春。この地の天気は常に、晴れ・時々桜。
あたたかな風は濃厚な花の香りをはらみ、石畳が続く回廊を流れてゆく。
陽光を受けた桜の花びらは、笑いさざめきながら回廊を歩く人々の頬をピンク色に染めてゆく。

この地の名は、南流魂街一番区、「桜花楼(オウカロウ)」。
桜が多い町というよりも、群生地に人が住まわせてもらっている、と言った方が似つかわしい。
一番区のため治安も良く、西の一番区潤林安と並んで、もっとも住みやすい地域とされていた。

桜が見ごろになると、瀞霊廷の貴族や死神たちがよく訪れることでも有名だった。
そのため、彼ら彼女ら向けの飲食店が石畳の両側に並んでいる風景は、まるで観光地のように華やいでいる。
町はゆるやかな丘陵地帯になっており、あちこちに古めかしい回廊が曲がりくねって続いている。
そこを、桜目当てで訪れた人々が賑やかに歩いてゆく。


カラン・カランと下駄を鳴らし、石の階段を上がっていた娘が、空を見上げて歓声を上げた。
「ねぇ、あの丘の頂上にある桜の木、すごい! あそこまで行ってみようよ!」
つられて何人かが娘の視線の先を追い、おぉ、とどよめきが上がる。

目を疑うほどに、巨大な桜だった。
周囲の桜は大きなもので10メートル程度だが、30メートルはあるのではないだろうか。横幅も、普通の桜の3倍は優にある。
樹齢が何百年になるのか、想像もつかなかった。逞しい幹は漆黒で、枝が宙に差し上げるように勢いよく伸びている。
そしてその枝のひとつひとつに、みっしりと花が咲いているのだった。ひときわ高い丘陵の頂上に位置しているため、
町から見上げると、まるで宙に浮かんでいるようにも見える。美しい、を通り越し、圧倒されるような風景だった。

娘の隣を歩いていた初老の男は、娘が指差す方を見やる。すぐに、
「ああ、あれは駄目だ」
と首を振った。
「駄目って、どうしてよ?」
「あれは、『隊首桜』と言ってね。流魂街で一番大きな桜らしいんだが、あれを近くで見られるのは、死神の中では隊長様だけだよ」
「納得いかない」娘は頬を膨らませる。「隊首桜って言ったって、隊長さんが植えて育てた桜じゃないんでしょう? じゃあ、隊長さんのものじゃないでしょ」
「俺に言われても」男は首を振る。「他の桜が隊員なら、あのでかい木は隊長様だっていうことで、そう呼ばれるようになったって聞いたけどな。
転じて、隊長様しか見られない桜って意味になったんだろうな。俺もそう昔のことは知らんよ」

ふぅん、と娘は鼻を鳴らすと足を止め、威容、としか言いようがない隊首桜を見上げた。
「たしかにそう言われてみると、凄い綺麗だけど近寄りにくいね。……まるで、何か棲んでそうに見える」
ざわ、と丘の上を風が吹き抜け、花びらが一斉に枝を離れ、空気が白くけぶって見えた。


***


そのころ。
隊首桜の幹に背中を凭せ掛けた一人の男は、くぁ、と大あくびをしていた。
身の丈2メートルはありそうな巨躯だが、大人が数人がかりで腕を伸ばしても一周できなさそうな幹の根元では、子供のように小さく見える。
はだけた着物の襟からは、逞しい胸板が覗いている。ハリネズミのように黒髪を逆立てており、髪の先にはなぜか鈴をつけていた。
あたたかな風に吹かれ、リーン、と澄んだ音を響かせている。

くつろいでいても、全身から刃のような鋭利な気配を漂わせた男だった。
一重の瞳は狼に似て鋭く、死神でさえ一対一で恐れをなさずに話せる者はそういない。
平和そのものの景色の中に打ちこまれた楔のように、異質な空気を放っている。
更木剣八。剣の腕前は死神随一とうたわれる、十一番隊の隊長だった。


