あたしは。
誰かにどう思われたい、とか。何かをしてほしい、とか。切実に思ったことは一度もない。
できることならみんなに好かれたいとは、もちろん思うよ。
でも不器用なあたしは、いつもみんなに迷惑をかけたり、傷つけたりしてしまうから。
これ以上誰かに何かを願うなんて、したらいけないことだと思ってきたんだ。
だからあたしは今、一枚の短冊を前にして、ずっと筆を取れずにいる。
もちろん、こんなのはただの遊びなんだ。
ただ思うだけで、願いが叶うなんて思うほどあたしも子供じゃない。
でも、手を伸ばさないからこそ、願えることもある。
ただひとつだけ、誰かに伝えられるなら。
あたしはすぅ、と息を吸い込んで、筆に墨を含ませた。


* * *
花に願いを
* * *


目覚ましが鳴り響く音に、雛森桃はむりやり眠りから引き起こされた。
「なに……もう、朝?」
信じられない。ちょっと前に布団に入った記憶があるのに、もう外が明るいのは一体どういうことだろう。昨日の夜、夜更かしをしてしまったのを恨んだ。
 バン、と目覚ましを止めた雛森は、寝ぼけ眼であたりを見回した。途端に、
「はれ?」
素っ頓狂な声を上げる。見慣れた、五番隊舎の私室とは景色が違っていたからだ。薄いピンク色のカーテンに、少女趣味といわれても仕方が無い人形たち。六畳くらいの小さな部屋には、朝の光が差し込んでいた。
「そっか、昨日実家にもどってたんだっけ」
流魂街での業務を終えた雛森は瀞霊廷には戻らず、久しぶりに祖母が住む実家を訪れたのだった。
 その時、庭で音がして、雛森は首を巡らした。何かを振っているような空気を切る音が続いている。よほど重いものなのか、単調に続くその音は低く、重い。
「……日番谷君?」
昨晩、日番谷と珍しくこの家で顔を合わせたんだった。それを思い出した雛森は、半纏(はんてん)を夜着の上に羽織ると立ち上がった。カーテンを開けたとき、格子窓の向こうで、赤い靴下が揺れているのが目に入った。うふふ、とそれを見た雛森の頬がほころぶ。ちょん、と指先で靴下をつっつくと、雛森は部屋を出た。


「うー、さぶさぶ……」
半纏の袖で口の辺りを覆いながら、雛森は廊下へ出た。小さな家だから、廊下を出たらすぐ、庭が視界に入る。庭は霜が降り、ところどころ真っ白になっていた。何かを振り下ろす風切音が、ひときわ大きく響き渡った。雛森はひょい、と庭を覗き込んだ。
 冬が似合う銀髪が、朝の光の中できらきらと光っていた。白い息が周囲に広がる。死覇装姿の日番谷冬獅郎が、鞘ごと氷輪丸を握り、素振りの稽古をしているのだった。既にどれくらい続けたものか、12月にも関わらずその頬には汗が流れている。雛森はしばらく声をかけるのも忘れて、その姿に見入っていた。
―― なんか、かっこいい……
図らずも、そう思ってしまった。素振りなんて初歩中の初歩、新人の死神がするものだと思っていた。自分もそうだが、席官以上の死神は、まずしないのではないだろうか。
 一分の隙もなく、正眼に構えられた刀。一歩踏み出すと同時に、目にも留まらぬ動きで振り下ろし、ぴたりと留める。そのときには、足はもとの位置へと戻っている。烈しい動きのようでいて、水のように皇(すべら)かで動きに無駄がない。初めて目にする隊長の素振りの型は、見ているほうも姿勢を正したくなるほど美しかった。
―― 大人になっちゃったな。
不意に、そう思う。実際のところは、人間の年齢に換算すれば14歳くらいだから、まだ「少年」と呼んでも差し支えない外見なのだけれど。もう、おいそれと「シロちゃん」なんて呼べない。いつの間にか背丈も、自分より高い。もう勝てるところなんてないな、と雛森は思う。かわいい弟だと思っていた日番谷が、いつの間にか自分を大きく追い越したことは、自称「姉」としてはもちろん嬉しい。でも少しだけ、寂しいような切ないような不思議な気持ちにも、なる。
―― 日番谷君。
そう、声をかけようとした時だった。

