実弥が匡近の所に身を寄せて、一年と三ヶ月が経過していた。
山奥ではまだ深い雪が残っていて、夜はしんしんと冷える。
しかし確実に季節はめぐり、雪解けの水があちこちに小さな流れを作り、梅の香りがどこからか漂ってきていた。
深夜の静寂を破ったのは、鋭い金属音だった。何人もが激しく争う気配が近づく。
その響きで、樹上の雪がざぁ、と落ちた。その雪の上を、人影が駆け抜けた。
かつては白かったと思われるボロボロの着物と、ざんばらの白い髪をなびかせた老女。
しかしその疾風のような動きは、とても人間のものではない。老女は枯枝のような手を上空にかざした。
月光に照らされ、顔が露になる。瞳孔がなく、白目を剥いたぞっとするような外見だったが、その目には「下弦弐」と刻まれていた。
次の瞬間、上空に数メートルの長さがある巨大な氷柱が何十本も現れた。仄かな月光の下で刃のように尖った先端が、ギラリと輝きを放つ。
ふわり、と老女―― 下弦の弐の姿が上空に浮き、氷柱の上に現れる。
「鬼狩りどもが、早う死ね!」
しわがれた叫びと共に、一気に地上に落下した。
氷柱が向う先にいたのは、二人組の鬼殺隊だった。黒髪と白髪が対照的な男たちだった。
黒髪の男はやや細身で小柄だが、下弦の弐を前にしても余裕のある表情を消さない。
白髪の男は一回り大柄で、その体つきといい鋭い視線といい野生動物のような男だった。こちらはかなりまだ若い。
白髪のほうがぐっと腰を落とす。それと共に周囲に風が巻き起こり、木々をざぁ、と揺らした。
―― 風の呼吸か。
下弦の弐が思った直後、刀を引き抜いた。その一閃で、巨大な風の刃がいくつも生み出される。
落下してきた柱と刃がぶつかり、轟音と共に氷柱が砕け落ちた。砕けた氷の向こうに、白髪の男の姿が見えた。
―― もう一人はどこだ?
その間に、黒髪のほうの姿が見えない。目を凝らした時、
だんっ!!
雷が落ちたかと思うような音が周囲に間断なく鳴り響いた。はっ、と下弦の弐が見上げると、上空に人影がひらめいた。
馬鹿な、と思った。人間業ではない、数秒の間で10メートルはある上空に駆け上がってきたとでもいうのか。
その人影は刀を抜き、神速で下弦の弐に向って突っ込んできた。
「ちっ!!」
この黒髪の男、鬼よりも疾い。振り下ろされた刃は真っ直ぐに下弦の弐の頚を狙っていた。
咄嗟に頚をかばった腕が、あっと思った時には宙を舞っていた。しかし一瞬で再生する。
そして再生した腕を一振りすると、青光りする氷の刃が現れた。
黒髪は背後の大木の幹に身軽に着地して体勢を整えると、直ぐにまた斬りつけて来た。何度も何度も激しい火花を散らして斬り結ぶ。
「かったいなァ……」
黒髪のほうが思わず、といった風に声を漏らした。
その時、背筋がぞっとするような気配に、下弦の弐は背後を一瞥した。
次の瞬間、背後から音もなく忍び寄っていた白髪の男が、下弦の弐の頚に向けて刀を振り下ろす。
「くたばれ、婆ァ」
底光りのする目が、まっすぐに下弦の弐を睨みつけていた。
―― 人間の分際で、鬼を本気で殺す気か。
この白髪も黒髪も、下弦の鬼だというのに全く恐れる気配も無く、まるで鬼と対等のつもりのように斬りかかってくる。
手前に黒髪、背後に白髪、両側から至近距離で挟まれた下弦の弐は、咄嗟の動きで黒髪の腹を蹴り飛ばし、前へと避けた。
白髪の一閃は背中から肩口を斬りつけたが、この傷もすぐに再生する。
体勢を崩した黒髪を、ここぞとばかりに追撃する。振り下ろした氷の刃の一撃は、間一髪で前に飛び込んできた白髪によって阻まれた。
