冬の青空の下、遠くの山々の更に向こうに、雪を抱いた富士山がくっきりと見えた。
山奥にある、とある道場の屋根には、数日前に降った雪が少し、残っていた。
風のない日で、日差しのあるところは春を思うほどに暖かい。しかし季節は師走で、まだまだ春には間があった。
道場からは間断なく、木刀が打ち合う激しい音が鳴り響いている。
裂帛の気合が空気を打ち、その響きで残った雪の一部が、屋根から落ちた。
「ま、参りました……」
木刀を道場の壁際まで吹っ飛ばされた男が、迫り来る男に青い顔をした。その隣には、肩を打たれ悶絶する男の姿。
門下生総勢50名が既に敗北し、床に転がっている姿は壮観でさえあった。
参りました、と言われた男は足を止め、木刀を肩に担いだ。
「オイオイ、俺に一発も入れられねぇようじゃ、名のある鬼は殺せねぇぞ」
一見して、偉容だ。胸元をあけた隊服から覗く筋肉ははっきりと形が浮き出すほどに鍛えられており、あちこちに古傷が残っている。
白髪で、顔にも幾つもの古傷があった。平均的な男性よりも頭一つ分背が高いのが厳つさを際立たせているが、目元は意外と涼しい男だった。
鬼殺隊の風柱、不死川実弥である。
一部始終を見守っていた一人の初老の男が、はっはっはっ、と朗らかに笑った。
右腕が肘から上で断ち切られているが、残った手足は丸太のように太く、鍛え上げられているのが分かる。
風の呼吸の育手の一人、飯嶋巌。実弥の呼吸の師匠に当たる男だ。
「分かっちゃいたが、やっぱり足元にも及ばないなァ。出来は悪いがお前の弟弟子たちなんだ、ちょっとは容赦してやれ」
「ものすごく容赦してますが?」
倒れた男達からうめき声が漏れた。飯嶋がパンパンと手を叩いた。
「ほらほら。鬼も逃げ出す風柱様が、わざわざ稽古つけてくれてんだ。こんな機会はめったにないぞ?」
叱咤されて、体のあちこちを押さえながらも門下生たちが立ち上がった。
「お、まだやるか?」
しかし、気力を振起してかかっていった男達は、数秒後にまた宙を舞う羽目になる。
「……この稽古の意義ってありますか?」
実弥が素朴な疑問を口にすると、師は笑った。
「これが狙いなんだよ。鬼に遭遇しても、お前相手よりもマシだと思って戦えるようになるかなと」
「……人を何だと思ってんすか」
「まぁまぁ。そろそろお開きにするか。甘いものでもどうだ? いまだに好きなんだろ、おはぎ」
「……」
押し黙った風柱に、門下生たちが笑いを堪える。甘味好きの噂は本当らしい。
「参りました。鬼みたいに強いですね……この道場で、私たちみたいに修行をしてた頃があるとは思えないです」
それぞれに濡らした手拭で傷を押さえながら、門下生達が実弥の近くに集まってきていた。
実弥は立ったまま、道場の中をざっと見渡した。どこに何があるか、昨日まで住んでいたかのように覚えている。
しかし実際のところ、ここで修行を終えてから、すでに5年が経過していた。明日の命も知れない鬼殺隊にとっては、長い年月だ。
「子供の頃から、剣術や体術を習われたのですか?」
「いや、鬼狩りを始めたのが先で、その後にここで修行してる」
というと、一様に絶句された。
「風柱様は、まだ柱になっていない時に、下弦の壱に軽傷で勝ったんですよね。やっぱり柱になる人は、出だしから俺達とは違うんですね」
感嘆の声が周囲から漏れたが、それを聞いた実弥の肩がぴくりと揺れた。
返事をせずにそのまま立ち上がり、大股で道場を出て行ってしまった。肩を竦めてそれを見送った門下生たちは、顔を見合わせた。
「俺、なんか気に障るようなこと言ったっけ?」
「さあ……」
渡り廊下に出た実弥の背中に、師が声をかけた。
「忙しいところ、わざわざ呼び寄せて悪かったな。静のワガママだ、許せ」
実弥は肩越しに振り返った。少し意外そうな顔をしていた。
「娘さんが、俺に何の用です?」
「さぁ?」師が首をひねった。「聞いてないが、昔話でもしたいのかね。会ったら適当に話を合わせてやってくれ」
「はぁ……」
実弥は少し肩をすくめ、彼には珍しくあいまいに返すと、道場を後にした。
