「ホント、鬼のかく乱だな」
体温計をに目を落としながらそう言われて、あたしは腹を立てた。
「妹に『鬼』って言う? ふつう」
「違げーよ、そういう意味じゃねぇよ。そういう言葉があるんだよ」
ポン、とあたしの頭を叩き、一兄は立ちあがった。体温計を振って水銀を落とす。
ベッドに寝たままのあたしに、今度は辞書を手渡してきた。これで調べろってことか。病人のこのあたしに。
「夏梨ちゃん、ひとりでお留守番大丈夫?」
ドアから顔をのぞかせた遊子は、心配そうに眉根を寄せている。すぐにあたしは手を振った。
「いーって、7度ちょっとしか熱ないんだし。それより、ナツばあちゃんのとこへ行ってあげてよ、早く」
ナツばあちゃんは、うちを長年かかりつけ医にしている、一人暮らしのおばあちゃんだ。
苦しそうな電話を受けたのが15分前。救急車を呼ぶように、と言っても、慎み深い世代なのか「周りを騒がせたくない」とかたくなに断る。
親父は病院を離れられないし、一兄と遊子が様子を見に行くことになったのだ。
まるで動けない病人みたいに、ベッド脇のテーブルに水と携帯電話が置かれている。
「なんかあったら、すぐ電話しろよ。親父も病院の方、いるからな」
一兄までそんなこと言うし。もうあたし、10歳なんだけど。なんだかんだでウチの家族は過保護すぎると思う。
親父もさっき、「かわいい夏梨ちゃんが熱なんて! 一護が代わりに熱を出せばいいのに!」と叫んで一兄に蹴られていた。
「もー、大丈夫、大丈夫だって。はやく行かなきゃ!」
追い出すようにして一兄と遊子を部屋から出した後、布団の中でもぞもぞと辞書をめくる。
「鬼のかく乱……『ふだんきわめて健康な人が珍しく病気になること』なるほど」
風邪ひとつひきやしない、と周りを驚かせたあたしが、三日間も続けて熱を出すなんて。
おかげで初夢でも熱でうなされてたし。ついてないなぁ、とあたしは布団の中でため息をついた。
しっかり寝ておけと何回も言われたし、早く治したければ大人しくするしかない。
と、思っていたのだが。
三十分後、あたしは部屋を出て、リビングへ続く階段を下りていた。
一日目の夜は、神妙に寝ていた。二日目も、かろうじて寝ていた。とくれば、三日目には誰だって起きたくなると思う。
なにしろ退屈だ。これ以上は、脳味噌がふやけてしまいそうだった。
一時は8度を超えた熱も今は7度ちょっとだから、ぼーっとするけど辛いほどでもないし。
―― ホントーーに、誰もいないな……
当たり前だけど、誰もいないリビングが新鮮で。何となく、腕をぐんと伸ばしてみる。
意外なくらい広くて、解放感がある。もうちょっと元気になってたら、きっとバク転してる。
あたしが熱を出したのは大晦日の夜、紅白歌合戦をこのリビングで見ていた時だった。
あたしの向かいに座っていた一兄が、みかんを片手に持ったまま変な顔をしてみるから、「なんだよ」と聞くと、「顔真っ赤だぞ」と返された。
こっちが呆れるほど狼狽したのは親父で、「医者だ、医者を呼べ!」とありきたりなボケをかまして、
一兄に「てめーが医者だろ」とありきたりなツッコミを受けていた。
親父の見立てでは、ただの風邪だろうということで、それは当たっていたらしい。
新年一日目から寝込んで、お年玉をもらうのもベッドの中なんて。記憶の限りはじめてだ。
ナツばあちゃんは大丈夫だろうか、と考える。
もともと喘息もちで、電話の声もぜいぜいと苦しそうだったという。たった一人で、どんな気持だっただろう。
風邪で済んでいて、家族がいるあたしなんかとは比べ物にならないくらい、さびしいはずだ。
あたしが今ちょっとさびしさを感じているからって、それがなんだろうと思う。