下弦の弐を上空に残して落下した二人が、それぞれ樹上に落ちた。
「おい大丈夫か? 匡近ァ」
背後にいる黒髪に呼びかける。
「せっかく食べた昼飯を吐くところだったよ、実弥」
匡近は腹を押さえながら言った。
「うまかったなァ、あの鮎……」
「数時間前の味覚を反芻すんな」
実弥が呆れた。
―― この二人、おかしい。柱でもないのに……
隊服のボタンは青。柱なら金のはずだ。それなのに、異様に強い。
そして、もともと一体だったのを二体に分けたかのように、完璧に連携した動きをしてくる。
これまで柱を含め幾多の鬼殺隊を殺してきたが、これほどまでに鬼狩りに手馴れている人間を相手にするのは初めてだった。
下弦の弐は唇を噛んで、鬼狩りたちを見下ろした。
「口惜しや。冬であれば、貴様らなど簡単に殺せるものを」
匡近は、ふむ、と地上に散らばった氷柱の残骸を一瞥した。
「確かにそんな感じだね。下弦の弐にしちゃ、弱いし。でもまぁ考え方を変えてさ、夏じゃなくてまだ良かったじゃない。君はたくさんの人間を殺しすぎた。悪いけど、今決着をつけさせてもらうよ」
小声で実弥、と合図して、その前に降り立った。
「逃げようってのか」
実弥が目を細めた。
二人が刀を構えると、果たして下弦の弐は身を翻して駆け出した。
同時に匡近がだん、と木の幹を蹴り追いかける。その背後から、実弥が風の呼吸を放つ。疾風が匡近の背を押しぐん、と加速する。
あっ、と思った時には下弦の弐を追い抜いていた。背後からは実弥が迫る。このままではまた挟み撃ちになる。
下弦の弐は腕の一振りで、氷の刃をいくつも周囲に打ち出した。
「っ!」
この至近距離から飛び道具を繰り出してくるとは思わず、二人は同時に目を見開く。
実弥は空中で身を捻りかろうじてかわし切ったが匡近は間に合わず、右足から血がほとばしった。
「匡近!」
実弥が匡近の元に着地する。片方が崩れ、突破口を見つけた下弦の弐はそのまま、その場から駆け去ろうと身を翻した。
「速すぎる。追っても無駄だ!」
実弥は速い上長距離駆けられるが、それでも下弦の弐は更に速い。匡近も負傷した足では厳しい。
「逃がさねぇぞ」
「! よせっ!」
匡近の制止を振り切り、実弥は風を捲いて上空に身を翻す。手にした刀で、あっという間に自分の腕を斬った。鮮血が宙を舞う。
それに反応したのは、下弦の弐だった。逃げようとしていた足を止め、実弥を見上げる。
「この匂いは、稀血か…… いや、違う、これは」
稀血の人間は過去数度、喰ったことがあった。一体喰らうだけで普通の人間の何十倍、何百倍も鬼に力を与えるという、稀少な人間のことだ。
その血は甘露のよう、その肉は極上の味で、一度喰ってからは稀血の味を忘れられずにいた。
しかし、実弥の稀血は、今まで口にしてきたものとも違う、更に稀少なものだと鬼の本能で察知した。
この男を喰らうか、せめて血をすすれば。柱でもない二人、簡単に葬り去れると踏む。
何よりも、鬼の本能で我慢ができなかった。
「かかったな」
ニヤリと実弥が笑って樹上に降りる。振り返った下弦の弐の口角がめりめりと割れ、人間をひと飲みできそうな巨大な口が現れた。
その口は血にまみれ、涎が溢れている。そしてなりふり構わず実弥に襲い掛かった。
実弥も枝を蹴り前に出る。下弦の弐の腕が頬を掠めたが構うことなく、そのまま右薙ぎの一撃を加え胴を真っ二つに分断した。
しかし上半身だけになっても、鬼の動きは止まらない。逆にスピードを上げ、実弥の肩を掴もうとした。
その右腕をすかさず実弥が斬りおとしたが、残った左腕が実弥の胸を突き、どん、と背後の木の幹に釘付けにした。
