そのひとは、玄関のドアに手をかけたまま突っ立っているあたしと、隣のクロサキ医院の看板とを見比べた。
「クロサキ医院の、娘さん?」
しっとりと落ち着いた声だった。あたしはひとつ、こくんと頷く。
普段のあたしを知る人から見たら、内気な態度に吹きだすか、ひどく意外に感じるかもしれない。
でもあたしは、大人の女の人が苦手だった。「苦手」と言い切ると少し違うかもしれないが。
決して嫌いじゃない。でも、あたしの生活圏内にはいないから、手が届かなくて、どこかまぶしい存在だった。
ましてや、あたしとは正反対な、しとやかな空気をまとわせた人。よく見るとまるで人間じゃなくて、花や蝶みたいだった。
「あの」
あたしは、少しためらいながら、そのひとが手にしている籠を指差した。
手提げの部分がついている。両手のひらで軽く抱えられるくらいのサイズのバッグだ。
「急に、変なこと聞くんだけど。何、持ってるの?」
「え?」
そのひとは、虚をつかれたような顔をした。
「その、籠……ていうか、籠の中。何か変な感じがする」
「……分かるの?」
そのひとは驚いた顔をして、あたしの顔を見つめなおす。「分かるのか」ということは、彼女自身も自覚があるということ。
あたしが言い募ろうとした時だった。その人の背後に現れた影に、思わず声を上げた。
「ちょっと! 後ろ、後ろ!」
この女の人を見たとき、霊の気配のことが一瞬頭から飛んでいたが、忘れてる場合じゃなかった。
何人もの霊がわらわらと、そのひとの後ろに近づきつつあった。
老人もいれば男も女も、子供もいる。見るからにたたりそうな、おどろおどろしい様子じゃないけど、その女のひとに向かっているのは間違いない。
いや……正確には関心を持っているのは、彼女が手に持っている籠の中の何か、か。
「何もいないわよ」
女の人は後ろを振り返ったけど、不思議そうな顔をしている。どうやら、霊は見えないらしい。まあ、それが普通だけど。
その肩に、中年の男の霊が手を伸ばそうとする。指に剛毛が生えたようなむさい男が、その華奢な着物に触れそうになるのを見て、あたしは思わず、鳥肌が立った。
「説明は後でするから! とりあえず、家の中入って!」
女の人に対する厄介な苦手意識は頭から追い払い、そのひとに駆け寄る。
いくら害がなさそうな霊とは言っても、こんなに大勢につきまとわれていい影響がありそうには思えないし。
第一、この女のひとはもともとクロサキ医院に用がありそうだし。
そのひとは戸惑っていたけど(当たり前か)、あたしの剣幕が分かったのか、どうしてなのかと聞いたり、振り払ったりすることはなかった。
彼女を玄関の中に入れて、バタンと扉を閉める。そして、玄関の前まで迫っていた霊たちと向き合った。
「こっから先は侵入禁止。帰ってよ」
霊を見たら、基本は無視。気づかない振りが一番だ。
でも話さなければいけない時は怯えた様子は見せず、毅然として口を利くに限る。
霊を見て悲鳴を上げない人間は少ないから、それだけで相手の出鼻はくじける。思った通り、霊たちは互いの顔と顔を見合わせた。
そして、示し合わせたようにあたしに視線を戻す。
「あの女、不思議なものを持ってるだろ」
「よこせ」
思った通り、そう言われた。やっぱり、とあたしは心中つぶやく。
「あのひとが何を持ってるのか知らないけど。どうするのさ、手に入れて」
「手に入れたら、ご利益があるかも」
「はぁ? もう死んでるのに、今さらご利益なんてないって。神様を信じる気持ちがあるんなら、さっさと神様のとこ行きなよ」
「人間」ていうのが一種の病だとしたら、それは文字通り死んでも治らないもんだと思う。
なんやかんや言いあった末、半ば無理やりお帰りいただいた後、あたしはそーっとドアを開ける。
声は小さめにしていたけど、玄関にも少しは聞こえていただろうと思うと気まずい。
ドアを開けたとたん、ふわりと柔らかな和風の香りが漂ってきた。
着物のにおいとは違う、和風の香水のようなものだろうか。
そのひとは、きちんと両手で籠バックの取っ手をもったまま、背筋を伸ばして立っていた。
「あの……さ」
目が合うとやっぱり妙に、口ごもってしまう。
「患者さんじゃないよね。ウチの、誰かに用?」
