カァ、とどこかで烏の鳴き声がした気がして、匡近は驚いて周囲を見回した。
今度は鎹烏ではなく、どこかで普通の烏が鳴いたようだった。

それにしても、と壁際にかけられた時計に目をやる。時刻は10時半を差していた。
二人が家を出てから、既に2時間が経過している。麓の町までは女の足でもせいぜい30分強だったから、あまりにも遅かった。
静と一緒になることはできない、という匡近の結論が明確な以上、話せば話すほど静を傷つけてしまう。
そう思って送るのを実弥に任せたが、自分が行った方が良かっただろうか。

様子を見に行こうかと立ち上がりかけたとき、
――「子供じゃねぇんだからお迎えなんかいらねぇよ。本当に匡近は過保護だな」
呆れたような実弥の声が聞こえた気がして、匡近は動きを止めた。
過保護だ過保護だ、と実弥からは口癖のように言われていた。やはりどこか弟と――しかも亡くなった年齢の弟と重ねてしまうことと、
世話を焼けば焼くほど実弥が困るのがおもしろくて、ついつい面倒を見てしまう。
とはいえ、もしも鬼と出くわしていたとしても、それで手を焼く「弟」ではなく、下手をすると行き違いになりそうだったから迎えに行くのは止めた。

墨汁がすっかり乾いてしまった硯を片付けようとして、ふと手を止めた。
実弥が戻ってきたら、習字の続きを教えてやろうか。ここでの生活が落ち着いた1年ほど前から折を見ては続けていたことだった。
幼い頃まともな教育を受ける前に働き始めたため、実弥はある程度読むことはできるが、書く方はほとんどできなかった。
飯嶋の元に居る時に少しは教わっていたようだが、修行を優先していたらしい。
―― 「今まで17年生きてきて、ようやく文字を学ぶ余裕ができたんだから。教えてあげるからやってみようよ」
一年前そう切り出すと、実弥にうんざりした顔をされたことを思い出す。
―― 「文字なんて最低限読めればいいだろ。書くなんてまだるっこしくてやってられねぇよ」
―― 「これからの人生で絶対に必要になるから」
―― 「必要な時は匡近が代筆すればいいだろ」
―― 「実弥は甘えん坊だなぁ。文字なんて子供にでも書けるのに僕を頼るなんて」
―― 「……」
―― 「いつも過保護だって僕のことを言ってるけど、実弥が悪いんだよきっと」
―― 「やりゃいいんだろ、やりゃぁ!」
―― 「そうそう。じゃそこに座って」
―― 「……明日からやる」
―― 「だめ。そこに座る」
―― 「……」
しぶしぶ始めたにしては、実弥は優秀な生徒だった。
意外なほど几帳面な字を書く上、読む方については、産屋敷からの難読度の高い手紙も読みこなしていたから、さっきは正直驚いた。


気がつけば、微笑んでいたらしい。
がたん、と引き戸が突然開き、匡近は驚いてそちらを見やった。その音で、実弥ではないと気づいていた。
中に入ってきたのは、静だった。両足首から下は泥で汚れ、息は切らしていないものの疲れきっている。
「どうしたんですか。……実弥は?」
歩み寄りながら、嫌な予感がした。
静は一瞬言葉に詰まったが、覚悟を決めたように匡近を見返してきた。
「……彼はもう、ここには戻らないわ」
さぁっ、と冷たい血が頭から体に向って流れ落ちるようだった。気がつけば、静の眼前に大またで迫っていた。
「実弥に何を言った」
自分でも驚くような冷徹な声が、口から発せられた。見下ろされた静は、口をつぐんで後ずさった。

怯えた表情を浮かべた静の背後に突然、一回り大きな影が差した。実弥が帰ってきたのか? いや違う、これは――
「中へ!」
 匡近は一声叫ぶなり、前へ突進した。はっと目を見開いた静の手を掴み、力任せに部屋の中へ引き入れた。
その先に立っていたのは、一体の鬼だった。雑魚ではない、と咄嗟に鬼の目を確認して、目の中に刻まれた文字に愕然とする。
―― 下弦の壱!
 「丸腰で突っ込んでくるとは、愚かな」
室内の光に照らされ、鬼の手元で何かがギラリと光った。同時に焼け付くような痛みが左肩を襲ったが、構ってはいられない。このままでは静が巻き込まれる。
匡近はそのまま、下弦の壱の胴に組み付いた。

家の外に転がり出て、互いに身を離す。
「なかなかいい動きだ。お前は柱か?」
ひゅっ、と音を立て、鬼は2メートル近い槍を肩に担いだ。刃の部分だけで、普通の刀くらいの長さがある。
それだけで脅威だったが、鬼の武器なのだからただの槍では無さそうだった。
「ただの平隊員だよ。こんな山奥に、下弦の壱が何の用だ?」
静が少しでもここから離れられるように、時間を稼がなければ。
聞かなくても、何となく予想はついていた。そもそも、下弦レベルの鬼が弐、壱、と次々現れることは基本的にありえない。
「……下弦の弐が稀血の鬼殺隊員に殺されたと聞いて、喰らいに来た。それほどの腕利きの稀血を喰らえば、間違いなく上弦になれる。だが、お前ではないようだな。残念だ」
匡近の肩を抉った血塗れの指を、これ見よがしに舐めた。
身の丈は槍と同じ2メートルほどか。上半身は裸で、人間の袴を身につけている。見た目は、匡近と同じくらいの年代の男に見えるが、その目は鬼の証の真紅だった。
髪はざんばらで、二つの角が天を指していた。その角は匡近に、弟を殺した鬼を思い起こさせた。吐き気がするような不快な感覚が込み上げる。
「稀血はどこだ」
「お前にはやらないさ」
一刻も早く実弥を追いたかったが、この状況がそうさせてくれそうにない。

