「うわぁ。いつまで降るんだろう、この雪……」
雛森は筆を留めると、窓の外を見やった。窓の外は完全に音が無い世界で、しんと静まり返っている。しばらくして机の上に視線を戻すと、さらさらとなれた手つきで筆をはしらせる。瀞霊廷通信の挿絵を、雛森が担当するようになって、もう随分立つ。今日中に仕上げなければ、2月の制作に間に合わない。
「……この花はちょっと、いらなかったかな」
背景にさりげなく描き足した、桃の花。別に付け足すつもりはなかったのだが、気がつけば筆が滑ってしまっていたのだ。まぁいいか、とピンク色を筆に含ませる。小さな花弁を桃色に染めながら、雛森はかすかに唇を噛んだ。


―― 雛森君。雛森君、どこだい。
あの日、藍染はいつもの声で雛森を呼んでいた。優しく耳障りのよい、あのテノールの声で。その声で、自分の名を呼ばれるのが好きだった。真央霊術院時代に初めて会ってから目指し続けた憧れが、今目の前にいるんだと、そのたびに実感できたからだ。
―― 夢……あたしの、夢。
はぁい、と返事をして立ち上がりながら、雛森は想いを馳せる。なんだっただろう、とふと思う。藍染に出会う前は、自分は何を目指していただろう。死神になりたいと思うきっかけもあったはずなのに、思い出せなくなっていた。
瀞霊廷を護る。人々を幸せにする。藍染が口にする願いが、藍染のものなのか、自分自身のものなのか、もう分からなくなっていた。それでいいのかもしれないと想う。自分が藍染の中に溶け合い、同じことを考え、同じ行動をすれば、本当に一体になれたと思えるかもしれない。

「なんですか?」
隊首室に入るなり、この季節にはありえない香りが鼻腔をくすぐり、雛森は目を見開いた。
「これ……」
「流魂街で見つけたんだ。季節はずれにも満開になっていてね。同じ名前ということもあるだろうが、何だか君に似ていてね。君にあげようと思って持って帰ってきたんだ」
「あ、ありがとうございます!」
藍染が、自分がいないところで自分のことを考えていてくれたことが嬉しくて、雛森はパッと表情を明るくした。そして、藍染が手に持っている桃の枝を覗き込む。可憐な花弁が、藍染の掌の中でかすかに震えていた。
自分に似ていると言われたのが嬉しくなるほどかわいい花だ、と思う。でも、なんだか……
「どうしたんだい? 雛森君」
藍染の声が、上から降ってきた。
「受け取らないのかい?」


びく、と雛森は肩を震わせ、顔を上げた。筆から漏れたピンク色が広がり、慌てて懐紙を探す。嬉しい記憶の、はずなのに。少なくともあの時は、嬉しいと思ったはずだったのに。
「どうして、あたしはあの時、受け取らなかったんだろう……」
雛森はひとり、呟きを漏らした。

 


湿度のないサラサラとした雪は、死覇装に落ちても溶けることなく、着物の上を滑ってゆく。真っ白に埋め尽くされたその丘の上には、生きるものはひとつだけ。
雲が切れ、月が覗く。月光が雲間から降りてくる。降りしきる雪の中で一瞬、幻想的に咲き誇る桃色が視界いっぱいに広がった。
「……そこに、いたのか」
さく、と雪を踏み、日番谷はゆっくりと足を進める。指を伸ばすと、その花弁に降り積もった雪を払う。押さえを失った桃色が、元気を取り戻したようにまた上を向いた。その枝に手を伸ばした日番谷は、ふとその指先を、止める。
そしてもう一度、無人の丘に咲く桃を見上げ、無言で立ち尽くした。