匡近は、すらすらと産屋敷邸への返信を書いてから鎹烏に持たせた。闇の中に飛び去る後姿を見ながら、ため息をついた。
鬼殺隊最強の9人、柱に選ばれることは栄誉であり、全ての鬼殺隊員は当然のように、柱になることを目標としている。
自分も柱を目指してきたのに、自分は今それを「望んでいない」。それは、匡近にとって自分でも意外な変化だった。
かつての自分が今の自分を見たらきっと、許さないのではないだろうか。

匡近が鬼殺隊に入隊したきっかけは七年前、15歳の頃にさかのぼる。
それまでは祖父母と両親がいて、3人兄妹の長男として、普通の生活を送っていた。
しかし、二つ違いの弟、宗近が「稀血」として生まれたことが、全てを狂わせるきっかけになった。
もっとも、それを知ったのは、鬼が弟を狙い、家族を襲撃してきた後のことだ。
一方で鬼殺隊は以前から宗近の体質を把握しており、近くにそれとなく隊員を置いて警備してくれていたと、これも後になって知った。
前もって宗近が稀血だと知らされていれば、藤の香を肌身離さず持つなど、対策が取れたのではと思わなくはないが、それでも鬼の襲撃は恐らく防ぎきれない。
そう思うと、あえて知らされず普通の生活を送ったのは正しいのかもしれなかった。
鬼にいつ喰い殺されるか分からない恐怖に怯えながら生きるなど、まともな神経では耐えられない。
宗近の最期を思い返せばなおのこと、そう思わずには居られない。

「最期の日」は、唐突に訪れた。日が落ちて、まだ間もない頃だった。
甲高い声が響き、猫の悲鳴かと思って家の窓から顔を出すと、びしゃっ、と血しぶきが頬にかかった。
「え……」
まだ7つだった妹が、匡近の顔にぶつかってきた。抱きとめた体は血でぬるぬると滑っていた。目を見開いたまま、即死だった。
あまりのことに、何が起こったのか把握できなかった。はぁ、はぁ、と自分の荒い息だけが聞こえる。いつもの庭には、鬼が何体も、何体も、家に向って迫りつつあった。
「逃げろ少年!」
駆けつけてきた鬼殺隊員に、妹と引き離され、どんと肩を押された。
「何事だ!」
庭に出て行こうとした祖父と、それを止めようとした祖母が次にやられた。
悲鳴と鬼殺隊員の叫び、鬼の雄たけびが交錯する。
「こいつも違う! 稀血はどこだ!!」
「俺が先だ!」
「いや、俺が……」
―― マレチ……?
鬼達の会話が聞こえた。混乱した中でも思った。それが何かは分からないが、自分達家族の誰かが「マレチ」だと鬼は思い、探しているということを。
すでに殺された祖父、祖母、妹は違うということだ。となれば……匡近は振り返り、ちょうど家の奥から慌てて飛び出してきた宗近を見やった。
「宗近! 早く家から出ろ!」
初めて、まともに声が出た。あと父母がどこにいるか分からないが、兄として弟は守らなければ。
血塗れの兄に宗近は悲鳴を上げたが、それでも手を掴み、家の奥に走り出すと必死についてきた。

「数が多すぎる! 散らばるな、二人一組で背中を守りながら戦え!」
集まった鬼殺隊員は10人はいたと思う。それでも、鬼の数のほうが多かった。
鬼殺隊員になってから知ったことだが、基本的に鬼は単独で行動する。
しかし稀血の人間を襲う時は例外で、誰かが稀血を襲っていると知れば次々と集まり、結果的に集団で襲ってくる。
時間が経てば経つほど数が膨れ上がり収拾がつかなくなる。その時は、まさにそうなった。
一人、また一人、と隊員達は鬼にやられ、その数を減らしていった。

家の裏手から外に出ようとした足が止まった。裏手側も、既に鬼が迫っていた。家全体が囲まれてしまっている。
―― 止まるな! どうしたらいいか考えろ!
足が立っていられないほどに震えた。宗近も全身が震えている。でも今ここで思考を止めてしまったらお終いだ。
無我夢中でここを飛び出してしまいたいが、そうすれば鬼に捕まるのは目に見えている。
匡近は必死で自分を励まし、宗近を台所の陰に押し込み、自分も身を潜めた。

