たった一人、炭で塗りつぶされたような闇の中を、明かりもなしに歩いていく。持ってきた提灯は、静のところへ置いてきてしまった。
さっき静に叩きつけられた言葉が、頭の中で何度も何度も、鳴るように響いていた。
―― あなたは一緒にいるだけで、匡近さんを今、危険にさらしてる。
辛辣な言葉だが、その通りだと思う。
その後に言われた二人の実力差の話も的を得ていた。単独の純粋な戦闘力で言えば、かなり前に実弥が匡近を超えている。
しかし匡近は、実弥の力を誰よりも把握し、それを自分の力と連携させて上手く「使う」ことに長けていた。
実弥が自分でも驚くほどの力を引き出した時は、大抵匡近の指示が背後にあった。
それが、二人が強力な鬼を、軽々と撃破してきた理由だった。

匡近の真骨頂は、どれほど困難な状況でも思考を止めず、一歩離れた俯瞰的な視点で今どうすればいいか判断できること。
実弥にも苦手な分野ではなかったが、こと頭脳に関しては、適わないと一目も二目も置いていた。
経験豊富な兄弟子でもあり、年上でもある匡近と組み、実弥は生まれて初めて、誰かを信頼して任せてもよいのだと知った。

それほど優れた鬼狩りでありながら、匡近が最近、迷い始めているのに気づいていた。
復讐心という「鬼の呪い」から離れ客観的になった時に、鬼殺隊という組織そのものに疑念を感じたように見える。
それならば、何も鬼に殺されるまで突っ走ることはない。どこかで身を引くべきだ。実弥はそう考えていた。一抹の寂しさが胸をよぎっていたけれど。

―― でも、俺はそうじゃない。
鬼に対する憎しみの炎は、戦えば戦うほど、薄まるどころか燃え盛るばかりだ。
どうして共に戦っているのに道は分かたれるのか、匡近に言うことはできなかったがわかっている。
守るべき家族が、生き残っているか、いないか。二人はそこが決定的に違っていた。

生き別れの弟に、鬼の居ない世界で幸せに天寿を全うして欲しい。
そのためなら、どれだけ死地に居ても平気だったし、どこまででも戦うことが出来た。
そうでなければ弟を守るために殺した母に、殺された弟妹にあの世で合わせる顔がない気がしていた。
でも……これ以上、匡近を巻き込むことが許されるのか。実弥は唇を噛んだ。
「てめえらが、世の中に存在するから……」
闇の中を睨み据える。鬼が周囲に集まる気配を闇の中に感じていた。
やっぱり湿布で適当に処理したから、稀血の匂いが漏れ出したのか。そう思って腕を見下ろして、きちんと包帯が巻きなおされているのに今更のように気づく。
そういえば、夢うつつでいる時に匡近が触れてきたような気がした。あたたかい手をこんな時なのに思い出し、実弥は唇を噛んだ。
このまま帰らなければ、もう二度と、会わないのだろうか。薄情だと恨まれてもしかたない。他人事のように、そう思った。


鬼の数は、ざっと13体。まだまだ集まる気配がする。夜空を一瞥したが、三日月が雲に隠れて辺りはほとんど真の闇だ。
それでも、夜の戦いに慣れている実弥にはそれほど影響はなかった。目がきかなくとも、聴覚に加え第六感ともいえる感覚で鬼の気配を把握する。
「間違いない、稀血だ」
鬼達の野卑な声が降ってくる。
「あの、二人組の鬼狩りの片割れだな」
「今は一人だけか。となれば下弦の壱が向ったほうは稀血じゃなかったのか。俺達は幸運だな」
実弥はハッとして鬼達のほうを見やった。
「どういうことだ。下弦の壱?」
実弥の動揺を察したのだろう、鬼達が一斉に嘲笑った。
「稀血の噂は一晩で千里を奔る。下弦の壱に嗅ぎ付けられちゃぁ、手が出せねえ」
しまった、と歯噛みし、一気に刀を抜き放った。