患者さんは、無意識に悪いところをかばうように歩くけど、このひとには全くそんなところはない。
会いに来たのは一兄か、と一瞬思って、NO,とすぐに結論を出す。
親父……? と次に頭をよぎり、すぐに打ち消す。NOというかNGだ。
一兄に、こんな年上のお姉さんを射止める甲斐性はないと思ったし、親父にこんな年下の綺麗な人を射止める……以下略。
だからと言って、遊子の知り合い、というのも考えづらかった。
そのひとは少しためらった後、籠の蓋をあけて、一枚のはがきを取り出した。
それを示された瞬間、「あっ」とあたしは思わず声を上げる。同時に、なんとなくの経緯を理解していた。
だって見間違えようもない。そのはがきの冒頭には堂々とした筆跡で「日番谷冬獅郎」と書かれていたからだ。
どうやら連絡先を伝えるものらしく、氏名の下の住所欄には、なぜかクロサキ医院と書いてある。
渡されたはがきを裏返すと、住所欄には風流な女文字で「なつめ堂」とあった。
「この名前、覚えはある?」
遠慮がちに女の人が尋ねてきた。その声音に、あたしはなんとなく察した。この人、冬獅郎の正体を薄々知っている。
とはいえ、どこまで伝えたものかも分からないし。あたしも用心深く答える。
「……うん。よく知ってるよ。一……うちの兄貴の、知り合い」
決して間違ってはいないはずだ。
「やっぱり、そうなのね」
女の人はほっとした顔をした。
「なつめ堂、ていうお店で、冬獅郎が書いたもんなの? これ」
「わたしがやってる、アンティークきもののお店なの。冬獅郎くんはお客さんで、そのハガキは会員登録証を発行する時に書いてもらったものなの」
「へぇ……」
あたしは、うまくリアクションと取れずに、それだけ返した。
遠慮があった、ということもあるけど、このひとが冬獅郎のことをどこまで知っているのか分からない、ということもあった。
そのハガキの記入欄を見ると、氏名、住所のほかに、職業、年齢欄もある。さすがに職業と年齢は空欄のままだった。
もしも冬獅郎が死神だと知ってたんなら、これを書かせようとは思わないだろうし……もし分かっててやったなら、けっこう押しが強いと思う。
これを渡されて、うぅんとうなっただろう冬獅郎を想像し、ふっとおかしくなる。
それにしても、もしあたしがこんなものを渡していたら、「こんなん書けるかよ」と突っ返されていただろう。あたしはあらためて、そのひとを見返した。
「ごめんなさいね、まだ名前を言っていなかったわね。わたしは、村上棗といいます」
「あ! あたしは、黒崎夏梨。小学四年生……」
そして、付け加える。
「冬獅郎は、あたしの親友でもあるんだ」
そう言うと、
「そうだと思った」
そのひと……棗さんは、穏やかに微笑んだ。
**
「なるほど。冬獅郎から預かってるものがあって、返したいんだ」
「そうなの」
こぽこぽ、と音を立ててティーポットから紅茶を注ぐ。遊子の見よう見まねだけど、ひとつを棗さんの前に置く。
「ありがとう」
リビングの遊子の椅子に腰掛け、礼を言って受け取った彼女をあらためて見ると、やっぱりこの家の玄関をこれまで跨いだことがない人種だと、思い知らされる。
縁がなさすぎて、まるで合成写真を見ているみたいだ。
結いあげられた髪、白い肌に乗った淡い化粧、口紅、きものの匂い、どれも今まであたしには縁がないものだった。
見るたびにドキリとする。それは、このひとがきっとどこから見ても「女」だからだろう。
「でも、そんな急ぐものなの? 時々、その『なつめ堂』には来るんでしょ? 次にあいつが来るまで、持ってたらダメなのか?」
あたしが素朴な疑問を口にすると、棗さんは何とも言えない、微妙な苦笑を浮かべた。
「なんというか、説明が難しいんだけど……これを、見てほしいの」
そう言って、隣の一兄の椅子の上に置いていた、籠バックを取り出す。そうか、そこでそれが出てくるのか。
あたしが見つめるなか、棗さんは鉄の重りのようなものを取り出して、テーブルの上に置いた。
キンセンカに似た形のそれを見下ろしてあたしは沈黙し、次の瞬間、その正体に気づいた。
「なんだこりゃ……これ、あいつがいつも刀を担いでる紐についてる飾りだ」
「刀留めね」
