どう、と風が吹きぬける音が聞こえた。
雛森に部屋には燈が落とされていて、囲炉裏(いろり)の炎ももう、燻(くすぶ)る程度だ。
部屋は、冷え切っている。
―― 眠れない……
雛森は、布団の中で自分の肩を抱きしめた。ぎゅっと力を込めると、かすかに震えている自分の体が、指を通して伝わってきた。
もうすぐ、日付が変わる。日付が変われば、本物のクリスマスがやってくる。それなのに、こんなに寂しいのは、あんな叶うはずもない願い事を、戯れにでもしてしまったからだろうか。

―― 日番谷くんのところへ、行こうかな。
ふと、あの翡翠色の眼差しを思い出す。日番谷なら、めんどうくさそうな顔をしながらも、きっと部屋に招き入れてくれるはずだと思う。たわいのない話をして、この寂しさをどこかに飛ばしてしまおうか。でも、昼間の日番谷は疲れていたようだった。それに、
―― 今頃、誰かが部屋にいたらどうしよう。
日番谷を当惑させてしまうだろうか。雛森は、もう一度自分の肩を握る指に力を込めた。痛いほど。この寂しさは、そうでもしないと紛らわせそうになかった。


その時。部屋のふすまが、スラリと音もなく開き、雛森の心臓はドキリと跳ね上がった。月光を背に、部屋の中に長い影が差し込む。
―― 誰?
身を起こそうとした時、闇の中から届いた花の香りに、雛森はギクリと身体を強張らせた。
そんな、はずはない。こんな冬に、あの花がそこにある筈がない。
―― まさか。藍染……
あまりのことに、身体が動かなかった。どうしたらいいのか、分からない。氷のように冷たい頬に、雪のような白いものがハラリと落ちた。それは、冷たくはなかった。
―― 桃の、花びらだ……

「……ごめんな」
その時耳元に届いたのは、全く思いがけない声だった。大人でもなく、もう子供でもない、微妙なバランスをたたえた声音。間違えようもない、長い間慣れ親しんだ日番谷のものだった。
それなのに、雛森は凍りついたまま、身を起こすこともできなかった。こんなのは、日番谷の声じゃないと思った。感情という飾りのない、全てをそぎ落とした素の、男の声。後ろにいるのは、雛森の知らない男だった。
 日番谷は立ったまま、雛森のいる部屋を見下ろしているようだった。おそらく雛森が起きていることには、気づいていない。もっと話して欲しい、でもこのまま行ってほしい。雛森は、切ないような気持ちで息を殺して、日番谷の次の行動を待った。

「やっと見つけたんだが、花は取って来れなかったんだ」
囁くようなその声は、音を失った景色の中ではっきりと通った。「やっと見つけた」。日番谷は、確かにそう言った。雛森の脳裏に、一生懸命何かを探していた日番谷の横顔がよみがえる。
―― まさか。
ドキン、と胸が痛いほどに高鳴った。
「たったひとりで咲いてるあの木は、お前みたいだ。……とても、傷つけられねぇよ」
その時雛森の脳裏をよみがえったのは、藍染の言葉だった。
―― 何だか君に似ていてね。君にあげようと思って持って帰ってきたんだ。
同じ桃の花を見て、同じように雛森に似ていると感じて、それを折り取る男がいれば、それを見守る男もいた。どちらが正しいなどと言う気はない。ただあの時、桃の枝を見て、自分は無残だと想わなかったか。そしてそれ以上に、藍染の手の中に握られた其れに、自分自身の運命を重ねなかったか。
布団の上に差し込んだ影が、動く。日番谷が背中を返したのが分かった。


「ずっと」
ピタリ、と日番谷がふすまにかけた手を止めた。
「ずっと、考えないようにしていたことがあるの」
白い頬を、一筋の涙が伝ってゆく。そんなはずはないとずっと目を逸らしながらも、常に鉛のように心に沈んでいた気持ちがあった。今この時言えなければ、一生沈めたままにしていたに違いない、生の心情。
「差し出された、桃の花。あれは藍染隊長にとって、儀式だったんじゃないかって」
「……儀式?」
日番谷は、肩越しにゆっくりと振り返った。途端、布団の上に起き直った雛森と目が合った。
「『自分のものになるか、ならないか』。藍染隊長は、あたしにそう聞いてた」