「もらった!」
「いまだ!」
下弦の弐と実弥の叫びが同時にこだました。刹那、背後から駆けつけた匡近の一閃が、下弦の弐の頚を刎ねていた。
先に落ちていった下半身の後を、上半身と腕、頭が追いかける。それぞれが地上に落下し、砕ける音がした。
「……再生はしねぇな、もう終わりか」
地上を見下ろした実弥が、詰まらなさそうに舌を打った。その髪を匡近が後ろから掴んだ。
「何すんだよ?」
背後から見上げてきた匡近は、珍しく眉を上げ怒っていた。
「実弥! 今、わざと捕まっただろう。なんでわざわざ自分の身を危険に晒すんだ。一歩間違えたら殺されてたぞ!」
「鬼の動きを止めるためだ。お前なら斬れると思ってた。実際、斬れただろ」
「今回はね。でも、鬼との戦いの中で、確実なことなんて一つもない。どれほど鬼殺隊として経験を積んでも、目の前の鬼がどんな力をもっているかなんて、分からないんだぞ。
それに、稀血を鬼の前で見せるのはもう止めろ。危険すぎる」
「結果的に稀血の『おかげで』倒せたんだからいいじゃねぇか……」
「稀血の『せいで』、死に掛けたの! 認識をゆがめない!」
「ガミガミうるっせぇなぁ……」
ぼやきながらも、懐から包帯を出した。匡近の右足の傷を改めると、応急処置で包帯をきつく捲きつける。自分の傷には湿布をばしんと上から貼り付けた。
「大したことなくて良かったな。お前から足を取ったら何も残らないからな」
「口が残るぞ」
「それなら何も残らないほうがいい」
「それはひどくない?」
「冗談だよ」
実弥が笑った。
永く感じた下弦の弐との戦いも、時計で改めればわずか一時間弱の出来事だった。
もっとも、日輪刀で頚を刎ねない限りは延々と再生し、体力も落ちない鬼に長期戦を挑むは挑むほど不利になるから、これでも長引いたほうに入る。
二人が山中の庵に帰宅したのは、まだ夜の八時くらいだった。
「……あれ。明かりがついてる。お客さんかな」
家の前にたどり着いた匡近はきょとんとした。
「こんな人里離れたとこに? 鬼じゃねぇの」
実弥が刀の鯉口に手をやり、先に自宅に歩み寄った。中をちらりと見るなり踵を返して戻ってきた。その眉が下がっている。
「誰だよ? そんなに困るような人?」
「見りゃ分かる」
何となく実弥の態度で予想はできた。足の傷を隠して、歩み寄る。入り口の扉を引きあけた。
「……匡近さん」
「静さん。こんな夜に、どうしたんですか」
はっと振り向いたのは、師匠である飯嶋の娘、静だった。誰もいなかったにも関わらず、きちんと井戸端に正座していたのが彼女らしい。静に会うのは、3ヶ月ほど前に師匠を訪ねて以来だった。
「夕方になる前に着いたんですが、誰もいなかったので待たせてもらいました」
「先生はご存知ですか?」
「……書置きを残しましたから」
「それでも心配するでしょうに」
ここから飯嶋の道場へは男の足でも半日はかかる。飯嶋が慌てて探し回り、書置きを見つけたところが容易に想像がついた。
静を前にしていても、匡近と実弥の言い合いは続いていた。
「だから。いい加減しつけえぞ匡近! 狩ったんだからいいだろもう」
声がもともとやや高めの実弥の声がところどころ裏返っている。いい加減腹を立てている証拠だった。
怒りながらも斧と切株を片手に暗い庭に出て、手際よく薪を作ると、窓を通して家の中に居る匡近にぽいぽいと投げて寄越した。
「いいや。良くないね。実弥はそりゃ才能あるよ。でも、鬼を舐めてかかりすぎだ。それに、軽々しく稀血を使いすぎ。いつか本気で痛い目を見るよ。その戦い方を改めるって言うまでは止めないね」