一体なんでこんなものを、棗さんに渡したんだ。訳がわからん、と思った時、今の会話の意味に気づく。
あたしが見返すと、棗さんもまるで秘密を分け合ったみたいに、少しいたずらっぽく笑った。
これが何か分かる、という時点で、冬獅郎の死神姿を知っている、ということだ。
「……触ってもいい?」
「どうぞ」
あたしは、その刀留めを手に取る。ずっしりと重く、同時に腕の辺りがぞわりとした。
手首の辺りから肩まで、鳥肌がフツフツと立つような感じだ。
無理もないか、と思う。あれほど強い力を持っている冬獅郎が、いつも身につけているものなんだ。
磁石に近づけた砂鉄が磁力を帯びるみたいに、影響を受けてもおかしくなさそうだ。
だいたい、わらわらと霊が群がっていたのも、ぜったいこれのせいだ。
「預かるよ、これ。普通のひとが持っていたら危なそうだし。……兄貴は、こういうのに強いんだ。冬獅郎と今連絡は取れないけど、関係あるひとはしょっちゅう来るから近いうちに返せると思う」
ルキアちゃんのことが頭によぎっていた。
そして、ふっ、と気づく。棗さんの立ち居振る舞いは、少しルキアちゃんに似ている、かもしれない。
「でも……」
棗さんはとっさに手を伸ばしかけて、ふつりと言葉を切った。
「不思議なことが起こるわよ」
霊が追っかけてくるだけでも十分不思議だけど、この人には見えていなかったはずだ。
なんだろう、と考えた時、彼女の背景にちらちらと漂っていた雪を、思い出した。
「……寒くなるとか。雪が降るとか?」
「よくわかるわね」
棗さんは目を丸くした。
「冬獅郎のヤツ……一体何やってんだ」
らしくない行動をすると思う。あいつは氷を操る力を持っているみたいだから、影響があるとすればそんなところだろうけど。
そんな面倒くさいものを、なんでこの人に置いていったのかが本当に不明だ。
「だから、ここに置いていったら、この家の周りはずっと雪が降ることになると思うの」
「あー。いいよいいよ。さっき見た程度の雪なら。ウチに来る患者さんが足滑らすこともないだろうし。うちの人、あんまりそういうこと気にしないし」
「そう……なの?」
「うん」
親父と一兄は「へぇ」で済ませそうだし、遊子に至っては「キレイ!」とはしゃぎそうだ。
「それにしてもさ。預かったってまた、どうして? 預ける理由がわかんないよ」
「それはね」
棗さんは苦笑した。ティーカップをすっとテーブルに置いて、話を続ける。
「もらったのは大晦日なんだけど。『お年玉だ』って言って、置いて行ったの。かなり、酔っ払ってたみたいで……」
「なにそれ……じゃ、今頃気づいて、慌ててるんじゃないの?」
「と思ってたんだけど、もうあれから1日以上経っているし。わたしに預けたことも、覚えてないのかもしれないわ」
「ダメじゃん! しょーがねぇ奴だな、あいつ……」
「一応、わたしがいない時に取りに来るかもしれないと思って、手紙は置いてきたけど……」
冬獅郎が酒に弱い、というのは初めて知った。ていうか、あいつはあたしの前では、格好つけてるけど、そういう面もあったのかと思う。
「とりあえず、預かっておくよ。もし冬獅郎が棗さんのお店に来たら、ここにあるって伝えてくれたらいいし」
言ってみて、なんだか声が弾んでいるみたいだと自分で思う。
なんだかんだ言って、冬獅郎とまた接点ができたのは、ちょっと嬉しくもあった。
あたしが立ちあがった時、棗さんの視線が台所の方へ向けられる。そして、すぐにちょっと腰を浮かした。
「お昼ごはんの支度中だったのね。忙しい時に、ごめんなさい。でも偉いわね、ひとりで料理の支度ができるなんて」
「……う」
なんの悪気もない言葉に違いないけど、あたしはエビや錦糸卵の残骸を思い浮かべて自己嫌悪に駆られる。
この騒動ですっかり忘れてたけど、そういえばあれをどうしたらいいんだ。
椅子を元の位置に戻して立ちあがった棗さんは、あたしが言い淀んでいるのを見て、視線を止める。
「どうしたの?」
「……あの。あの、さ」
勇気を振り絞って、あたしは打ち明ける。
「チラシ寿司作ろうとしてるんだけど、作り方わからなくて。困ってるんだ。……作り方、分かる?」
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