準備運動にもなりゃしねぇ、と思っていたが、それでも小一時間打ち合えば体は火照り、外の冷たい空気が心地よく感じられる。
修行時代、毎日使っていた井戸で水を汲んで前かがみになり、桶に一杯に汲んだ水を頭に被った。
犬のように髪から水を払った時、
「お疲れさまでした」
と声がかかり、白い手拭が差し出された。礼を言って受け取り、頭をがしがしと拭いた。
顔を見なくても、声の主が誰なのかは分かっていた。手拭を肩にかけて、相手を見下ろした。
「ご無沙汰しています」
こちらこそ、と穏やかな表情で返したのは、師匠の娘にあたる静だった。確か今はもう20代後半のはずだ。長い髪を、後ろでひとつに束ねている。
厳つい父と比べて細身だが、きりっと上がった目尻のあたりがとてもよく似ている。
静の目線は、実弥の左腕に残る、大きな傷跡に向けられている。
「……ずいぶん、あの時の傷が薄くなりましたね」
「ああ」実弥は腕の傷を見やった。「あれから四年、経ちましたから」
「もう、四年」静は目を細めた。「……あなたに会えて、嬉しいです」
「あなたは俺を嫌ってたはずですが」
実弥が皮肉でもなくそう返すと、静は一瞬目を見開き、それから笑い出した。
「ええ、そうでした。あのひとが生前、いつもあなたのことばかり話していましたから。ただの焼きもちです。本当は、あなたのことも好きでしたよ。
……あの時は、ひどいことを口にしました。許してください」
そう言って、実弥に頭を下げた。
その時、たどたどしく「母ちゃん」と声がした。そちらを見ると、2歳くらいの男の子が、危なっかしく赤ん坊を抱き、こちらを見ていた。
大柄で厳つい実弥を見上げて、ヒッと一瞬悲鳴を飲み込んで静の影に隠れたが、興味津々で後ろから見上げてくる。静が男の子の頭を撫でた。
「結婚したんですよ。あの時はもう、死ぬほどに辛かったはずなのに。薄情なものです」
「どんな目に遭おうが、転んだままってわけにはいかないでしょう。生きてる以上、また起き上がって前に進まなきゃならない。当たり前のことだ」
静は、まぶしそうに実弥を見上げた。
「……大人になったのね。今は、確か……」
「先月で22です」
「匡近さんと同じ歳になったのね。……そんな、優しいことを言ってくれるなんて。ありがとう、実弥くん」
***
ちょうど四年前の、冬。
実弥は育手である飯島巌の下で、鬼殺隊見習いとしての一年の修行期間を終えた。
真新しい鬼殺隊の隊服に袖を通し、道場の前で「お世話になりました」と飯嶋に頭を下げた。
「荷物はそれだけか? そんな軽装で明日からどうするんだ。とりあえず昼飯はあるか? 金は持ってるのか」
「先生。子供じゃないんですから……どうにでもなります」
体中古傷だらけの、名前にたがわぬ厳つい男だが、面倒見がよく温かい男だった。
一年前、氷のようにこわばった心でこの門をくぐったことが、遠い昔のように思い出される。
鬼を殺すか、鬼に殺されるかしか考えてなかった子供が、この一年で鬼殺隊員として生きていく術を学んだ。
月並みな言い方だが、心から感謝していた。実弥は心配そうな師を見て、笑った。
「お世話になりました」
頭を下げる。
「お前の育手になれて、私も幸運であったよ。間違いなく、私の育手としての経歴の中でお前が一番弟子だ。柱になるのは時間の問題だろう。励めよ」
「柱になろうが、なるまいが、かまいません。……全ての鬼は、この手で殺します」
実弥の目に、冥い光が渡った。修羅場を数多く見てきた目だった。ぽん、とその頭に大きな掌が置かれた。見返すと、師のあたたかい目があった。
「難儀な星の下にうまれてしまったな。お前は、亡くなった家族の分まで幸せにならなければならないぞ。……ここが親元と思って、いつでも帰って来い」
門の外に出て、突き抜けた青空を見上げた。ぽっかりと目の前に現れた自由。
鬼殺隊から不定期に来る鬼の討伐指令さえ従えば、後はどこで何をしていてもいいという。
どこででも生きていける自信はあったが、そのために今の今まで何も決めていなかった。
―― 今更、故郷に戻ったってしかたねぇしな……
家族はすでにほとんど亡く、唯一生き残った弟も行方不明のままだ。
―― 人殺し!
