いつから。ひとりの夜がこんなにおそろしくなったんだろう。
そう思いながらあたしは、座敷に敷いた布団を見下ろす。
ゆらゆらと揺れる、行燈の明かり。目を細めるくらい眩しいけど、その後ろには暗い暗い影が差している。
こよりの火を吹き消した後も、その暗さだけがあたしの瞼に焼きついた。
この世界は、暗い。
あたしの心も、闇でいっぱいだ。

枕に頭をおとす。きぃん、と音がする。耳鳴りだと思うと、どんどん音は高く、頭全体に響きだす。
どくん、どくん、と心臓が早く強く打ち始める。いけない、とあたしは頭を他にそらそうとする。
前は、一体どうやって、こんな孤独な夜を過ごして来たんだろう。真っ暗闇の中で、考える。

この広い隊舎のなかで、たったひとり、こんな夜更けにも部屋に明かりを灯し、机に向き合っていたあの人。
そのなだらかに広い背中を思い出す。墨を磨るかすかな音を聞くのが好きだった。
そうだ、あたしは眠れない夜はかつて、あの人を想い出して、そのたび気持ちを落ち着けていたんだった。
「……藍染隊長」
名前を口にした傍から、目じりに涙が浮かんだ。
みんなの前で口に出すと、そろったように心配そうな顔をされるから、意識して唇に乗せないその名前。
本当は、話したかった。藍染隊長の思い出が、全部身体から流れ出してしまうくらい全て。

怖い。
夜がこれほど恐ろしいのは、子供のころ以来だと思う。
娯楽なんてない流魂街の数少ない夏の遊びが、怪談。
あたしは、そういう話が人一倍嫌いなくせに聞いてしまっては、夜眠れなくなっていた。
そんな時、一緒に暮らしていたあの子にせがんで、手をつないで眠ってもらっていたっけ。
……あの子は、今も近くにいるけれど。あたしに直接話しかけてくることはもうないから。

子供のころは幸せだった、って思う。
あの頃の恐怖の源は、外からやってくる怪物とか幽霊だったけれど。
今のあたしの恐怖の源は、あたしの心の中にある。どこにも逃げられない。

全力で走った後みたいに、鼓動が速い。身体が強張る。息が荒くなる。
おかしくなっちゃう。震える身体を自分で抱きしめた時、かすかな音がした。

「……なに?」
目が慣れて来たせいで、障子の向こうは少し明るく見える。
外は曇っているけれど、月の光はわずかに漏れているらしい。
さりさりと、小さな音は障子から聞こえている。
虫? 動物か。そう思った時、さくっ、と障子紙がやぶれる音がした。
ピンク色の小さなものが闇の中に破れた障子の穴の向こうにうっすら見える。
あたしが身を起こすと、その小さなものは障子から一歩下がったようだった。
そして、破れた障子紙の向こうから、青い目が覗く。
「……子猫」
思いがけない訪問に、気が抜けた声が出た。まるで自分は子猫だ、と認めるように、にゃあと子猫が鳴く。
そしてあたしが制止するより先に、障子の穴に前足を突っ込み、べりべりと身体で穴を広げて強引に入ってきた。

「ちょっと……」
さすがに放っておけなくなって、部屋に入って来た子猫に歩み寄り、その両脇に手を入れて高く持ち上げる。
子猫は、あたしと目を合わせても怯えた風には見えなかった。そのふてぶてしさに、あたしは夜になって初めて、クスリと笑みがこぼれた。
毛並みが真っ白なのが暗がりの中でも分かる。にゃあお、とまた鳴く。ちらりと見えた舌のピンクに見覚えがある。
障子紙をこの舌で舐めて破いて、穴を作ったのか。それにしても一体どうして、この部屋にそこまでして入りたかったのかは分からないけど。

「おなかがすいてるの?」
首輪をしていないけど、痩せてはいないからどこかの貴族の飼い猫が迷い込んだんだろう。
「眠いの……?」
子猫にしては、動きが緩慢だし、きっと眠いんだろう。
あたしはそう結論づけて、布団の中に子猫を連れてもぐりこむ。

抱きしめようにも小さすぎるし、言葉も通じない、あたしの二の腕に体重を預けた小さなあたたかい動物。
でも、さっきまで胸を叩いていた鼓動が、いつの間にか聞こえなくなっている。
代わりに、ごぅろごぅろと子猫の喉が鳴っているのが、夜の底にずっと聞こえている。
まるで揺さぶられているように、少しずつ眠くなる。

ふ、と目を開けると、暗がりの中から子猫の目が、じっとあたしを見ていた。
撫でてやると、目を細くする。
「……ありがとう」
気づけば、そう言っていた。


***


気づいたら、翌朝になっていた。
「……あの子、は?」
腕の中にいたはずの子猫は、どこにもいない。
布団をまくってみたけど、確かにいたはずの姿はどこにもなかった。
夢だったのかしら、と起き上がり、障子を見て……思わず苦笑してしまう。
その障子には子猫がくぐれるくらいの穴がすっぽりと開いていたから。

穴を閉じるのは、もうちょっと後にしよう。
穴の向こう側では、梅雨明けにふさわしく明るい日の光が見えた。