る。
節くれだって太い指なのに、針を扱うその手は早く、驚くほどしなやかに動いた。
祖母の手にかかれば、一枚の布があっという間に袋になり、人形になり、わたしたちの生活に息づくものに形を変えて行った。
一方のわたしの手は、苦笑するほど迷いがちだ。あれこれと物思いにふけりながら縫った糸目は、右に左にと揺らいでいる。
おばあちゃんがこれを見たら、顔をしかめて一喝されてしまうな。その眉間の皺まで思い出せてしまう。
ひとつのことに集中して、初めから最後までやり遂げること。
残念ながら祖母の教えを目標にするのは、来年になるようだ。何しろ、今年はあと1時間ほどしか残されていない。
わたしは、新しい布地を手に取った。
左側一方を残して縫えたところで、端切れを表側にひっくり返して、
袋状になった中に綿を入れた。そして、残りの左側を閉じる。
真ん中に一往復針を通して、絹糸を長めに残して切る。すると、小さな座布団ができあがる。
できあがったら、支えの部分が壊れてしまった写真立てを置く、クッションにするつもりだった。
しばらく無心に、手を動かしていた。でも不意に、顔を上げる。
「……音」
口の中で呟いた声が、新鮮なくらい大きな反響で身体の中で響く。
そう、音だ。音が、部屋の中からも、お店の外からも、全く聞こえてこない。
時計を見ると、夜の11時半を少し回ったところだった。
どうして、こんなに静かなんだろう。わたしは針山に針を突き立て、畳の上に置いて立ち上がった。
ベージュの分厚いカーテンを引くと、ガラスには水滴がびっしりとついていた。
指先でこすって、漆黒の外を覗きみる。ちらちらとした白いものが、窓の向こうに見える。
まさか。そう思って、窓を10センチくらい開けてみた。
途端に、ヒュゥッと音がして、頬に冷たい風が打ち当たってくる。
漆黒の闇の中に現れては消えていたのは、東京では珍しいほど大きな、ぼたん雪だった。
しばらく言葉をなくして、寒さも忘れて、降り積む雪を見つめていた。
ふるさとに降る雪を、ふと思い出していた。
**
わたしが育った小さな町には、雪がよく降った。
最近はそうでもないみたいだけど、わたしが子供のころは、ぼたん雪も珍しくなかった。
500円玉くらいの大きさの雪が、掌に落ちる。毛糸の手袋の上に落ちた時の、「ぱさっ」というかすかな雪の音を思い出す。
わたしは特に雪が好きで、そんなに口をあけていたら雪が入るよ、と笑われるくらいぽかんとして、
いつまででも、いつまででも空を眺めていたものだった。
真っ白い空から、雪がどこから現れるのか、それを見極めようとしたけど……空と雪との境目が見えたことはなかった。
まだ子供だったからだろうか、雪の中にいてもそれほど寒いと思った記憶はない。
夕方になって、両親や祖母に、早く家に入りなさい、とよく叱られていた。
夜になると、わたしはよく祖母と一緒に、蔵の二階にある一室に上った。
その一室は、部屋の半分くらいが物置になっていて、箪笥の中にはきものがびっしりと詰まっていた。
母のもの、祖母のもの、そのまた祖母のもの。女の歴史とも言えるきものたちが、白い紙に包まれて眠っていた。
思えば、わたしのきもの好きは、そのあたりの記憶に端を発しているのかもしれない。
祖母は炬燵に新聞紙を敷き、小豆をその上に拡げて、虫食い豆を選るのに余念がない。
放っておかれたわたしは、積み木で遊んでいた記憶がある。
三角、四角。赤、青、きいろ。
窓を開けると怒られたし、そもそも当時のわたしには、窓は高くて開けられなかったはずだ。
それなのにわたしの記憶の中では、その閉じられてあたたかい一室の外には、ぼたん雪が降っていた。
大人になってしまったんだ、と悲しむ気持ちは起きなかった。
ただ子供の時の自分に再会したようで、ちょっと懐かしくなっただけ。
窓を閉め、残りを仕上げてしまおうと振り返った時、階下から聞こえてくる物音に気づいた。
「……だれ?」
耳をすませると、確かに入口の引き戸を誰かの手がノックしている。
チャイムがあるのに、わざわざ戸を叩くなんて。暗くてチャイムのボタンが見つからなかったのだろうか?
