朱色の大きな円盤みたいな太陽が、はるか遠くの稜線の下に沈もうとしていた。ここしばらく雨が降らないせいで、空気は乾燥してる。継ぎだらけのひざ丈の単衣を着た子供たちが何人か、歓声をあげてあたしの脇を駆けぬけて行く。土ぼこりが、ふわっと白い道に立った。軒先を通ると、お風呂がわく匂いとか、煮物をつくる匂いが家から流れてくる。その匂いを嗅ぐと、なんとも言えず懐かしくなる。この潤林安で過ごした子供時代のことが、今窓から流れる湯気みたいに、ふわりとあたしの頭の中に流れ込んでいく。

 白道門の傍を通りかかった時、上から大きな太い声が降って来た。
「おお、桃でねぇか。早ぇんだな」
10メートルくらいはある巨体を揺らし、こちらを見下ろしているのは児団坊さん。下から見上げると顎の真下あたりしか見えないが、ちらちら見える大きなふたつのドングリ眼が人懐っこい。
「早引けなの」
あたしはそう答えたけど、仕事が早く引けるのは今日だけじゃない。まだ胸の傷が完全には治っていないから大事を取って、あたしは通常勤務より二時間も早く仕事を終えることを許可されている。他の人たちが忙しそうに働いている中気が引けるけど、卯の花隊長から厳しく言い渡されているから、指定の時間を超えて働くことはできない。誰も、そのことについて文句を言うどころか、あたたかい言葉をかけてくれる。たまに、その優しさが切なくなるほど。
「そうか」
にっこりと笑う児団坊さんの表情からは、彼がどこまで知っているのかは分からない。
「ばあちゃんのとこさ、行ぐのか?」
「ええ。今晩、泊まろうかと思って」
その問いかけには自然と笑みがこぼれた。「たまには帰っておいで」と手紙が来ていたのだ。おばあちゃんは、あたしが怪我をしたことを知らない。だから安心できた。
「そか。たっぷり親……じゃねぇな、婆さん孝行してやれ」
笑って手を振って、児団坊さんとは別れた。

 歩きながらふと思う。そういえば、あの子猫。寝床の暖かさが気に入ったのか、時々ふらりとやって来るあの子猫は、今夜は来ないだろうか。一体どこへ行くのか、出て行くところを追いかけようと思ったけど、朝が弱いあたしが起きた時には必ずいなくなっている。と言っても、あたしが今晩いないことを猫に知らせる手段なんてない。けど、少し申し訳ないような気持ちになる。なにか、あの子にお土産を買っていってあげよう。猫だから、鰹節がいいのかな。

 あたしが育った家は、白道門からは歩いてすぐだ。地面に土台もなく、そのまま建てられた掘立小屋のような貧しい家が続く。滑らかに開け閉めできずにガタガタ言う引き戸。屋根も壁と同じ板張りで、申し訳程度に大きな石がいくつか重しに置いてある。うちも似たようなもので、何度も建て替えるか、いっそ瀞霊廷に来ないかと誘ったけど、おばあちゃんは今の暮らしがいいといつだって、皺を深めるようにして笑う。
 家へ帰るのは、実に半年ぶりになる。第一声、おばあちゃんに何を言おうかと思った時、話し声がした。一つは低い、しわがれた女の人の声……おばあちゃんだ。もう一つは高くも低くもない、男の子のアルト。とたん、あたしの背中は板を通したみたいに強張った。

――シロちゃん。
 あの子が帰ってきているなんて、知らなかった。もっとも、あの家が実家なのはあの子も一緒だから、不自然ではないけれど。以前のあたしなら、あの子も帰ってきていると知れば、ますます嬉しくなっていたと思う。いつもは「シロちゃん」と呼ぶと不機嫌になるあの子も、おばあちゃんの前でだけは「日番谷隊長と呼べ」という決まり文句を口には出さない。家族水入らずで、一晩すごしただろう。
 今だって、シロちゃんのあたしへの気持ちは当時から変わっていない。それは信じている。でも彼とは、「あの」一件のあと、一度も口を利いていない。目を合わせたことすらない。もっとも戦いの事後処理ばかりで彼がほとんど瀞霊廷にいないと聞いてはいたけど、それにしてももう戦いの終結から三カ月は経っている。何事もなかったかのように接するには、時間が経ち過ぎていた。それに、今ズキンと痛んだ胸の傷が、あたし自身が「あれ」を受け入れられていないことを示している。
 自分だってかつて彼に戦いを挑んだ。本当に彼が藍染隊長を殺したのなら、……斬る、つもりでいた。それが成らなかったのは単純に、彼のほうがあたしよりも強かったからだ。そんな自分が、彼を責める権利なんてもつはずがない、分かっている。でも、あたしに向けて一直線に刀を繰りだしたあの瞬間の彼の殺意に満ちた顔、突き入れられた刃の熱さを忘れることは、一生ないだろう。