はっ、とした。二年前に弟から投げつけられた言葉は、今でもこんなに鮮やかに、突然頭の中に蘇る。
二年前。母と、きょうだい7人で貧しいながらも幸せに暮らしていた日々は、母が鬼と化したことで地獄に変わった。
生き残ったのは実弥とすぐ下の弟の玄弥だけで、実弥は玄弥を守るため、母を殺さざるを得なかった。
玄弥にとっては、目の前で冷たくなっていく弟妹たちを看取り、外に飛び出せば鬼と化した母を兄が斬り殺しているなんて、どれほどの衝撃だっただろう。
弟の現在の所在が気にならないと言えば、嘘になる。
ただ、何が何でも探し出すのも、謝罪するのも、今となってはもう、弟のためにはならない気がしていた。
そう思う一番の原因は、稀血、という鬼を引き寄せる自身の体質にあった。
弟を巻き添えにする可能性を考えれば、再会できたところで近くにはいられない。
一人でも生きていける知力も体力もある、自慢の弟だった。どこかで自分なりの生活を見つけ、暮らしていると信じていた。
足を踏み出そうとした時、おーい、と声をかけられた。
「ああ良かった。間に合った」
大きく手を振りながら、柔和な笑顔を顔中に広げてやってきたのは、粂野匡近。
黒髪を短く刈り上げており、色白で、大きな目と口元が優しい青年だった。右頬に鬼にやられた時の古傷がなければどこかの書生のようで、とても荒くれ者揃いの鬼殺隊員には見えない。
しかしその一方で、鬼殺隊としての経歴は5年と鬼殺隊員としては古く、最も柱に近い甲階級の隊員として有名だった。
修行期間は被っておらず、とうに鬼狩りとして自立していたが、実弥には兄弟子にあたる。
「ちょうど出て行くところだった。久しぶり……でもねぇなぁ、匡近」
「しょっちゅう会いに来てるのに、何にも言わずに行っちゃおうとするあたり、薄情だなぁ実弥は」
「どこかに落ち着いたら手紙くらい出すつもりだったぜ」
「字、書けたっけ?」
「……ひらがなくらいは書ける」
匡近はへたくそな字が書き連ねられた手紙を想像したのか、声を立てて笑った。それにしても、と目の前の実弥を見上げ、ふわふわと逆立った髪を掌で押さえた。
「先月会ったばかりだっていうのに、また背、伸びた? そして抜かれた? 髪型のせいだよな、そうに違いない」
「お前だって髪の毛逆立ってんだろ? 俺のほうが上だ。17だしまだまだ伸びるぞ。お前は22だからもう駄目だな」
「駄目って何だよ、ひどいなぁ」
それほどひどいとも思っていなさそうに言うと、陽だまりのような温かい笑みを広げた。
まるで弟に背丈を抜かれた兄のように、嬉しそうだった。
匡近との出会いは一年前にさかのぼる。
母とほとんどの弟妹を失った実弥が、復讐心から自己流で鬼を狩っていた時に、同じ鬼を追っていたことが縁で出会った。
あの時は全ての世界が色を失っていて、その中で鬼だけが悪夢のように毒々しい色合いで次々と立ち現れていた。
無謀なことをしていると分かっていたが、鬼と戦う時に負う傷の痛みだけが、当時の実弥に生きている感覚を与えてくれた。
他の人間と会話を交わした記憶もほとんどない。その中で、匡近だけが実弥の心に踏み込んできた。
―― どうしてだろう。
その時の心の動きを、実弥はうまく説明できない。
匡近は、呼吸も日輪刀も知らず、手当たり次第に武装して、日に当てて鬼を殺していた実弥のやり方に驚いていた。
その上で、このままでは近日中に命を落とすこと。どうしても鬼を狩りたいなら、方法を学ぶべきことを、笑みを浮かべながらもはっきりと告げてきた。
早くどこかに行け、と思っていたし、事実態度にも出ていたはずだが、何時間でも粘り強く説得してくれた。
あんな無愛想で無謀な子供一人、放っておいても良かったはずなのに。
―― 「なんで俺に構うんだ。何の得がある」
根負けしつつ訊ねると、匡近はうーんと笑みを消さずに首をひねった。
―― 「僕は、鬼に一家を全員殺されているんだけど。死んだ弟に君が似ているから、かな?」
―― 「俺に似てるなんて、ろくでなしの弟だな」
そう言われて怒るでもなく、匡近はふっと笑みを広げた。
―― 「君はろくでなしなんかじゃないよ。人より辛い思いをしてきただけだ。僕にはそれがわかる、気がする」
もちろん、同じような境遇だと告げていたわけでもないのに、匡近はあの時そう言って、実弥の肩を優しく抱いた。
その人の手のあたたかさは、母が死んで以来、初めて感じるものだった。口元に浮かんでいたあらゆる罵詈雑言は、体の中で溶けていった。
気づけば匡近の背中を追い、育手の飯嶋を紹介されていた。そうでなければ近いうちに鬼に殺されていたはずだから、彼も命の恩人にあたる。