実弥に怒りをぶつけられながらも匡近は、穏やかな口調のまま言い返す。薪を受け取ると竃に火を入れ、朝炊いた米の残りの入った鍋と薬缶を上に置いた。
「この戦い方しか知らねぇし。それに実際苦戦したことなんてねぇし。柱の条件50体、とっくに超えてるぞ! そもそも今日狩ったの下弦だろ? とっとと本部に行って申請してくる」
実弥はそう言いながら、鍋に野菜や肉を適当に追加し、茶葉と急須を出している。
「は? 絶対に駄目だ」
「は? 何でだよ。お前なんか俺より討伐数多いくせに。……本当に本部から何も言って来てねぇの?」
「……僕はとにかく、実弥にはまだ早すぎるんだよ」
味噌を取り出しながら匡近はため息をついた。
「要件を満たせばそりゃ柱にはなれるよ。でも、実戦経験を十分に積まないまま柱になった人間は大抵早死にしてる。その点、実弥はまだまだ経験不足だ。せめて1年後ならとにかく、今柱になるのは自殺行為だよ。
それに稀血で柱なんて危険すぎる。今ですら夜、おちおち寝てもいられないほど鬼の襲撃があるって言うのに。……ていうか、何で柱になりたいの? 興味なかったくせに」
そう言いながら味噌で味を調え、ひょいと実弥に味見させた。実弥が頷いた。
「雑魚ばっかりで物足りねぇんだよ俺は。雑魚を百体殺すより、上弦を一体殺すほうが価値があるだろ。匡近はそうは思わねぇのかよ?」
「……上弦は、一体で柱三人分の力があるとされてる。単純に考えて俺達じゃ勝てないってことになる。
下弦の討伐だって、上弦相手にむざむざ殺されるよりよっぽど世の中の役に立ってるよ。
それに柱になったら、今の暮らしは続けられない。藤の里でバラバラに屋敷を持たされて、鬼狩りも単独か、後輩と組むことになるだろうね」
それを聞いた実弥の勢いが少し、止まった。
「お前以外と組むのは嫌だなぁ……」
「実際、実弥は暴走しまくるから他の隊員と組むのは難しいと思うよ。一年前と意見を変えてくれて嬉しいよ。はいどうぞ」
雑炊の入った器を静の目の前にとん、と置いた。実弥がその横に茶の入った湯呑を置く。
「すみません。男二人なんでいつも飯が適当で」
「はぁ……」
口げんかをしながらも、恐ろしく手際がいい二人のやり取りをあっけに取られて見守っていた静は、雰囲気に呑まれたように頷いた。
匡近が微笑んでそんな静を見下ろす。
「この辺りは、夜更けには鬼が多いから。夕食を食べたら麓の町まで送ります」
静は食事をゆっくりと口に運びながら、家の中を見回していた。
男の二人暮らしらしく、不要なものは一切置いていないが、機能的でよく片付けられている。
さっさと食事を掻きこんだ実弥は、今は壁によりかかってすうすうと寝息を立てている。匡近が着ていた上着をかけてやっているのを見て口を開いた。
「……ずいぶん、寝るのが早いのね」
「実弥は稀血だから鬼の襲撃を受けやすい。だから、夜は同時に眠らないように交互に起きるようにしています。とはいえ寝不足にはなりやすいし。特に実弥は、隙があればよく寝てます。まぁまだ若いから」
眠っている実弥を見下ろす視線は、さっきまでの言い合いの時とは打って変わって優しかった。
さっきの戦いで自ら斬りつけた腕を見て、その表情が曇る。適当に湿布一枚で処理していたが、その湿布が真っ赤に染まっていた。
「いつもながら適当な手当てだなぁ……全然湿布ですむような怪我じゃないだろうに」
ため息をつき、湿布をはがした。血塗れのそれを、まだ火の残った竃の中に放り込んで焼いた。