鬼が、暗い台所に入ってくる。蝋燭の明かりに照らされて、鬼の影がいくつも映し出される。
「あと二人、子供がいたはずだ。どちらかが稀血だな」
ごくり、と唾を飲み込んだ。父母はもう、殺されたということが分かってしまった。
―― 爺ちゃん、婆ちゃん。父ちゃん、母ちゃん。詩織。
どうしたらいい。どうしたら宗近を助けられる。神に祈りたくなり、その考えを必死で振り払った。
俺はまだ、神には祈らない。それは、全てを諦めた者がすることだから。
思考を止めるな。と何度も心の中で念じる。

沈黙を破ったのは、宗近だった。わあぁあ、と突然悲鳴を上げたのだ。もう、精神的に限界だったのだろう。
「宗近、だめだ!!」
 慌てて口を押さえたが、当然間に合わない。鬼が、こちらをじろりと見た。
「……兄ちゃんが出て行ったら全力で走れ、宗近」
匡近は震える両足を励まし、何とか立ち上がった。
稀血と呼ばれる人間は、自分か匡近かの二択。もし自分が稀血なら、自分が襲われている間に、宗近は逃げおおせるかもしれない。
もしも一人だったら、とっくに宗近のように泣き崩れていたと思う。それでも自我を保てたのは、弟がいたからだ。
でも悲しいほどに、その時の匡近は無力だった。

弟が裏口に向って走る。その足音を聞いた、と思った時には、鬼が目の前に迫っていた。
あっ、という間にその腕に跳ね飛ばされ、背後の柱に頭を強く打ちつけた。熱い衝撃が走り、血が流れる嫌な感触が頭から背中を伝う。
「……ちっ、こいつも違う」
ごめん、宗近。その瞬間、そう思った。
兄ちゃんが、稀血なら、良かったのに。
そう思ったのを最後に、匡近の意識は途切れた。


どれくらい時間が経ったのだろう。匡近は、はっ、と目を覚ました。
台所は半壊し、全身が大きな剣山で絞り上げられるように激しく痛んだ。悪夢ではなかったのだ、と思い知らされる。
甲高い、獣の断末魔のような長い悲鳴が、何度も、何度も聞こえているのだ。
闇の中で、三メートルはあると巨大な鬼が、いつしか現れていた。他の鬼は、その鬼に排除されたのか姿が見えない。その鬼の巨大な二つの角が、天を指していた。
その巨大な手が、まるで鳥でも掴むように軽々と、人間らしいものを掴み宙に掲げていた。
その「人間らしいもの」は鬼の手の中でビクビクと痙攣していたが、それはもう、人の形をしていなかった。
美味そうに少しずつ齧られるたび、死んだようにぐったりしていた影から悲鳴が上がる。
―― 宗近……宗近!!
それは、耐え難い光景だった。

体を動かそうとしても、どうしても動けない。どうしても、目の前の世界に干渉できない。まるで、夢の中にいるようだった。
今にして考えれば、あれだけの怪我と出血量で、動けるはずがなかった。動けたところで確実に殺されていただろう。
でもあの時、自分は体が動かなかったのではなく、殺されるのが怖くて動けなかっただけではないか? その考えは、時々出てきては今でも匡近を苦しめる。
あの時、もしもこの体が少しでも動き、殺されるだけにすぎなくても、弟を守るため動けたならば。
奇跡が起きて、弟をこの手で守れたのではないだろうか? 鬼との戦いに奇跡などないと分かっているのに、そんなことを思ってしまう。
ただ少なくとも、あの時動けていれば、結果自分が死のうが生きようが、これほど今苦しんではいない。

宗近を最後の骨一本まで喰い尽くしたあと、その鬼は去った。
後には、その鬼に殺された他の鬼と、家族と、鬼殺隊の死体が残された。生き残ったのは、匡近一人だった。
事後処理をしてくれた鬼殺隊員の紹介を受けて、まだ傷が治ってもいないのに、育手の一人である飯嶋の道場の門を叩いた。
腕が飛び、足を落とされても、文字通り体が砕け散るまで鬼を殺すために戦い続ける、異常者の集まり。
その時の自分には、ふさわしいと思った。それに、復讐のために動いていなければ、おかしくなってしまいそうだった。
修行中の隊員には同じような境遇の仲間が多く居て、その中にいるだけで、少し心が和らいだ。自分だけではない、と思えたから。
一方で、普通の家庭を見るのは辛かった。あいつは普通に幸せに暮らしているのに、どうして自分だけが、と醜い嫉妬に襲われたから。
「誰かを守るため」なんて綺麗ごとだと思った。そもそも、守るべき存在を全て失ってしまっていた。
鬼殺隊を志してあれほどの修行に耐えたのは、鬼を、自分を、憎んでいたからだ。