手には酒を満たした盃があり、近くには徳利がいくつか転がっている。
更木がうつらうつらするたびに、酒の表面が揺れた。
―― 春ってのは、なんでこんなに眠ぃんだ……
目が合っただけで瞬殺されそうな恐ろしい顔で、今はそのようなことを考えていたりする。
その盃に、ひらり、と花びらが一枚舞い込む。桜酒ってのも粋だ、と眠気に支配された頭で思う。
羊を数える要領で、盃に落ち込む花びらの数を無意識に数えていた。

―― 一枚……二枚。五枚……七枚……
そこまで数えて、更木はカッと目を見開いて、頭上を仰ぎ見た。
「やちる! てめぇ調子にのって暴れまわるんじゃねぇ!」
「きゃはっ、ごめーん!」
更木に返したのは、思いがけず無邪気な少女の声だった。
更木が見上げた視線の先、枝の脇に、小さな黒い影がふたつ、ぶらぶらと揺れている。
よく見れば、草履の裏だった。ひょい、とピンク色の頭が枝の上から更木を見下ろす。
「だって剣ちゃん、お酒飲んでばっかりで遊んでくれないんだもん!」
更木を前に全く恐れる様子もなく、口をとがらせて言い返した。

「どうしろってんだ」
更木は、駄々をこねる娘に手を焼く父親のような顔をした。
「剣ちゃんもこっちおいでよ。綺麗だよー!」
パンパン、と自分の隣の枝を叩く。
「そんな細い枝に俺が座れるか!」
「じゃー、こっち! こっちなら太いよ」
「それは幹だろ。タテの幹にどうやって座るのか言ってみろ」
「剣ちゃん、わがままー!」
うんざり、と更木はため息をつく。それに堪える様子もなく、やちるは満面の笑みで更木を見下ろした。
その髪は、桜の色が染まりこんだかのようなピンク色である。頬にはくっきりと笑窪が浮かび、子供らしくポツンと膨らんでいるのが愛らしい。
「俺はここでいいんだよ」
更木はそういうと、杯に落ちた花びらごと酒をぐぃっと飲み干した。
「そう?」
やちるは残念そうに言うと、前のめりになっていた体勢から、ぐいんと胸を立てて起き直った。足をブラブラさせながら空を見上げる。 


無数の花弁が幾重にも重なり、桜色のグラデーションをつくっていた。その先には穏やかな水色。枝の中にいると、どこまでも無限にこの景色が続いているようだ。
―― ひとりじめするにはもったいないよ。
そう、やちるは思う。更木のことが、好きだった。楽しいものキレイなもの嬉しいもの、全部更木に見せてあげたいくらい。
やちるにとって更木は父親であり、兄であり、それだけでは言い表せない「家族」だったから。
「おや?」
その時、やちるは目を見開いた。青い空を、キラキラと輝く飛沫が駆けてゆく。

「雪! 剣ちゃん、雪が降ってるよ!」
やちるの興奮しきった声に、杯を落しかけていた更木がうっすらと目を開く。
「あぁ? 雪なんかこの陽気で降るわけ……」
更木がめんどうくさそうに顔を上げた。その尖った髪の上にもキラリと光って何かが落ち、杯を差し出した。
酒の上に落ちたそれは、一瞬氷の結晶の形に光り、スゥッと消えた。

確かに雪だ、と思った時、ざぁ……と一陣の風が吹き抜けた。花が一斉に枝から離れる。花弁と共に無数の雪片が空に舞い上がり、キラキラと輝いた。
「わあ!!」
やちるが大きな丸い目をしばたかせ、歓声をあげた。
「何遊んでんだ、アイツは……」
その一方で更木は冷静につぶやくと、酒をかぱりと飲み干した。何がどうなろうが、こんな春の晴天に雪が降るなどありえない。
そしてソウル・ソサエティ広しといえども、天候を自由に操れる者は更木が知る限り一人しかいなかった。


