季節は移り、8月も末になっていた。
子猫が出入りしていた障子の穴は、偶然それを発見した隊士がふさいでしまった。
「雛森副隊長、仕事では几帳面なのに意外とズボラなんですね」なんて言われたから赤面してしまった。
それ以来、寝る前まではちょっとだけ障子を開けるようにしている。
隙間から流れ込んでくる風はしっとりと涼しかった。外には、絹糸のような雨が降っていた。
もうすぐ秋が来るんだな。机の上の硯や半紙を片づけながら、ふっとそんなことを思った。

寝支度をすませると、障子を少し開けてみる。縁側から雨にぬれた庭を見やる。
空には薄い雲がかかっていて、きっと満月なのだろう、月がある場所がぼんやりと明るく透けて見える。
やっぱり、涼しい。あたしはねま寝間着の襟元を掻き寄せた。

「いないのー? もう寝るよ?」
誰もいない暗がりに向かって声をかける。しばらく耳を澄ませていたけど、雨音すらしない。
あきらめて部屋に戻ろうとした時、とっ、とかすかな音がした。
「あ、いた!」
あの白い子猫が、いつ庭から上がって来たのか縁側にいた。外を駆けてきたんだろう、転々と小さな足跡がついている。
ぶるぶると体を振るわせて、身体についた水滴を跳ね飛ばした。
「ほら、おいで」
しゃがんで手招きすると、ちらりとこっちを見た後、とっとと近寄ってきた。

ふわりと手拭いをかぶせても、子猫は嫌がらなかった。でも、がしがしと拭くと、嫌そうに身をよじらせた。
ちょっと不機嫌そうなその身体を抱き上げると、いつものように布団にもぐりこむ。
「……あんまり、大きくならないのね」
初めて出会ってから、一カ月以上が経っている。その割に、この猫の身体のサイズはほとんど変わっていないように見えた。
まさか、両手で抱えられるようなこのサイズで成猫ということもないだろう。
「ねぇ」
明かりを落とした部屋の中で、子猫の青い目が鈍く光っている。
いつものように、交差させた前足に顎を載せている。人間が頬杖をついているようで、ちょっとおかしい。


猫は、あたしを責めないし、なぐさめないし、心配もしない。
誰もがあたしを気遣ってくれる、真綿にくるまれたような生活の中で、この猫だけが直に触れられるような気がしていた。
あたしは布団の中で、この子猫にいろんなことを打ち明けた。

藍染隊長のこと。裏切られたことはようやく腹に落ちたものの、どうしても憎むことができずにいること。
藍染隊長が残していった書物がふっと目に入ったり。何も知らない隊士に「藍染隊長はどうされたのですか」と聞かれたりするたび、胸が締めつけられること。
あたしが声をたかめても、子猫は驚いた素振りは見せない。時折、ぴくりと耳を動かすだけだ。聞いているよ、ということらしい。
あの動乱のさなかも、この子はこんな風に落ち着き払っていたのかもしれない。
慌てふためいていたのは死神だけで、あの時も自然や動物は変わらず時を刻んでいたのだ。

「ねぇ」
呼びかけると、ぴん、と耳先を動かしてみせる。初めは意味が分からなかったけれど、どうやら「聞いているよ」ということらしい。
「名前は……なに?」
もちろん返事が返って来るはずはない。首輪もしていないから、手掛かりは全くなかった。
あたしはその白い背中を撫でた。絹のようにすべすべとした感触が涼やかで気持ちいい。
「シロ、だよね。どう見ても」
あたしの想像力が貧しいのか、「シロ」としか思い浮かばない。
子猫はその青い目で、じっとあたしを見返して来た。瞳孔は深い藍色だ。
その藍色の輪をじっと見ていると、この世のものじゃないような不思議な感じがしてくる。
「でも、この名前だけはだめだよ」
すでにあたしには、「シロ」と呼ぶ人がほかにいるから。とはいっても、もう半年近くも全く口をきいていない。

家で鉢合わせしかけた一か月前、結局あたしには直接日番谷君と顔を合わせる勇気はなく、夜まで近くの森で暇をつぶしていた。
屋根の補修にぶつぶつ言っていたくせに、あたしの名前を出したとたんにやる気になったんだよ、と笑いながら言ったおばあちゃんに、うまく笑顔を返せたか自分でも分からない。
初めのころは、あまり気にしていなかった。一時的なもので、そのうち元の関係に戻れると思っていた。
一カ月くらいたって、不安になりだした。でもまだ大丈夫だと思っていた。
そして、半年経った今……心のどこかで、静かに諦めている自分に気づく。もうあたしたちは、二度と元には戻れないのかもしれない。

「他の隊長さんたちは、日番谷くんのことを褒めてるわ。最近、ものすごく腕を上げて来たって。
京楽隊長なんて、思ったより早く抜かれそうだ、なんて言ってるし。あの戦いで挫折したはずなのに、いち早く立ち直れてるって」

日番谷君が立ち直れているのなら、あたしは嬉しいのだ。あたしは彼を全く恨んでいないし、元の関係に戻りたいと思っているのだから。
逆にそれをバネにして、負けるものかと立とうとしているのだから、応援してあげるべきなのだ。
それなのに。さびしい、と思ってしまう、どうにもならないあたしがいる。
日番谷君は、前を向いている。どんどん強くなっていく。
瀞霊廷も、あれほどのことがあったのにどんどん復興していく。
今や、藍染隊長や市丸隊長、東仙隊長の名前を口にする死神はめったにいないし、空いた隊長職の次の候補の名前もあがるようになっている。

あたしだけが、あの戦いから一歩も前に進めずにいる。
それを思うと、身を切るように淋しくなるのだ。そして、どうすれば取り残されずにすむのだろうと、淋しさを焦りが追い越してくる。
にゃあお、と不意に猫が鳴いた。めったに鳴かないから、すこし驚いて我に返る。
もしかするとこの子は、あたしの気持ちを全て分かっているのかな。
細かな事情はもちろん理解できなくても、心の動きはなんとなく伝わるものかもしれない。
今も、あたしの気持ちによりそっていてくれるのが分かる。

「いい子ね」
やがてあたしは行燈の明かりを落とし、その背中を撫でる。髪を束ねていた赤いリボンを、するりとはずす。
子猫は、もう眠っているようだった。ぴくりとも動かない。そしてあたしよりも早く起きて、またいなくなってしまうのだろう。
あたしはいまだに、この子がどこで飼われているのか知らない。

ふっ、と思い立って、あたしはリボンの片方を自分の手首に、もう片方を猫の手首に結びつけた。
これなら、猫が動けばリボンが引っ張られて、あたしも起きられる……かもしれない。自信はないけど。
あたしは自分の思いつきにふふっと笑うと、それから間もなく眠りに落ちてしまった。