一年の修行期間を終えて鬼殺隊員になり6年間。
何度も何度も死線を潜り抜け、仲間は数え切れないほど死んだが、匡近は生き残った。
いつの間にか階級は甲に上がったが当時の柱は既に9人いたため、柱への任命はいったん見送られた。しかし次の柱は粂野匡近に、というのは鬼殺隊の共通認識となっていた。
その日は、単独で鬼を追っていた。もう夜明けに近く、今日は出直しか、と思った時―― 野卑な怒鳴り声が聞こえた。
「ちくしょう! その稀血があれば……稀血を寄越せ!」
ハッ、とした。弟の死に様がまざまざと蘇った。誰かがまた、弟のように喰らわれようとしているのか。
全力で、声の方向に駆けた。

夜明けの光が差し込んで、匡近は目を細めた。その光を背負って、一人の少年の後姿が見えた。
少年は血に塗れた腕で鎖鎌を使い、鬼を縛り上げて木の枝に吊り上げていた。日光が当たった瞬間で、鬼は断末魔の悲鳴と共に、灰になって消えた。
「鬼を……殺したのか」
歩み寄った匡近の声に、少年は振り返った。
「誰だてめぇは」
二人の視線が交錯すると同時に、匡近は気圧された。鬼を前にした人間の動揺はまるでなく、一本の刃を思わせるほど眼光が鋭かった。

匡近は日輪刀を鞘に納め、両手を宙に掲げて、敵意がないことを示す。にっこり微笑むと、少年は怪訝そうな顔をして鎖鎌を束ねた。
「僕は、粂野匡近。鬼殺隊員だ。君が今倒した鬼を追っていた。殺してくれて手間が省けた、ありがとう」
「キサツタイ?」
「知らないの? 鬼を殺す政府非公認の専門部隊だよ」
「……まともな組織じゃねぇなァ」
「君ほどじゃなさそうだけどね……君はまさか一人で、鬼を狩っているの? 稀血なのに」
稀血、という言葉を聞いた少年の目に、暗い光が渡った。

少年は、不死川実弥、と名乗った。
互いに腰を下ろして話してみれば、初めの印象とは違い、常識もある大人びたところのある少年だった。
一年前に鬼に家族を殺されて、一人だけ生き残った弟とも離別したという。そこまでは、残念ながら珍しくはない話だった。
しかし、その怒りから鬼狩りを志し、手当たり次第に武装して鬼を拘束し日の光で焼き殺している、という経緯には驚かされた。
更に驚いたのは、自分が稀血だと知っているのに、鬼から隠れるのではなく、逆に利用して鬼を狩ろうと考える、その考え方だった。
自分と同じような年で同じように家族を鬼に殺された少年が、稀血を利用してたった一人で鬼を狩っている。
その事実は、匡近にとっては頬を引っぱたかれたような衝撃だった。

「……君は相当に腕が立つみたいだね。でも分かっているはずだ。このままじゃ近日中に、鬼に殺されるよ」
匡近の言葉を、実弥は否定しなかった。
「今ならまだ間に合う。普通の生活に戻れないか? 稀血でも、鬼に襲われにくくする方法はある」
「それはできない」
即答だった。
「全ての鬼を殺すまで、鬼狩りは止めない」
その時は本気とは思わなかったが、その後人生を共にする中で、本当にこの男はそうする気なのだ、と思い知らされる一言だった。
後になって、その理由が、行方不明の弟のために、鬼がいない世界を造りたいからだと本人から聞かされた。

当時の匡近にはそのような事情は知る由もなく、昼前になるまでずっと、鬼狩りを止めるよう無駄な説得を試みていた。
「なんで俺に構うんだ。何の得がある」
初めはしつこいと怒りを露にしていた実弥だが、やがて根負けしたように言った。
得、と言われてみれば、何の得もない。
「僕は、鬼に一家を全員殺されているんだけど。何となく、死んだ弟に似ているから、かな?」
同じように稀血だったから、とは言わなかった。
「俺に似てるなんて、ろくでなしの弟だな」
嘲るように実弥が言った何気なさが、匡近の胸をついた。家族を殺されてから一年、自分のことを「ろくでなし」だとポンと言えるほどの暮らしを強いられてきたのだろう。
全てを失う絶望は、匡近も知っていた。それでもたった一人で、毎日を重ねてきたから今ここにいる。
「君はろくでなしなんかじゃないよ。人より辛い思いをしてきただけだ。僕にはそれがわかる、気がする」
そう言って、隣にいた実弥の肩にそっと腕を回した。びくりと体が強張り、ずいぶん長い間、誰もこんな風にこの少年に触れなかったのだと分かった。
手を振り払うことも、もちろん寄り添うこともなく、実弥は口をつぐんだ。
その肩は驚くほどに筋肉質だったが、やはり年相応に匡近よりも一回り小さかった。
「どうしても鬼狩りを止めないなら、方法を学ぶべきだね。鬼殺隊に入らないか。僕の師匠を紹介するよ」
拒否されるかと思った実弥は、しばらくうつむいていたが、やがて頷いた。そこから、全てが始まったのだ。