 そっと霊圧を消し、家へと歩み寄る。隣の家の軒先に隠れるようにして覗いた。ふたりの姿は、すぐに見つかった。日番谷くんは屋根の上に腰を下ろしていた。刀も隊首羽織もない、死覇装だけの身軽な姿だ。何をしているのだろう、と少し身を乗り出すと、右手には金槌を、左手には釘を持っている。ものめずらしそうな手つきで、金槌を振り下ろす。カン、と乾いた音がした。
「どうだい? 直りそうかい」
おばあちゃんが家の前に立ち、屋根を見上げている。手には隊首羽織を抱くようにして持っている。
「どうかな」
なんだか頼りない返事だ。大工仕事なんてほとんどしたことがないだろうから、当たり前かもしれない。ぴしゃりとおばあちゃんが返した。
「そんなへっぴり腰じゃ駄目だろうね」
「なんだよ、その突き放した言い方!」
日番谷くんの口調が尖る。同僚の隊長さんや、乱菊さんたちに対する口調とは全く違う。ここからははっきり見えないけど、口をとがらせているのが目に見えるようだ。
「お前は昔から、意外と不器用な子だったよ」
「そんなこというなら、頼まなきゃいいんだ」
日番谷くんはぶつぶつ言いながら金槌を使う。カァン、と澄んだ音が何度も響く。我慢できなくなったみたいに、おばあちゃんから朗らかな笑いがはじけた。
「その反応がおもしろくて、ついからかってみたくなるんだよ」
「何だよ、それ」
手を止めて、日番谷くんが眉を下げた。おばあちゃんに吊られるように笑いだす。あ、あの笑顔だ、と不意に思う。一緒に暮らしていた頃、彼は「よく」とは言わないけど、たまに笑ってた。その笑顔が意外なくらいに屈託がなくてかわいらしくて、めったにないだけに、何だか周りの空気が一段階柔らかくなったみたいに感じていた。

 いまなら、と思う。今なら、何事もなかったように、笑顔で日番谷くんに会えそうな気がする。
「ていうか、今やんなくていいだろ。この調子じゃあと一週間は雨降らねぇし。雨漏りなんかしねぇって」
天候をあやつる日番谷くんが言うのなら、本当なんだろうな、と思いながら、軒下からそっと身をのぞかせる。二人の姿が、まともに視界に入った。おばあちゃんがうぅん、とうなる。
「でも、これから桃が帰って来るからね。屋根が壊れてるんじゃあの子、心配しそうだしねぇ」
そこまで言ったおばあちゃんは、ふと言葉を止める。
「……どうかしたかい」
日番谷くんは、答えない。あたしは、反射的に身を引いていた。あたしの名前が出た瞬間、日番谷くんの横顔が強張るのを見てしまった。やわらかにほぐれそうになっていた気持ちが、再びキリリと弓を張る。……笑顔で迎えてもらおう、だなんて。甘かったことを思い知る。

「……別に」
日番谷くんはしばらくしてそう返したけど、さっきまでの子供らしさが残る声とは明らかに変わっていた。
「……桃と、どうかしたかい」
「なんでもねぇよ」
カァン、カァン、とリズムよく釘を打つ音が響く。
「なんだい、急にやる気だして」
あたしは、ふたりから見えない場所に腰を下ろす。釘の音を聞きながら、どこか祈るような気持ちになっていた。藍染隊長のことを心から信じ、そして裏切られたあたしにも、日番谷くんがあたしに向ける気持ちに嘘はないことは信じられる。藍染隊長はあたしの全てをめちゃくちゃにして去って行ったけれど、唯一壊そうとして壊せなかったのは、日番谷くんとあたしの間にある心だと信じている。ふたつをつなぐ橋は今、壊れてしまったように見えるけれど。どうか直りますように。直りますようにと、その場が薄闇に閉ざされ、釘の音が止まるまで目を閉じていた。