あの二人が行ったんだから、だいじょうぶ。あたしは何度か自分にそう言い聞かせて、気を取り直した。
喉が渇いていたのをふと思い出して、冷蔵庫を開ける。すると、ぷうん、とシイタケの香ばしいにおいが漂った。
見ると、ボウルの中に暈(かさ)を広げたシイタケがいくつか浮かんでいる。前から漬けてあったんだろう、水は茶色に染まっている。
他にも、エビ、絹さや、卵、うすあげ、お刺身、イクラ。それを見ていて、今朝の遊子の言葉を思い出した。
「今日のお昼は、豪勢なチラシ寿司作るからね! 楽しみにしてて」
そういえば前の夜一兄が、がさがさスーパーの袋の音を立てながら帰宅していた。
あたしの好きなものを選んで買ってきてくれる一兄と、それで料理を作ってくれる遊子と。
きょうだいって、いいな。熱で弱ってるからかもしれないけど、ふとそう思う。
ふたりとも思わぬ用事が入って大変なのに、戻ってきたらお寿司を作ってくれるつもりなんだろう。
そこまで考えた時には、あたしはもう決めていた。
チラシ寿司はあたしが作ろう。
見た目からして複雑じゃないし、酢飯に具を載せればできるはず。
ご飯をうちわであおぎながら、手早く具を作る遊子の手元を見ていたこともある。
二人が疲れて戻ってきた時、チラシ寿司ができあがってたら、びっくりするだろうな。
そう思ってあたしはがぜん、張り切った。
*
そして、わずか15分後。あたしは早くも、途方にくれていた。
ご飯を研いで、炊飯器にセットする。これは、何度もやったことがあるから難なくクリア。
その次に何を作ろうかと考えて、チラシ寿司のてっぺんに乗っている錦糸卵を思い浮かべた。
卵を薄く焼いて、包丁で切るだけ。何のテクニックもいらないし、失敗しっこない、という理由で初めに手をつけようとした。
遊子はいつも、チョイチョイと片手間に作っていたし、あたしだって簡単にできるはず。
……と、いうことは、なかった。
フライパンにサラダ油をドバドバいれたのは、多かったのかもしれない。
卵を油で揚げるみたいにならないかな、と心配しながらも、溶いた卵を落とす。フライパンの底いっぱいに伸ばすところまでは、まあまあの出来だった。
でも、フライ返しでひっくり返そうとしたら、見事に真ん中から破れた。
下は焦げてるし、上は生焼け。なんとか半分ずつでもひっくり返そうと格闘している間に、スクランブルエッグみたいになってしまった。
「ま! まあ、見た目じゃないし。こまかく切れば大丈夫……だよね?」
思わず一人フォローを入れてしまう。まあ、口に入れればどんな形でもいっしょだし。
気を取り直して、エビのパックを開ける。
エビは、殻を向いて、半分に切って開きにすればいいんだと、見た目から知っていたし。
でも、パックに入っているエビは、生きてたままの姿で入っている。
とりあえず、殻を向いて……ゆでる。その順序を思い浮かべたあたしは、頭の部分を包丁で切り落とした。
「なんだこれ、腐ってないよな……」
背中に、気持ち悪い青い筋のようなものが見える。念のため賞味期限を見てみたけど、明日だった。どうやらこういうものらしい。
次に足を取り、殻を取ろうとするけど、身の部分が崩れてしまう。力を入れたら、引きちぎれてしまいそうだった。
どうしたらいいんだよ、とまな板の上にエビの残骸を置いて、あたしは考え込んだ。
どうしよう。このままじゃ、チラシ寿司を準備して待つどころか、せっかくの材料をダメにして終わってしまいそう。
こういう時あいつなら、と、ふっと思う。
身体は子供、頭脳は大人!な、どこかの漫画のキャッチフレーズみたいなあいつなら、こんな時どう言うだろう。
―― 「馬っ鹿じゃねぇの」