一人で鬼狩りをしていた経歴から押して知るべしだったが、実弥の才能は飛び抜けていた。
師の飯嶋に言われたものだ。匡近が人として最強の域なら、実弥は人外の域だと。鬼と単体で戦える領域だと言いたかったのだろう。
一年で修行を終えた後、彼なら一人でまた、鬼狩りを再開するのは難しくなかったはずだ。
それなのに、強引に誘った理由は既に「実弥を弟に重ねていたから」ではなかったと思う。

狭い山小屋で一緒に暮らし始めてからは、互いに何も隠すことができなかった。
だから、匡近が時々悪夢にうなされるのは、すぐに実弥も気がつくことになった。
宗近が喰われた時の夢を見て、うなされて起きる。そして再びまどろむと、またさっきの悪夢の続きを見せられる。延々と。
兄ちゃん痛いよう。どうして、助けてくれないんだよう。そう泣かれ、恨まれ、憎まれる。延々と。
―― もう、やめてくれ。
その日、何かうわごとを言ったかもしれない。夢の中の、小さくなっていく弟に向って手を伸ばす。その時、匡近の手を誰かが握った。
「……それはただの幻だ。本当の家族は天国で、皆幸せに暮らしてるさ。だから大丈夫だ、『兄貴』」
「……実弥」
 薄ら目を開けると、鬼の襲撃に備えて交代で起きていた実弥が、匡近の布団のすぐ隣に来ていた。
「……その時、俺が行ってやれればなァ。絶対に、匡近も弟も、誰一人死なせやしなかったのに」
いつも荒っぽい言葉遣いの実弥とは思えないほど、闇の中で投げかけられたその声音は優しかった。
そのままずっと、匡近の手を強く握ったまま、一晩中隣にいてくれた。その手の力強さ、温かさは、匡近を正気に引き戻した。一人ではない、まだ生きる理由はあると、教えてくれた。
実弥だって、自分と弟以外の家族を失った。更に、家族を殺したのは最愛の母で、最後に残った弟を守るため、母をその手で殺したのだと最近になって聞かされていた。
耐え難い経験をしてなお精神を保ち、人に優しくできる者は存在する。鬼に蹂躙されても精神までは侵されない人間の美しさを、匡近は実弥から学んだ。
それにしてもあの時、一体どんな気持ちで、匡近を兄を呼んだのだろう。そう思うと、匡近は涙が出てくる。

一緒に暮らす中で、鬼への憎しみは少しずつ、匡近の中で変容していった。
それと同時に、「鬼殺隊」という組織に対する疑念が少しずつ、匡近の中で膨らんでいった。
鬼殺隊の隊員たちは、みな望んで入隊し、望んで人間よりも圧倒的に強い鬼と戦い命を散らしていく。それは事実だ。
その一方で、彼ら彼女らに選択肢はあったのか? ほとんど皆、鬼に家族を殺されたり、貧困ゆえに売られたりしていて、行き場のない者たちばかりだった。
過酷な背景がなければ、自ら鬼殺隊には入らず、穏やかに暮らせていたのではないだろうか。
少なくとも実弥と、自分はそうだ。匡近はそう思わずにはいられなかった。
鬼殺隊に入ったものは、100人いれば99人以上が、鬼に殺されて死ぬ。それは厳然たる事実だった。
ここに来て匡近は、実弥を鬼殺隊に誘ったことを後悔していた。
実弥なら、まだ単独で鬼狩りを続けていたほうが、柱となって次々と強敵とぶつかるよりは生存率が高かった、かもしれないのに。

稀血の悲惨を思い知らされた、弟の悲鳴が耳に蘇る。実弥の存在は匡近の中で、どうしても失えない、かけがえのないものになっていた。
―― あんな風に、死なせたくはなかった。