壁時計を見ると、時間はもう12時近い。まともな客とは思えなかったから、酔っ払いかもしれない。
無視するわけにもいかず、階段を下りて一階に向かう。明かりを落とした店内はよそよそしく、わたしはまだ続いているノックの音を聞きながら、立ちすくんだ。
正直、声をかける前に、ノックが止んでくれればいいのだけど。そう思った時、その心の声を読んだように、音が途絶えた。
諦めてくれたのかな。ほっとして、引き戸を見つめた時だった。
「あぁ、めんどう臭ぇ」
誰かがつぶやく声が聞こえた。
その声の主が何者か、に気づくより前に、にゅっ、と戸を「突き抜けて」、手が現れた。
手首から先が、戸から生えたように見えている。
幽霊? 声にならない悲鳴を上げた時、その子は戸を突き抜けて、その全身を現した。
「よぅ」
階段の上でへたりこんだわたしに、気軽に声をかけてくる。
銀色の髪、翡翠の瞳。夜を切り取ったように黒い着物を着て、その身長にはまだ早いのではないかと思うような長い刀を背負っている。
この雪が降るのに、夏の終わりと同じ格好で、マフラーひとつ巻いていない。
彼がこの死神の姿でわたしの前に現れるのは、二度目だ。一度目ほどの衝撃はなく、自分でも意外とはやく平静を取り戻すことができた。
「……冬獅郎くん。何をやってるの?」
彼の正体が比喩でもなんでもなく、「死神」だということを知ってから、彼のまわりでは信じられないことばかり起きたけど、それでも冬獅郎くんのことは信頼できた。
冬獅郎くんはそんなわたしを見て、何が気に食わなかったのかムッと口をへの字にした。
「冬獅郎くんじゃねぇ。日番谷隊長だ」
「隊長?」
確か、前にお店に来た松本さんが、冬獅郎くんをそう呼んでいた。
何かいつもと様子が違う、と思った時には、冬獅郎くんはふわりと宙に浮かんで、わたしの方にすいっと近づいてきた。
「ど……どうしたの」
あの夏の日、死神だとカミングアウトした時を境に、冬獅郎くんは自分を人間だと装うことをやめた。
でも次に、秋の初めにやってきた彼はやっぱり人間の姿で、わたしの前ではできるだけ普通に振舞っているように見えた。
わたしを必要以上に驚かせないように、気を遣ってくれていたんだと思う。少なくとも、今みたいにあからさまに、普通じゃない行動はしなかった。
1メートルほどの距離で、中空の冬獅郎くんと向き合った時、わたしはふと気づいた。
……お酒の匂いがする。顔も、赤い。
「酔ってるでしょう」
そう指摘すると、への字がますます深くなった。
「だめでしょ? 子供なのに、お酒なんて」
「子供じゃねぇ、日番谷隊長だ」
思わず噴出してしまう。顔は赤いし、同じことを何度も繰り返すのは明らかに酔っ払いだけど、表情や声はいつもと変わらないからなおさら可笑しい。
「分かりました、日番谷隊長」
「分かったならいい」
「よくないわよ。お酒を呑んでいいのは大人だけよ」
「俺は、こう見えても人間の大人と同じくらいは生きてる」
わたしはそう言われて、ちょっと考えた。確かに、彼は普通の人間ではないのだもの、同じものさしで測ったらいけないのかもしれない、けど。
「でも、年齢じゃなくて身体の大きさの問題だと思うわよ? そういうの」
「俺がチビだって言いてぇのか!」
「すぐに背は伸びるわよ」
ムスッとして、冬獅郎くんは、黙った。酔うと感情がオープンになりやすい人がいるけど、どうやら彼もそのタイプのようだ。
「とにかく、お酒はだめよ。強そうにも見えないし」
「俺にも付き合いってものがあるんだよ」
まるで、サラリーマンのおじさんのような言葉が、あまりにも不釣合いな男の子の口から漏れる。
「付き合いって?」
「忘年会」
「ぼ……忘年会?」
わたしの頭には、お座敷、お銚子やビールやお皿が散らかる机の上、ネクタイを頭に結んだ中年の男の人、一発芸、が走馬灯のように浮かんだ。
どこまで現世の常識が通じるのか分からないけど、「隊長」と呼ばれる立場なら、きっとお酒の付き合いの場も多いのかもしれない。
「冬獅郎くんって、えらいの?」
「ああ、俺は偉い」
「それで、断れなかったのね」
本人がいたって真面目な顔だから、どこまで笑っていいのか分からない。
ふわり、と冬獅郎くんはわたしから離れて、レジの隣においていた豚の貯金箱の上にちょんとつま先をついた。
体重というものがないみたいな動きだけど、実際いまの冬獅郎くんは幽霊みたいなものなんだと思う。
やっぱり冬獅郎くんたちがいるのは、「あの世」なの? どうやってやってきてるの?
あの世にも忘年会はあるの? 死神の隊長って、何をしているの?