自分で思い浮かべたくせに、イラッとした。あの大きな翡翠色の目を、ちょっと小馬鹿にしたように細めて、絶対そう言う。
―― 「作り方も知らねぇのに、適当に作ろうとするから失敗するんだ」
「あ」
あたしは思わず声を出していた。
「料理の本、見たらいいじゃん」
そうだ、どうして思いつかなかったんだろう。たしか棚の中に、お母さんが愛用していたというレシピ本があったはず。
ほとんど開いたことがない引き出しを開けて、気おくれするほど太いその本を難なく見つけ出して、同時にハッとした。
小さな手の跡が、いっぱいについていた。
付箋が本が分厚くなるほどあちこちに貼られていて、そこには遊子の字が書かれていた。
―― 「お兄ちゃんのお気に入り♪」
―― 「クリスマスパーティー用」
楽しそうな字ばかり踊っているけど、お母さんが死んだ後、一体どんな気持ちでこの本を開いたのかと思うと、切なくなった。
かすかに記憶があるお母さんの味と、遊子の味はよく似ている。きっと、一生懸命母親の味を再現しようとがんばったんだと思う。
それがどれほどの努力なのか、いま全く料理に手も足も出なくて痛いほど分かった。
あたしも、たまには遊子においしいご飯を食べさせてあげたい。
そう思って、目次の部分を開いた時、あたしの手はぴたりと止まった。
聞こえるはずがない外の物音に、耳を澄ます。
「なにか来る」
玄関に近い、右腕のあたりがぞわぞわする。それは、第六感に近い感覚だった。
「なにか」は、角を曲がり、自動販売機の前を通り、郵便ポストを通り過ぎて、うちへと近づいてくる。
ひとつじゃない。たくさんの気配がこちらへゆっくりとやってくる。
その正体が霊だ、と結論づけるのは早かった。虚ではない。虚ならもっと強大で、おどろおどろしい空気をまとっている。
霊なら、襲いかかってくるとか、こちらに直接的に危害を加えようとすることはないだろう。
ただし、この忙しいのに、大量の霊を家にむかえるなんて、とんでもなかった。
あたしは一瞬ふらりとした足を踏みこたえ、玄関に出る。
うちに入ってきそうになったら、文句を言って追い返そう、と思っていた。
どっか行ってよ、と開口一番、がつんと言い放って追い払う。
そう思っていたあたしは、通りの向こうからやってくるたった一人の人影を見つけて、少し当てが外れて立ち止った。
―― 霊、じゃない……人間?
そのひとの姿がはっきりするにつけ、これまでとは全く違う感情から、あたしはその場に棒立ちになる。
同時にそのひとも、あたしを見つけて立ち止った。
真っ青な冬の空の下にたたずんでいたのは、二十代半ばくらいの女の人だった。
染めたことなんて一度もなさそうな、艶々した黒髪をキリッと頭の後ろで結いあげていた。
ポツンと小さな唇に、真紅の口紅を差している。黒目がちな、おだやかな瞳をしていた。
派手な顔立ちじゃないけど、少し横幅のある弓型の双眸が和風で、平和な雰囲気をつくっている。
―― 竹久夢二、だったっけ……? 大正時代の絵葉書みたいな人だな……
図工の教科書に出てきた絵が頭に浮かんだのは、そのひとが着物姿だったからだ。
ベージュの無地のきものを着ていて、椿柄の真っ白い帯を締めていた。
白い椿が繊細なタッチで表現され、中央から少しそれたところに一輪だけ、紅椿が描かれているのがハッと目を引いた。
儚げで、でも凛としていて、汚れがない。……あたしは、こんな印象の女の人を初めて見た。
ちらり、と白いものが視界を通り過ぎて、あたしは思わず空を見上げる。
雪なんて降っていたっけ?
晴れ渡る空。気まぐれに降る雪。背筋を伸ばしてすっと立つ、凛としたたたずまいの女の人。
現実離れした雰囲気に、あたしは思わず見とれた。
Last updated 20190214