その時、今日の陽気にしては涼やかな風が上空から吹き下ろして来た。
「あ!」
やちるが頭上を見上げ、声を上げる。
ふわり、と枝の上に舞い降りたのは、漆黒の死覇装をまとった少年だった。
いつものように隊首羽織をまとっていないため、その姿は、桜の中で影のように見えた。
逆立てられた髪は、陽光を浴びてまぶしいほどの銀色に輝いている。
吹き抜けた風にはらり、と袖がまくれ、肘のあたりまで露になった腕はやちると同じくらいに白い。
死覇装の黒がなければ、なんだかその場の風景に溶けてしまいそうな、透き通った色彩を持っていた。
十番隊の隊長をつとめる天才児、日番谷冬獅郎である。

誰なのか気づいたとたん、やちるはパーっと人懐こい笑みを浮かべる。
「ひっつん! 何やって……」
「来るな草鹿!」
駆け寄ろうとしたやちるに、日番谷は思いがけず厳しい声を投げかけた。
やちるは、日番谷が背負った刀の柄を握っているのに気づき、動きを止める。
「なんだ?」
更木が盃をカラン、と地面に転がす。そして根元にあった二本の斬魂刀のうち、無骨で重いほうの刀を引き寄せた。
その直後、ざっ、と乱暴に空気が乱れ、かき乱された花びらが大量に宙を舞った。
「来るぞ!」
日番谷が鋭く叫ぶ。枝の間をすり抜けるように、巨大な黒い影が奔るのが見えた。
「剣ちゃん!」
やちるが声を上げると同時に、その影は地上に飛び降りていた。更木からは10メートルほどの距離だった。

「……噂通り、でけぇな」
頭上からその姿を見下ろした日番谷が、そう呟いた。
「てめぇに比べたらな」
腰を下ろしたまま、更木が口をはさむ。
「うるせぇ! お前よりもでかいだろうが」
きっ、と振り返って日番谷が文句を言ったが、グルル、とうなり声が聞こえ、視線を前に戻す。

そこにいたのは、一頭の狼だった。その体躯は確かに、更木よりも一回りは大きい。尾を入れれば体長は3メートル近くになるだろう。
黒に近い、こげ茶色の体毛に全身を覆われ、その目は鳶色で、爛々と輝いている。
大人の中指ほどはありそうな牙に縁取られた口の中は真紅。三人を明らかに敵を認め、牙をむき出している。
―― ただの獣じゃねぇな。
死神がもつ霊圧ではない。だが、肌に差すような圧力を感じる。
そして、直線上にいる更木を敵と認めたらしい。その鳶色の瞳が、更木の前で止まった。
「獣のくせに、俺とやろうってのか。いい度胸だ」
狼の唸り声が、やむ。全神経を前に集中させているのが分かる。
更木が刀を手に身を起こした直後、一足飛びに更木に飛びかかった。

その刹那、日番谷が樹上から消えた。
「ひっつん!」
やちるが声を上げる。日番谷が刀を抜きはなち、地面と垂直に構えて一気に狼の上に飛び下りたのだ。
気づいた狼が脚を止め、牙を頭上に向ける。突き下ろされた刃と牙が絡み合い、耳障りな音を立てて、一旦離れる。
狼の背に飛び下りる形になった日番谷は、横ざまに刃を払った。狼は刀を無視し、日番谷の胴体を捕えようと牙をむいて迫った。

ドッ、と鈍い音が響き、一人と一頭は飛び離れた。
「ほぉ」
更木はわれ知らず、感嘆の声を上げた。着地した日番谷に傷はなく、狼は刀を口で受け止めた時に切れたのか、口の端から血を流している。
獣の分際で、隊長である日番谷とやりあっている。面白い、と更木は刀の柄に手をやった。
「どけ、日番谷。てめぇにかばわれる謂れはねぇ」
「てめぇなんぞ誰が庇うか」更木に背を向けたまま、凛とした声で日番谷が返す。「見つけたのは俺だ。手ェ出すな」