実弥は湿布をはがされた痛みからかうーんと唸り、半眼で匡近の腕を振り払おうとしていたが、
「血の匂いにつられてまた鬼が来るぞ」
と言われると、腕を匡近に任せたまま、とろとろとまた眠りに戻ってしまった。よほど眠いらしい。
傍の棚から救急箱を取り出すと、こびりついた血を綺麗に拭って軟膏をつけ、包帯をきちんと巻き直してやった。
「稀血って、なんなのです? 鬼はなぜ、稀血だと襲ってくるのですか。修行していた頃、そんな話は聞いたことがなくて」
そんな二人を見ながら、静が問うた。
「先生がかなり気を遣っていたからだと思いますよ」
匡近はそう返した。
「稀血は一言で言えば、鬼の大好物。稀血の人間は鬼にしてみれば飛び切り美味くて、飛び切り栄養があるそうです。特に実弥の稀血は特別だと先生が言っていました」
「……どうして、それが分かっていて、一緒にいるんですか?」
「それが分かっているから、一緒にいるんです。実弥は、女房や子供ができれば責任を持って幸せにできる男なんだけど……稀血だとどうしても、そういう人並みの幸せが難しいから。
だから僕は、実弥が得るはずの家族の代わりに、共にいようと決めています。俺なら、そうそうは死にませんから。だから、僕はあなたとは結婚できないと言ったんです」
「……。待っていても、だめということですか。ずっと一緒に戦い続けるつもりですか」
匡近は即答せず、隣で子供のような表情で、眠る実弥を見下ろしてほろ苦い笑みを浮かべた。
「兄弟子として、実弥を御するのが今でも難しいことがあります。いつか、手綱を引けなくなるかもしれない。でも、共にいるのもいろんな形があるから。互いにそれを望む限りがんばってみるつもりです」
「どうして、実弥君のためにそこまでするの? 父が言っていたけれど……亡くなった弟さんを重ねているから? それなら、実弥くんを守っても弟さんは戻らないわ」
そう言われた匡近は、ちょっと目を見開いたが、やがて苦笑した。
「さすが先生、よく見てる。確かに初めはそうだったかもしれません。でも実際のところ、実弥は乱暴だし口も悪いし強いし意外と頭もいいし、弟とは全然違います。今はそれが理由ではないです」
「……実弥くんが怖くて離れられないの?」
匡近は噴出した。むきになって静は言い返した。
「でもあなたは、時々実弥くんを恐れてる。そんな気がします」
「実弥は怖くないです。ただ、実弥が死ぬのは怖い」
静は黙った。どれほど核心から離れようとしても、匡近が話を戻してくると気づいたからだ。それを直接、問いただす気にはなれなかった。
唐突に、カァ、と間延びした鳴き声が家中に響いた。匡近と静は同時にびくりと肩を跳ね上げた。
匡近が窓を開けると、一羽の烏が大きな翼を広げて家の中に飛び込んできて、静が短い悲鳴を上げる。
「あぁびっくりした。これは鎹烏、鬼殺隊で言う伝書鳩です。本部から何を言ってきたのか、あまり良いことじゃ無さそうだな」
後半は独り言のようだった。足に結び付けられていた手紙を取ると、実弥の隣に座り込んでそれを開いた。一読してため息をつき、竃のほうにそれを放り投げた。
しかし宙を飛んだ手紙を、伸びてきた腕が掠め取った。眠っていたはずの実弥が機敏に身を起こし、手紙をつかまえたのだ。
「あ! こら、返せ!」
匡近が驚き、取り返そうとしたがさっとかわす。
「度々手紙が届いてるの、読んではこっそり燃やしてるだろ! 一体何が書いてあるんだか」
「達筆すぎて、実弥ちゃんには読めないよきっと」
「うるせぇ」
「返せって!」