―― 「稀血を鬼の前で見せるのはもう止めろ。危険すぎる」
匡近の言葉が耳に蘇った。軽く聞き流していたのは、危険に陥るとしても自分だけの話だと思っていたから。
しかし今恐らく匡近は、下弦の壱と一人で、最悪は静を庇いながら対峙していることになる。

鬼を甘く見るな、と匡近は何度も何度も言っていた。
下弦の弐は本来の力を出し切れる環境になかったとも。それでも二人がかりで倒したのだ。下弦の壱は一体どこまで強いのか。
そう思えば気ばかり焦った。
「時間がねぇ。さっさとかかって来い」
「俺が先だ!」
我先にかかってきた鬼を、気配だけで斬り倒す。普段であれば歯牙にもかけない、雑魚ばかりだ。
しかし、左から襲ってきた鬼の一撃を避けきれず、かわしたものの着物が裂けた。
咄嗟に左を見る。左利きで刀を構える匡近の幻が一瞬浮かんで、消えた。

右利きの自分の左側をいつも守ってくれていたのだ、と今更のように気づく。
無意識のうちに、体が匡近の存在を織り込んでいる。
―― 「急いでいる時こそ、急いじゃだめだぞ。目の前のことを、ひとつずつ、確実に片付けていかないと」
匡近にかつてかけられた言葉が、耳に蘇る。戦闘中ではなく、日常の何気ないひと時にそう言われた気がする。
聞き流していたのに、必死になったこんな時に限って、匡近の言葉を思い出す。
自分を落ち着かせるために、深呼吸をした。そして改めて、鬼達と向き合う。一体、また一体、と確実に倒すことに集中した。

冷静に対処すれば、鬼の10体や20体に手こずる実弥ではなかった。
再び静まり返り、夜の闇の中にひとり沈む。

今の自分は、刀以外は自分の体ひとつ。
もともと、そうやって生きてきた。自分が稀血であると知った時に、一人で生きる覚悟を固めたから。
それなのに、匡近を得て、俺は弱くなってしまったんだろうか。

自分が稀血であると知った時に、一人で生きていく覚悟を固めたはずなのに。
いつの間にか、匡近がずっと一緒にいるのを、当然のように思っていた。
―― 「じゃ、決まりだね! よろしくね実弥」
共に暮らし始めた日、そう言って満面の笑みで肩を叩いてきた匡近を思い出した。
匡近だけは、死なせない。絶対に死なせない。実弥は抜き身の刀を手に、闇の中を駆け出した。


***


何度も、何度も呼ぶ声に、匡近の意識は徐々に呼び戻された。
「匡近! おい、大丈夫か!」
逞しい腕に、冷たい地面から引き起こされる。
「実弥……」
目を開けると、実弥の必死の表情が目に入った。こんなに動揺しているのは珍しい、と思った。
粉々に吹っ飛ばされた山小屋の瓦礫の中で気を失っていたところを、帰ってきた実弥に見つけられたのか。
状況を把握した次の瞬間、匡近は思い切り、右の手の甲で実弥の頬を打った。
「……?」
痛みよりも驚きが先に来た表情で、実弥は匡近を見返してきた。その胸倉を掴み引き寄せる。
「何も言わずに出て行くつもりだったのか!!」
互いの前髪が触れ合うくらいの至近距離で、怒鳴った。
結局のところ、実弥が何を思い、何を望んでいるのか自分には分からない。どれほど一緒にいようが頭の中は覗けない。
それでも、何も言わずに戻らないような薄い関係だとは、夢にも思っていなかった。