藍染の裏切りがなければ、甘い響きを持つ言葉だっただろう。だが今となっては、刃のような冷たさがあるだけだった。煌々と輝くその瞳は、日番谷の知らない女のものだった。日番谷は思わず、その輝きに息を飲む。
藍染のモノとなったあの桃の花。それを受け入れるか、拒絶するか。
「きっと、あの時受け取っていれば。あたしは今、ここにはいなかった」
「……受け取らなかったのか?」
日番谷の言葉は、今ははっきりと痛みを湛えていた。コクリ、と雛森は子供のように頷いた。頷いた拍子に、涙が一滴、その華奢な輪郭からこぼれた。

「藍染隊長の行くところなら、どこへでも行きたかった。考えることなら、なんだって信じたかった。それなのに」
受け取ろうとした胸の中で、それは絶対にダメだと否定する誰かがいた。
「それなのに、あたしは」
ぎゅっ、と心臓の前で、両手を握り締める。
「できなかった……」
ぽたぽたと、涙が膝をぬらしてゆく。


「今でも、そう想っているのか?」
日番谷が、部屋の中に足を一歩、踏み入れた。それだけでその存在が大きく膨らんだ気がして、雛森は涙をぬぐって、顔を上げる。日番谷が懐に手を入れ、掌の中に握った其れを解放する。ヒラリ、と音もなく一枚の小さな短冊が、畳を滑った。
―― 桃の花。
そう描かれた自分の字を、雛森は視界の端に捕らえる。無意識に伸ばそうとした左手が、途中で止まった。
―― 「受け取らないのかい?」
藍染の声が聞こえた、気がした。

「誰かに自分を受け渡して、いなくなってしまいたいと、今でも?」
日番谷の言葉が、藍染の言葉に重なる。かすかな怒りと、鉛のように沈んだ哀しみの上を吹いた、風のような声だった。
あたしは、何を望むんだろう。雛森は、短冊を目の端に捕らえながら、考える。
「あたしの」願いとは、一体なんだったろう。


途端。その場の空気が動いた。
「あ……」
雛森は、突然音もなく、自分の目の前に現れた人影に思わず声を漏らして身を退いた。伸ばしたまま固まっていた左手を、自分より一回りも大きな掌が、握りこむ。あっと思う間もなく、その手を引き寄せられた。
「日番谷君!」
上ずった声で、その名を呼ぶ。その声に含まれた恐怖に、気づいたのだろう。日番谷がぴたりと動きを止めた。目の前で片膝をついた日番谷の身体が、座り込んだ自分を覆い隠すように、大きく圧するように見えた。雛森の左手首をぎゅっと握り締めたその力は、ごまかせないくらいに強い。
怖い。雛森の心の中にサッと広がったのは、寂しさと、少しの甘さを含んだ恐怖だった。これ以上、踏み込んじゃいけない。踏み込めば、自分達はもう、あのきょうだいのような関係に二度と戻れない。
「日番谷君、やめて……」
距離を取ろうとした時、早口で日番谷がその言葉を遮った。
「いなくなるな」
「……え?」
「いなくなるな、と言ったんだ」
雛森は、思わず顔を上げた。至近距離で、ふたりの視線がぶつかる。ぶつかったと想った途端、その翡翠に吸い込まれる。視線を、そらせなくなる。
「俺は、お前がいいんだ。だから、そんなこと言うな」
何かに祈るように。日番谷は雛森の瞳を覗き込みながら、そう言った。
見る見る間に、雛森の瞳に涙がたまってゆく。嗚咽が、口から零れ落ちた。そっと背中に腕を回して引き寄せると、その身体はもう抵抗せず、すんなりと日番谷の胸に収まった。しゃくりあげるその肩に掌を寄せると、落ち着かせるように軽く撫でた。

自分は雛森がいいのだと想いをぶつけながらも、その想いが通じるかどうかなど、どうだったよかったのだ。雛森の心が藍染にあろうが、それはもう構わない。自分を全て与えて悔いがないと思うほど誰かを愛して、そして失った苦しみなど、日番谷にはどうしたって分からないのだから。
何が、その時雛森を引きとめてくれたのかは分からない。ただ、その何かに黙って感謝したい気持ちだった。

誰もいない、たった一人の冬の原野で、何かを待つように、ひとり咲き続けていたあの花。
やっと、見つけることが出来た。
その時自分が望んだのは手折ることではなく、ただ通り過ぎるだけでもなく、
そこを訪れ柔らかに包み込む雪のように、なりたいということだけだった。