掴みかかってきた匡近の頭を器用に両足ではさんで動きを封じる。バタバタと匡近が暴れるのを意に介さず、床に寝転んだまま手紙を開いた。
「……匡近」
「読めちゃった?」
実弥は足を解くと、胡坐をかいて匡近に向き直った。
「俺達にさっさと柱として出頭しろってことだろ! しかもいくら連絡しても返事もしねぇ扱いになってんじゃねぇか!」
「出頭ってのはちょっと違うけど、まぁそんな感じだね……」
実弥は拳をつくって顔の前に出す。
「階級を示せ」
その一言で手の甲に浮き出してきた文字は、今までの「甲」ではなく、「風」に変わっていた。
「おめでとう風柱さん」
「おめでとうじゃねぇ。知ってただろ!」
匡近を殴ろうとした実弥が、ふ、と手を止めた。
「お前はどうなってんだ?」
「秘密」
「なんのために。……とにかく、ここまではっきり要請してるのをずっと黙ってるのはまずいだろ。さっき言ってたのが理由にしろ、さっさと本部に行って思うところを言うべきだ。お前はそういうの得意だろうに」
「……ホント、時々まともになるよねぇ……いつもまともだったら……」
「話を逸らすな」
「とにかく」匡近はため息をついた。
「この件は僕が対応するから。僕を信頼してくれるなら、今は黙って任せて欲しい」
実弥は何か言いたそうな顔だったが、そう言われると、それ以上は何も言わなかった。
会話がひと段落すると、匡近は窓の外を見やった。
「これ以上遅くなると宿も見つけづらい。実弥は静さんを麓まで送っていって。僕は産屋敷邸に返事を書くから」
「……俺が?」
「そう」
お前が送っていけよ、という視線を感じたが、匡近は無視した。
静は、先を行く実弥の背中を見ていた。子供だ子供だと思っていたが、夜道を行く背中は思ったよりも大きかった。
麓に降りるまでの30分くらいの山道で、一言も言葉を交わさなかった。ただ、急峻な道だと速度を落とし、自分の明かりで静の足元を照らしてくれた。
町の中に入ると一気に明るくなった。
「ありがとう。ここからは――」
「ここで待っていてください。女一人じゃ宿を見つけるのもひと苦労だ」
実弥は別れを告げかけた静に短く告げると、ざっと周囲を見渡し、手近な宿屋に入っていった。どうやら、宿泊先を探してくれるらしい。
話はすぐについたらしく、実弥が店の者に金を払うのが窓越しに見えた。
鬼狩りを始める前は、大人たちと一緒に働き家族を養っていたらしい、と父から聞いたのを思い出した。
そのためか、山中で修行していたとは思えないほど、世間慣れしているのが改めて意外だった。
「……い。おい、姉ちゃん」
考え事にふけっていたため、何度も声をかけられても気づかなかった。肩を小突かれて我に返る。
数人の男たちに、気づけば取り囲まれていた。博打帰りといった風情で、この寒いのに着物を着崩し、手に手に徳利を引っさげている。
「なんですか?」
道場の師範の娘らしく落ち着いて問い返すと、男達は口笛を吹いた。
「どこの絵から抜け出してきたんだァ? 物凄い別嬪さんだな、姉ちゃん。ちょっと付き合ってくれよ」
酒を飲む振りをする。静は黙って首を横に振った。
「ツンケンすんなよ。この夜更けに一人で出歩いてるなんて、ワケアリなんだろ?」
ずい、と近寄られて手にしていた荷物を掠め取られ、静は眉を顰めた。
「返して欲しけりゃ付き合いな」
道場にいる男達は、力強くとも皆礼儀をわきまえていたから、このような無礼な男たちもいると忘れていた。
世間慣れしていないのは、自分のほうだ。こういう時、どうあしらったらいいのか分からない。当惑しているうちに手首を掴まれ、引っ張られて顔をしかめた。
