日番谷冬獅郎の奇行が人々の口に上るようになったのは、その数日後だった。
「お待たせ! 阿散井くん。あれ?」
ひょい、と甘味処の暖簾をくぐった雛森は、狭い店内を見渡すと、きょとんと目を見開いた。
「浮竹隊長、京楽隊長に、檜佐木さんまで……みんなお揃いでどうしたんですか?」
「やぁ、雛森君! いや偶然ここで会ってね」
快活な笑みで浮竹が手を上げる。
「桃ちゃんと阿散井君、ふたりきりで待ち合わせだったとは、隅におけないなぁ」
茶を口に運びながら、京楽がニヤリと微笑んでみせる。雛森は慌てて手を振った。
「違う、違うんですって。阿散井君、甘いもの大好きなんですけど、一人で甘味処に入るのは恥ずかしいから一緒に来てくれって」
「言っちまうのかよ、それを……」
恋次がガックリとうなだれるが、その耳は真っ赤になっている。
「そんなことだろうと思ったぜ」
檜佐木が、安心半分、面白半分で頷く。机を囲んだ4人の前には、最中がいくつも積み上げられていた。
「これ……徳利最中ですか? あたしはムリだなぁ、お酒弱いから」
徳利最中とはその名の通り、酒粕を多分に使った、アルコール分の高い最中である。酒に弱い者にとっては、ある意味酒よりも悪酔いしやすいという悪名も持つ。
「それより、ちょうどよかった雛森」
檜佐木が、メニューを雛森に手渡しながら、顔を雛森に寄せた。
「お前ならあの噂の真偽が分かるかも知れねーな」
「え? 噂?」
「日番谷隊長に、ついに彼女ができたって噂だよ!」
雛森の手から、メニューがすべり落ちた。無言のまま、まるで頭が痛いかのように指をこめかみに当てて考え込んだ雛森を、4人は疑問符を浮かべたまま見守った。
「おい……雛森?」
日番谷。彼女。日番谷。彼女。
ふたつの言葉が雛森の頭の中を飛び交い……雛森は頭を振った。
「ムリ。くっつかないわ」
「ホラ! 日番谷君はまだ子供なんだよ? 恋人なんてまだだろうって言っただろ」
浮竹が途端に、なぜか勝ち誇った顔をして男3人を見渡した。
「子供にしてはデカすぎるっすよ、もう。でもまぁ、日番谷隊長につりあう女って中々いなさそうですしね」
恋次が最中を口の中に放り込みながらなぜか、頷いた。
「でも実際、モテるしなぁ。やっぱりいい物件に女は弱いのか」
檜佐木がなぜか、ため息をついた。てんでバラバラに勝手な感想を述べる男達を見回しているうちに、雛森の心には当然といえば当然な疑問が浮かんできた。
「でも、一体どうして、そんな噂がでてきたんですか?」
その質問を聞いた4人は、顔を見合わせ……同時にぷっと吹き出した。
「何なに? 何なの?」
「いや可笑しい。これは可笑しい話なんだよ、桃ちゃん」
「いやいや笑っちゃ悪いよ。でも、あの日番谷君がねぇ。あまりに似合わなくて」
「え? 似合わないって何がですか?」
「女物を扱ってる店という店を、ここ数日で片っ端から回ってるらしいんだ。まぁ笑っちゃ悪いんだが」
笑っちゃ悪いといいながらも、また噴出した男達を、雛森はぽかんとして見ることしか出来なかった。
日番谷が? 女物を?