「暑ち……」
声を漏らし、日番谷が手を止めた。そして無造作に死覇装の襟に手をかけ、左右に開いた。鍛え上げられた上半身が腹の辺りまであらわになり、湯気が立ち上る。諸肌脱ぎの格好のまま、また刀を振り上げようとした日番谷が、ひょいと廊下に視線を転じた。
「……雛森? 起きてたのか」
氷輪丸を肩にかつぎ、日番谷は顔をのぞかせていた雛森を見た。唖然とした、とでもいうような表情で見返す雛森に、怪訝そうに眉根を寄せる。
「どうしたんだよ、ヒトの身体じろじろ見やがって」
「じろじろ。じろじろって……」
日番谷の言葉を反芻した雛森が、ぶんぶんと首を振る。その顔が、見る見る間に真っ赤に染まった。
見てるって、あたしがですか。あたしが日番谷君のハダ……
「あっ? おい、雛森っ?」
狼狽した日番谷の声をよそに、雛森は後ろにひっくり返った。


* * *


「と、いうわけだ。卒倒した雛森を介抱してて遅刻した」
十番隊長日番谷冬獅郎、初遅刻の言い訳にしてこれである。乱菊は大きく、ため息をついた。
「ダメですって。雛森はウブなんですから」
乱菊は隊首席に両手を突いて、席についた日番谷を見下ろした。
―― まぁ、あの子はちょっと、想像力が豊かすぎる気もするけど……
上半身裸を見たくらいでひっくり返のは、やや行きすぎな気がするが、雛森ならそんなこともあるかと納得できるから不思議だ。
眉間に皴をよせて、日番谷はその翡翠色の瞳で乱菊を見上げる。
「でも、ガキのころは普通に、一緒に風呂とか入ってたんだぞ。何を今更」
分かってない。乱菊はもう一度、ため息をついた。
「ちょと立ってください、隊長」
「は? 何だよ」
「起立!」
その声の勢いにつられた日番谷が、隊首席から不服そうに立ち上がる。その隣に乱菊は立ち、日番谷を見下ろした。
「……まだお前に追いつけねぇ……」
途端に、日番谷はうなだれる。その背丈は、乱菊より少しだけ、低い。
「いやいや、前はあたしの胸くらいしかなかったでしょ? 伸びてるんですって身長」
「お前を追い越すまでは、ダメだ……」
何がダメなのか分からないが、日番谷の基準は乱菊らしい。
「すみませんねデカくて。とにかく、それだけ身長があれば子供じゃないんですから、行動も改めなきゃダメです。暑いからってところ構わず服脱いでたら、そのうち捕まりますよ」
「斑目は? 阿散井は?」
「あいつらはいいんですバカだから」
すぱりと乱菊は斬り捨てた。日番谷を「見下ろす」といっても、目線はほどんど同じなのだ。その体格はまだ成長過程なせいか、すらりと細く華奢にさえ見える。だが百戦錬磨の隊長らしく鍛え上げられた筋肉は、猫科の獣のようにしなやかに身体を覆っていた。その身体からは、氷の匂いがする。冬の風のように凛と澄んだ、清冽な気配を感じる。男にも大人にもなりきっていない危ういような空気が、乱菊は好きだった。
ただ……それなのに。
雛森が絡むと、妙に「バカ」になるのだ、この元天才児は。
「……ちなみに、下は穿いてた」
「そんなの誰も聞いてません」
己の失言に気づいたのか、日番谷はさりげなく椅子に腰掛けると、ものすごい勢いで墨を磨りだした。あまりの力に墨が割れやしないだろうか、と乱菊はハラハラした。