「……それが、お前と静さんのためだと思った」
いつものやり取りであれば怒鳴り返してくるところだったが、その代わりに実弥はぽつりとそう言った。
やはり、静が実弥に何かを言ったのか。おそらく、匡近と実弥が一緒にいたところで匡近は幸せになれないと、そう伝えたのだろう。
だから、敢えて匡近に何も言わずに、出て行くことを選んだのか。
―― 俺がそれをいつ望んだ!
何者に対してか分からない怒りは、目の前の実弥に向うしかなかった。実弥はうつむいたまま、微動だにしない。殴った頬が赤くなっていた。
「お前はいつも、分かりもしない誰かの願いばかり気にしてる。分かるのは自分の願いだけだ、違うか? 俺は、お前を行かせたくない。お前はどうしたいんだ」
ずっと、気になっていたことだった。実弥は、いつも誰かの願いに従い、誰かの幸せのためにだけ動いていると。
鬼を殺したいのは、弟に幸せになってほしいから。
一年余り前に匡近の元に身を寄せたのは、匡近がそう望んだから。
そして今去ろうとしているのは、静がそう望み、それが匡近と静の幸せになると思ったから。
幼い頃から置かれていた環境がそうさせるのか、実弥が自分がどうしたいか自ら語るところを、匡近は今まで見たことがない。自分が幸せになりたいと、考えたことはあるのだろうか。
それがずっと、もどかしかった。切実に知りたいと初めて思った。人の心は分からないと言う舌の根が乾かないうちに、相手の本心を掴みたいと思う自分自身を身勝手だと思いながらも、責めたてるのを止められなかった。
「俺……は」
実弥は言葉を止めた。伝えたいが伝えられないのか、それとも自分の願いを持たない、伽藍堂なのか。
その顔を見つめたが、本心は分からない。匡近は深いため息をついた。
「……後で話そう」
匡近は身を起こした。


崩れた山小屋を、ざっと一瞥する。手短に説明した。
「下弦の壱だ。静さんが連れて行かれた。あの山頂の寺院に今いる」
「……そいつの血鬼術は?」
軽く息をついて、実弥は訊ねてきた。声が少し掠れていた。
「槍遣いだが、槍から衝撃波を出してくる。連発できて、威力は見ての通りだ」
「成程」
実弥は立ち上がり、残骸の中から行灯を持ってくると、匡近の隣で火を点した。明かりを頼りに、左肩と頭を包帯で縛る。
「ずいぶんやられたな。……左腕、感覚ねぇだろ」
「誰かさんがいなかったからな」
いつもの調子で言うと、
「……悪かったよ」
帰ってきたのは、謝罪の言葉だった。

実弥は応急処置を済ませると、立ち上がった。
「お前はここに残れ。それじゃどこまで戦えるか」
「実弥は?」
「下弦の壱を殺す」
ためらわず言い切った。その言葉を聞いていると、本当にあっさりやってのけそうな気がする。
しかし下弦の壱の力は、実弥が今まで戦ってきたどの鬼と比べても段違いに強い上、相当経験も積んできているようだった。
あれほどの火力を連発されたら、さすがの実弥も生きて帰れる保障はどこにもない。匡近は立ち上がった。
「連携して戦わなきゃやられる。静さんも助けなきゃいけないんだ。僕も行く」
言った傍からふらりとよろめいた。体の傷ももちろんのこと、さっき頭を打ったらしく意識がはっきりしない。
実弥の肩に打ち当たり、心配そうに見下ろされた。ため息が降ってきた。
「……わかった。一緒に戦おう。あまり前に出るなよ」
「分かってるよ、相棒」
「山頂まで行く間背負ってやるよ。眠れるなら眠ってろ。少しでも体力を回復しろ」
有無を言わさず、軽々と背中に負われ、匡近は苦笑する。戦える実弥のほうが体力を温存すべきだが、そんなことを言っても到底受け入れないだろう。
「これじゃどっちが兄貴分だか分からないね」
「お前が兄貴分だよ。俺が怖いのはこの世でお前だけだ」
実弥がぼそりと言い、匡近は思わず笑った。