「匡近さん!」
静が家の中から、匡近の刀を鞘ごと投げて寄越した。流石飯嶋の娘だけに、こんな時でも胆力がある。
「有難い……静さん、早く逃げて!」
刀を掴み引き抜くと同時に、下弦の壱がかかってきた。大きく槍を振りかぶる。
 振り下ろされるよりも先に、匡近は神速で鬼の懐に飛び込んだ。目を見開いた鬼の胴を踏みつけながら抜刀し、その頚に向って袈裟懸けに斬り付けた。
もう少しで頚を斬り落とすところだったが、紙一重のところで浅かった。鬼の頚から血が噴出したが、鬼は気にも留めず唸り声をあげた。
「見た目に反して気短な男だ」
「わざわざ下弦の壱って、目で自己紹介してくれてるのに、油断する理由がないだろ?」
互いに話しかけたのは、相手の隙を誘うため。下弦の壱は片手で軽々と槍を持つと、ひゅんひゅんと回転させ始めた。
そのまま、匡近に向って突っ込む。匡近が上空へ避けると、鬼はにやりと笑い追撃してきた。
「動きの取れない上空へ逃げるとは」
 匡近は身軽に上空で身を翻し、鬼に向って刃を向けた。刃の周囲に風が起こり、槍の切っ先を狂わせる。鬼がはっと槍を引いた時、匡近は強く枝を蹴り、真下に斬り込んだ。
鬼も槍を手元に引き寄せて応戦してくる。何度も何度も斬り結び、周囲に火花が巻き起こっても双方、引かない。先に下がったのは、鬼のほうだった。
追撃しようとした匡近が足を止める。下弦の弐との戦いで傷ついた右足から、血が流れていた。ばしん、と手で叩いて出血を止める。

下弦の壱が少し距離を開けて、匡近を見やった。その目の色が、先ほどまでとは違っている。
「その速さ、雷の呼吸かと思ったが、それだけではないな。風の呼吸を掛け合わせているのか」
「よく気づいたね。普段は、風は相棒に任せているんだけど。足の消耗を待っても無駄だよ」
雷の呼吸による足の負担は尋常ではなく、技によっては一度二度で骨折してしまうほどだ。しかし、風の呼吸でブーストをかけることで、足への負担は格段に減る。
通常の雷の呼吸は、その踏み込みの足音が雷のように聞こえるが、匡近の踏み込みは足音がほとんどなかった。
「……柱なら、今まで何十人も殺してきたが、それよりも強いな。これほどの実力者が、柱も名乗らずこんなところでくすぶっているとは」
「僕らにもいろいろ、事情があるんだよ」
「……槍と剣だけで戦うのもおもしろかろうが、稀血も参戦したら厄介そうだな」
「うちの稀血はどこへ行っちゃったんだろうね……この場にいたら、大喜びで戦ったと思うけれど」
匡近は苦笑いした。その一方で油断なく刀を構える。下弦の壱が血鬼術を使わないはずがない。どんな術なのか、想像もつかなかった。
これだから鬼は嫌なんだ、と頭の中で相棒に話しかける。全ての鬼、一体一体が違っていて、ひとつとして同じものがない。どれほど経験を積んでも、それだけでは補えない。
その上、あっちは頚を斬られない限り生きているが、こちらは一回でも深く斬られたらお仕舞いだ。

ふん、下弦の壱は笑った。そして、無造作に槍を山小屋のほうに向って振り下ろした。当然山小屋には相当な距離があった。それなのに。
次の瞬間、山小屋は真っ二つに割れ、吹っ飛んだ。轟音と共に、瓦礫がばらばらと宙に舞い上げられ、次々に地面に落ちた。
「静さん……!」
山小屋から逃げた気配は確認していない。咄嗟にそちらに気が取られた。しまった、と思った時には、次の一撃が匡近を襲っていた。あっという間に吹っ飛ばされ、背後の大木に強く全身を打ち付けた。
骨が何本か折れた上、内臓も損傷したとどこか冷静に判断する。くそっ、と心で舌を打つ。怪我はとにかく、意識が朦朧して立ち上がれない。
槍から、大砲のような衝撃波を生み出す鬼。戦争にでももってこいの血鬼術だ。しかも連打も可能らしい。これほどの破壊力をもつ鬼に会うのは、匡近でも初めてだった。

それこそ大砲でも持ってこないと、人間の身ではこの鬼の相手にはならなさそうだ。少なくとも自分一人では勝てない。鬼と戦い続けた経験から、既に分かってしまっていた。しかし、実弥なら。
悔しいが意識を保てない。全てが闇に閉ざされる前に、左肩を激痛が襲った。初めの一撃で傷ついた肩を槍で貫かれたのだ。歯を食いしばって堪える。鬼の声が落ちてきた。
「稀血を連れて来い。そうしないと娘を殺す。あの山の頂上にある寺院で待っているぞ」