「……あ、そういえば松本」
全然さりげなくないが、話題をそらそうとしている。
「冬に、桃の花が咲くとこって知ってるか?」
「へ? 謎々ですか?」
さすがに予想外の質問に目を丸くした乱菊に、日番谷は懐から取り出した短冊を示して見せた。そこに書かれた文字を、乱菊は読み上げる。
「『桃の花』……? 雛森の字ですね。これどこで?」
「アイツを介抱してるとき、部屋の外に落ちてるのを見つけたんだ。なんだと思う、これ?」
ははぁ。乱菊はすぐに頷く。
「窓のところに、赤い靴下がかけてなかったですか?」
「あぁ、確かにあった。なんだ? あれ」
「クリスマスのおまじないですよ。あちこちの家でやってるの、気づきませんでした?」
乱菊は肩をすくめた。
「七夕みたいな感じで、願いを書いた短冊を靴下の中に入れて、吊るすんです。そしたらクリスマスに願いが叶うんですって」
「……なぜ、靴下」
「知りませんよ。なんかちょっと現世でやってるのと違う気もするんですが、楽しけりゃいーんです」
「アイツらしーぜ……そういうの好きそうだからな」
日番谷はつまらなさそうにいうと、その短冊をつまんだ。指先で短冊がヒラヒラと揺れる。願い事をせっかく靴下に入れておきながら、落とすドジさもまた雛森らしい。
「しかし、なんでまた願いが『桃の花』なんだ?」
その言葉は、独り言に近かった。答えを乱菊に期待する気はなかっただろう。しかし彼女は、しばらくためらった後、口を開いた。
「……藍染元隊長、ですよ」
ピクリ、と日番谷の眉が不快げに動いた。乱菊を見上げてきた切れ長の瞳は、胡乱な光を湛えている。
「……藍染?」
「まだ二人が五番隊の隊長と副隊長だった頃の話です。真冬に藍染元隊長が、雛森に桃の枝をプレゼントしたらしいですよ。満開に花が咲いてるやつ。君のような桃の花を見つけたから、ぜひ見せてあげたいと思って……みたいな気の利いた言葉を添えてね。雛森が嬉しそうに言ってたから、よく覚えてます」
日番谷の表情が、見る間に暗く沈むのを見て、乱菊はチクリと胸が痛んだ。自分自身も傷つけるような気持ちで、敢えて続けた。
「あんなヒドイ形で裏切られても、時間がたってもやっぱり……あの子は、藍染元隊長を求めてるんですね」
一息に言うと、日番谷に背を向ける。
「さっ、仕事に戻りますか」
自分こそ、話をそらすのがヘタだと思いながら。背後の隊首机からは、墨を磨る音も、紙をまくる音も聞こえてこない。

 雛森の、藍染を思う気持ちはホンモノだ。そう乱菊は思っている。たとえ相手が自分が思っている姿と違っても、裏切られても、たましいを想う気持ちは変わらない。狂信だと批判されても、哀れみの目で見られても、それでも雛森は自分の意志を変えなかった。藍染を、愛し続けた。あの華奢な身体や、大人しそうな面立ちのどこに、それだけの烈しさがあるのだろうと思う。確かにバカな行動かもしれないし、理論的ではない。でも、乱菊はその一本気な強さが、嫌いではなかった。
 だから。日番谷の、雛森に寄せる淡い想いを感じ取るたび、ズキリと心が痛むのだ。できるなら、日番谷にはもっと別の幸せな恋を見つけて欲しい。それが、乱菊の願いだった。幸か不幸か、隊長に言い寄る度胸のある女性がいないせいで、日番谷はモテる割に女性には疎い。恋愛というものをよく知らない。だから、今ならまだ間に合うと思う。今振り切れれば、雛森への気持ちも、子供の頃の憧れで済ませられるかもしれないのだ。
―― 届かないものを追いかけるのは、ふたりとも似てるんだから。
乱菊は窓から覗く冬空を見上げ、ため息をついた。