育手に紹介してそれまでと思いきや、何だかんだと理由をつけて、修行中の実弥を定期的に訪ねてくれていた。
意外と甘いものが好きだと知って、あちこちのお土産の甘味をいつも携えて現れるので、内心かなり楽しみにもしていた。
人懐こい笑みで、相手の懐に入りこみ、人の心をかっさらっていくのがうまい。そして意外なくらい強引に、自分の思うほうへ人を動かしてしまう。
不器用な自分とは正反対だ、と常々実弥は思っていた。
「で。はるばる、何しにきたんだよ?」
今も、実弥にはこんな言い方しかできない。匡近は頓着せずに笑った。
「何しにって、かわいい弟弟子の出所日だから来たんだよ。先生から近いうちに寄るよう言われてもいたし、日にちを合わせてもらったんだ」
「出所って、刑務所みたいに言うなよ」
実弥が言うと、匡近は噴出した。その時、門の向こうで足音が聞こえた。
二人が振り返ると、静がいた。男やもめの飯嶋が目の中に入れても痛くないほどに可愛がっている、一人娘だ。
匡近よりもひとつ年上の23歳で、長い黒髪が美しい、気の強そうな目をした細身の娘だった。
「匡近! 来たのか。静も、話がある。こっちへ来てくれ」
道場の方から飯嶋の大声がした。はい、と頷くと、静は緊張した面持ちで匡近に会釈し、中に入るように促した。
「ほら、早く行けよ」
「長話にはならないから、待っててくれよ、そこで!」
何度も実弥を振り返り、念を押しながら門の中に入っていくのを見送る。ひょい、と先ほど別れたばかりの師が門の中から顔を出した。
「ほんとに、どこ行くか何も決めてないのか? 出立、伸ばす?」
「いえ」
苦笑して首を横に振った。別れの挨拶を交わしておいてまた中に戻るのも妙な具合だ。
しばらくの間、鳥の鳴き声以外は何も聞こえなかった。
門に背中をもたせかけ、空を見上げていると、静の高い声が突然、屋敷の中から聞こえてきた。
何事かと振り返ると、静がちょうど門から駆け出してきたところだった。実弥と視線がぶつかると、彼女は実弥を強く睨んだ。その目には涙が光っていた。
声をかける暇もないし、かけないほうがよさそうだ。走り去る背中を見送った後しばらくして、匡近がのっそりと門から出てきた。
「……話、受けりゃよかったのに」
門にもたれたまま、腕を組んで匡近をみやった。
「気づいてたの?」
匡近はバツが悪そうな顔をした。
「光栄な話なんだけどさ。所帯持つ気にはなれなくて」
「いつまでもガキのつもりでいるなよ。もう22歳なんだから。所帯を持ってこの道場継いで、鬼殺隊なんて辞めちまえばいいだろ」
「その顔で近所の世話焼きみたいなこと言うんだから、参るなぁもう……追いかけて、謝ったほうがいいと思う?」
「知るかよ。さっき俺のことを、殺したそうな目で睨んでたけど。ありゃ何だ?」
「ああ」
匡近は苦笑いした。
「僕が連れに来たのは静さんじゃなくて、実弥だって言ったからかな」
「は?」
実弥は組んでいた腕をほどいて、匡近を見返した。
「聞いてねぇぞ?」
「言ってないもん」
「当然、一緒に行くとも言ってねぇぞ?」
何だか嫌な予感がした。果たして、匡近はずいと間をつめてきた。
「知らないの? 弟弟子は師匠から独り立ちしたら、兄弟子の元に身を寄せると大昔から決まってるんだよ」
「いや、今その決まり作っただろ。人に学がないからって適当なこと言いやがって。そもそも、それって独り立ちじゃねぇだろ」
二人のやり取りを聞いていたのだろう。飯嶋が苦笑いしながら、門から顔をのぞかせた。
「匡近! 本当にお前は、その顔に似合わず押しが強い男だな。どうやったって連れていくつもりで来たんだろうが、実弥はお前と真逆なんだから。意志を聞け、意志を!」
「実弥は嫌なの?」
急に真顔で聞かれて、実弥は返答に詰まる。
「嫌ってことはねぇけど……」
「だから! そういう聞き方をすればそう返すだろうよ。お前は本当に……」
「じゃ、決まりだね! よろしくね実弥」
師の言葉を思い切り遮り、匡近は心から嬉しそうに笑い、実弥の肩をポンと叩いてきた。
「というか娘を、静を連れていけよ……」
「すみません!」
匡近は実弥の荷物をさっと奪い取り、先にたって歩き出す。
本当に強引だ、とその背中を見て思った。一年前と変わらない。突然現れて、突然次の場所に連れて行かれる。
一年前、この強引さに救われたことを思い出した。
他の誰かに同じことをされたら間違いなく従わないのに、匡近が相手だと不快にならないのが、不思議だった。
師との二度目の別れの挨拶もそこそこに、実弥は道場を後にした。