信じられない。雛森が知る日番谷は、物欲というものがほとんどない性格だった。隊長だから望めば何でも手に入る立場なのに、生活必需品程度しか、買っているのを見たことがない。女物、なんていう色気を出すとは、夢にも想像できなかった。
「おっ、噂をすると何とやらだ」
雛森の戸惑いをよそに、京楽が窓の外に視線を向けた。こっそり、他の4人に通りの向こうを指差して見せた。怖いもの見たさに、雛森はそっと顔を覗かせてみる。
すると、きびきびとした足取りで日番谷が歩いてくるのが見えた。珍しく、隊首羽織は身につけていない。甘味どころの向かいに並ぶのは、女性客を狙った雑貨屋や化粧品屋だ。
「入るか? 入るか?」
妙に興奮している檜佐木の視線の先で、日番谷はさっそうと店の前を通り過ぎた。
「なーんだ。……あれ?」
京楽が、ふと言葉を留める。歩き去ろうとした日番谷が、ぴたり、と足を止めたからだ。そーっ、と振り返って、店の外に並んでいる商品を一瞥した。引き返そうとした足が、ためらう。
「……なんだなぁ、見てるほうが恥ずかしくなってくるような」
「入っちゃえばいいのに。女物の下着屋さん入るわけじゃないんだからさ」
「京楽隊長、アンタが言うと変態っぽいんでやめてください」
恋次と京楽が日番谷を凝視しながら言葉を交わしている。雛森は、困ったような表情の日番谷から目をそらせなかった。
その時、店の中から着物の上に羽織をまとった男が飛び出してきた。その身なりからして、店長だろう。
―― 「いやいや、隊長ともあろう方が直接足を運んでくださるなんて。さあ中へ入ってください!」
揉み手に引きつった笑顔からして、そういうことを日番谷に言っているのが伺える。手を取らんばかりに近づいた店長とは逆に、日番谷はのけぞるように一歩下がった。そして、小声で何かを店長に伝えたらしかった。店長は意味が分からないらしく、しきりと首をひねっている。日番谷は身振りで伝える方法に出たらしく、なにやら上を指差したりして説明を試みている。
「……分かるかい? 浮竹。あの身振りで」
「全っ然分からないよ、京楽」
日番谷も伝えあぐねているのか、なんともバツの悪い顔をして頭を掻いている。その当惑しきった姿は、快刀乱麻を断つ、切れ者と名高い日番谷隊長とは思えない。
「ちょっ、ちょっと、笑わないで! 会話が聞こえないよ〜!」
雛森は窓に耳をつけたまま、笑いをかみ殺している男4人を牽制した。店長は店の中に入っていったが、やがて出てきて首を振り、まるで拝まんばかりに頭を下げた。なぜか手も合わせている。日番谷はいい、とでも言うように手を振ると、そそくさと店を後にした。
「いやぁ、いいもの見せてもらったねぇ」
京楽が、ニヤニヤと笑いながらまた最中を手に取った。
「あれは女っスよ! それ以外に考えられねぇ」
恋次も今ので確信を持ったらしい。
「もうすぐクリスマスだし、彼女にプレゼント探してるんだよ。まぁ日番谷隊長も男ってことだな」
その言葉が、日番谷の去っていった店をなんとはなしに見ていた雛森の耳に届いた。
日番谷も男。
それは、これまでの言葉よりはすんなりと耳に入ったが、同時にショックでもあった。
そう、日番谷は男だ。
当然のことだが、これまでその当たり前のことを、意識してこなかったと思う。それがどういうことなのか、具体的に考えてみたことはなかった。
―― 「たく、お前はそんなんで、よく副隊長が務まるよな」
数日前の朝、卒倒した雛森が目を覚ましたとき、枕元には日番谷がいた。自分は姉のつもりでいたのに、いつのまにか兄が妹を見るような眼差しがそこにはあった。しょうがねえな、と呆れたような、それでいて見守るような。
昔は、全く違ったのだ。その稀有な霊圧を抑え切れず、力の使い方も知らなかった頃の日番谷は、よく近所の子供達に苛められていた。銀髪、碧眼、そして高い霊圧。今なら全部賞賛されていることが、当時は全て疎まれる原因になった。何度、日番谷を庇って他の子供達と言い争ったか分からないくらいだったのに。あの頃は、まさかこんな立場の逆転があるなんて、夢にも思っていなかった。……もう日番谷は、自分の後を必死になってついてきた小さな子供ではない。幼い頃のような表情を自分に向けなくなったのは、一体いつからだっただろうか?
そして今あんなふうに、日番谷を必死にさせるのは、一体どんな女(ひと)なのだろう。そう、雛森は思いを馳せる。苦労して探し出したプレゼントを、その誰かに笑って、手渡すのだろうか。喜ぶその人の顔に、どんな表情を返すのか……きっとそこにいるのは、雛森の知らない日番谷だ。
浮竹が、そのときポツリと呟いた。
「しかし、その女性は幸せだねぇ。あんなに日番谷くんが頑張るなんて。たとえどんなものでも、気持ちだけで十分だろうね」
その言葉が、胸に染みた。
「そうですね」
雛森は、微笑みを返した。そして、机の上においてあった最中に手を伸ばす。
「これ、いただきます」
「ええどうぞ……って、これ、アルコール強いよ」
「大丈夫です」
「おい、雛森?」
「大丈ぶ大じょうぶふふふふ……」
「ちょっと! お姉さん、水、水持ってきて!」
「……えへへへへへ、なんか楽しくなってきちゃった……て、あれ?」
こんな風に数日前も倒れたような。景色がぐるりと回り、それっきり雛森の意識は途絶えた。