きっと聞けば今の冬獅郎くんなら何でも答えてくれるような気がする。
でも、わたしには聞けなかった。聞けば近づくどころか、きっと遠のいてしまう。
「どうしたの? こんな大晦日の、日付が変わる直前に」
代わりに、普通の友達にするのと同じような質問をしてみる。
冬獅郎くんはそれを聞いて、眉間の皺を深めた。
何回かの付き合いのなかで、それは不機嫌というほどでもなくて、何かを考えている時の癖だともう分かっている。
「見回りに来たんだ」
「見回り? 何からの?」
「虚は、年の狭間に騒ぎ出しやすい」
そう言って、冬獅郎くんは空気のにおいを嗅ぐように顔を上げ、視線を店の外にちらりと向けた。
ホロウ、という初めて聞く言葉を頭の中で繰り返す。どうやら、それは死神にとっては敵らしい。
「……ここにも、寄ってくれたの?」
「見回りだからな」
また「見回り」を繰り返したけれど、今度はきっと、酔っ払ったふり。少し気まずそうな顔をしてる。
「お仕事中の死神さんに、あったかいお茶をあげるわ」
そう言えば、最近実家から送ってきたほうじ茶の茶葉があった。高価なものではないけれど質がよくて、昔から愛飲しているものだ。
冬獅郎くんが何か言うよりも先に、銘仙の膝に手を当てて立ち上がる。
冬獅郎くんが、どんな世界に生きているかを知らない。
言っている言葉の意味も分からない。
でも、「見回り」の最中にふっとわたしのことを思い出して、立ち寄ってくれたのなら、それはとてもうれしくて。
「どうもありがとう」
目を見て言うと、わたしと視線を合わせて短く「おぅ」と言ってくれた。
彼が前にやってきたのは、10月の終わり……冬物を何点か見つくろったことを思い出しながら、階段を上がる。
あれから2カ月以上経つ。本格的にこれから寒くなるから、羽織ものでも出してみようか、と考えていた時だった。
ごーん、と重々しい音が街に響き渡り、冬獅郎くんと私は顔を見合わせた。
「……除夜の鐘」
「松本に聞かせてぇな」
わたしと、冬獅郎くんのつぶやきが重なる。
「そういえば、夏以来見ていないけど、松本さんはお元気?」
「元気なんてもんじゃねぇ」
冬獅郎くんは眉間のしわをますます深くした。今度のしわは「不機嫌」の方だ。
「酒だ食いもんだ、服だ化粧だとうるさいったらねぇよ。あいつこそ、煩悩を洗い流すべきだ」
「冬獅郎くんがいるから、安心して明るくしていられるのよ」
わたしが会った松本さんは、強くて明るい女性だったけど、決してひとりでは立っていない。
だからといって、あからさまに誰かにもたれかかるような風にも見えない。
きっと、すぐ近くだけど背中合わせに立っている誰かの体温を感じて、そっと微笑んでいるような、そんな姿がにあう。
冬獅郎くんは一瞬、虚をつかれたような顔をした。
「……ま、腐れ縁だからな」
そう返した冬獅郎くんは、決して嫌そうな顔はしていなかった。
「それより、せっかくだが瀞霊廷に戻らないとまずい」
セイレイテイ? 聞き返そうと思ったが、話がややこしくなりそうだったから聞き流す。
「何かあるの?」
「年が変わったら、総隊長……いや、死神の中でもひときわ偉い爺さんがいるんだが、長い訓示を垂れるんだよ。
その場にいなかったら確実に、バレる。新年から長い説教聞かされんのはご免だ」
伝わらないと察して言いなおしてくれた辺り、急速に酔いは醒めてきているみたい。
冬獅郎くんは中途半端に階段で立ち止ったわたしに背中を向け、すぐに肩越しに振り返った。
「悪いな棗、また来る」
「あ、ちょっと待って」
わたしは一旦上がりかけた階段を小走りに降りると、商品の棚に駆け寄る。
あたたかそうな赤いマフラーが、薄暗がりの中でぐいと目を引いた。カシミアの、手触りもいい上質なものだ。
値札が取りつけられた糸をプツリと切ると、ふわり、と冬獅郎くんの首に巻きつける。
「お年玉代わりよ。外は寒いから持っていって」
「俺はお年玉なんかもらう年じゃねぇぞ」
「いいから」
いくら死神でも、こう寒いと風邪を引いてしまうかもしれない。
冬獅郎くんは一瞬困ったような顔をしたけど、結局「ありがとう」と礼を言った。
いつも思うけど、何かをしてもらった時お礼を言う様子がとても律儀で初々しくて、いつも微笑んでしまう。
でも彼は、思いもしなかった言葉を続けた。
「じゃ、お返しがいるな」
「えっ?」
「いいよ」とわたしが言葉を継ぐよりもはやく、冬獅郎くんは懐に手を入れたけど、何もめぼしいものはなかったみたいで。
刀の背負い紐についていた金盞花のような形の飾りを、取り外した。
「やる」
それはぽんと宙を飛び、狙いすましたようにわたしの掌の中に飛び込んだ。思わず取り落としそうになったくらい、ずっしりと重かった。
「ちょっともらえないよ、冬獅郎く……」
その姿が再び宙に浮かんで、おまけに薄く透けて見えるようになったのを見てわたしは焦った。
「日番谷隊長だ!」
ぴしり、と一声を残して、姿は掻き消えた。跡には、ぽかんとしたわたしが残された。
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