「オイ」
静の手首を握った男の肩を、背後から伸びてきた手が、がしっと掴んだ。
「なんだ、てめ……」
「てめぇがなんだ。ブチ殺すぞ。手ェ離せ」
何時の間に戻ってきたのか、実弥が男を見下ろし、髪が触れ合うくらいの至近距離で睨みつけていた。
男の肩を掴んだ手に、力が篭っているのが分かる。肩が嫌な音を立て、男が悲鳴を上げて静の手首を握っていた手を離した。
「実弥君……」
静が声をかけると、実弥はあっさりと手を離した。
吹っ飛ぶように男が実弥から離れ、手にしていた静の荷物を投げつけた。鬼に遭ったような顔をして男達が逃げ出す背中をあっけにとられて、見守る。
「一人にしてすみません。そこの宿が泊めてくれるそうです」
空中で受け取った荷物を静に手渡してきた表情は、一瞬あれほどの怒りを見せたとは思えないほど落ち着いていた。
うつむきがちに、実弥の背中についていく。
一体どうして、自分はこの年下の男を厭うているのだろう、とふと思う。
世間と交渉する賢さも、暴力に負けない強さも、静を丁寧に扱ってくれる優しさもある。本当は、良い男だと分かっていた。
匡近のことがなければ、もしかしたら姉と弟のようになれていたかもしれない。
宿屋の前で、実弥は振り返った。
「それじゃあ、俺はここで。先生によろしくお伝えください」
「……本当に、嫉妬してしまうわ。あなたに」
ぽろりと言葉がこぼれ出る。男か女かに関わりなく、匡近に選ばれたのは自分ではなく実弥だということが妬ましかった。その理由が分かってしまうのもまた、悔しかった。
そのまま流されるかと思ったが、実弥は静を見返してきた。
「匡近はいい男です。いずれ一緒になればいいでしょう。その時は、匡近を俺が説得します」
思いもよらない言葉だった。静は目を見開く。
「……でも。鬼殺隊は」
「柱になったにしろ、長々と続けられる職業じゃない。適当なところで身を引いて、飯嶋の道場を継いで育手にまわればいい」
「……実弥くんは?」
「俺は、……」
言いかけて、実弥は言葉を切った。「死ぬまで戦い続けます」。静の頭の中で、続けるはずだった言葉が聞こえた気がした。
「匡近には匡近の、鬼殺隊を続ける理由がある。でも、いつかは決着をつけて、普通に所帯を持って幸せになってほしい。鬼殺隊にいる間は、匡近は俺が守ります」
匡近と、同じことを口にするのか。きょうだいのように二人は似ている、と改めて思った。
でも……
「本当にそう思ってくれるなら。今、手を離してください」
気づけば本音が口をついて出ていた。
「あなたは一緒にいるだけで、匡近さんを今、危険にさらしてる。彼は穏便に暮らしたいのに、あなたの稀血とその性格がそれを妨げる。違う?」
「……」
「それに……匡近さんはあなたと共にいると言ったけれど、あなたは匡近さんを守ると今言った。あなたはこれから匡近さんよりもずっと強くなる、二人とも分かっているんでしょう?
相手する鬼が強くなる中で、どこまで守りきれますか? 匡近さんを思うなら、今手を離してください。今ならまだ間に合う」
私はこんなに醜い女だっただろうか、と静はどこか冷静に、涙を流して訴えるもう一人の自分を見つめていた。
匡近と実弥は互いを想い、互いの幸せを願っているというのに。自分だけが、匡近と暮らしたいという自分の幸せだけを願っている。
長い、長い沈黙がおちた。静はうつむいたまま、動けなかった。
「……お嬢さん。中に入りますか?」
宿の中から声をかけられ、はっ、と顔をあげる。実弥がいたところには誰もおらず、いつからか深い闇がわだかまっているだけだった。