「ねぇ」
一人だけ緊張感なく、樹上で足をゆらゆらさせていたやちるが、そこで声を挟んだ。
「なんか、このわんこ、様子が変だよ」
「あん?」
日番谷が狼を見やり、そしてすぐに異変に気付いた。刀を構えたまま、わずかに身を引く。
グルル……と地鳴りを思わせる唸り声を立てていた狼の姿が、少し薄くなったように感じる。そして、近くにいるのに声もだんだん小さくなる。
「背後が透けてる……?」
日番谷が眉間にしわを寄せる。そして三人が見守るなか、その姿は少しずつ透き通り……やがて、溶けるように消えた。
「……」
三人はぽかん、と狼がいなくなった後の地面を見つめた。


「ダメだよひっつん!」
 一番はじめに反応したのは、やちるだった。
「わんこ溶かしちゃだめ!」
ぴょん、と身軽な動きで枝から飛び降りた。……ただし、日番谷の頭の上に。
「ぅおっ?」
ガクン、と日番谷の体が前にのめった。
「バカ野郎、降りろ!」
「ひっつん、ちっちゃいねー」
日番谷の頭を挟み込むように膝を置いて着地したやちるが、不満げに言う。
「てめえにだけは言われたくねぇ! いいから降りろって」
翡翠色の瞳がやちるを見返す。感情が高ぶると少し光度が上がるその瞳は、今は落ち着いた色に戻っている。
「えへへ」
「なんだよ?」
やちるが笑い出すと、日番谷は不審そうに片方の眉を跳ね上げた。やちるはううん、とそれには答えず、首を振る。
一回キレイ、と言ったら傷ついた目をされたから何も言わないようにしているが、やちるはその色がとても好きだ。
遠い昔……屋台で見つけて、ねだりにねだって更木に買ってもらった青いガラス玉。すぐに無くしてしまって泣いた、あのガラス玉に色が似ているからかもしれない。

「オイやちる、降りろ」
「ハーイ!」
更木の不機嫌そうな声が飛び、やちるはあっさりと肩から飛び降りた。
「おまえ、更木の言うことなら聞くんだな」
「だって剣ちゃんだもん!」
「意味わかんねえ」
肩をぐるぐる回す日番谷と、つきまとうやちるを更木は交互に見やる。
―― 小人のようだ……
日番谷の身長は更木の腹くらいまでしかないが、やちるはその日番谷の肩くらいしかない。二人が並んでいるのを見て、更木はある意味感動した。

「それよりガキ大将」
「日番谷隊長だ!」
日番谷が嫌そうに眉根を寄せる。
「どうだっていいだろ。今、何した?」
いきなり敵を別の空間に転送する、などという鬼道を更木は知らないが、それを言うなら鬼道全体にわたって関心がない。
対照的に天候を操るほどに鬼道に熟達した日番谷なら、そんな技を知っていてもおかしくないと思った。しかし日番谷は面白くもなさそうに首を振る。
「何もしてねぇ、勝手に消えたんだ。たぶん、あれは……」
そこまで言いかけたとき、日番谷は目の前を舞い落ちた花びらに気をとられた。花の落ちてきた道筋をたどるように、木を見上げる。
「これが隊首桜、か……初めて見たぜ」
「キレイでしょ!」
まるで自分のもののように、やちるが誇らしげに胸を張った。

「これで、あの狼がいなきゃな。あれじゃのんびり花見もできやしねぇ」
独り言のようにつぶやいた日番谷を、更木が見下ろす。
「そういえばさっき、噂がどうとか言ってたな。あの狼を知ってんのか」
「あれは、この桜に憑いてる狼だよ。桜が咲く季節になると現れて、近くにいる奴を見境なく襲う。
もう百年ほど前になるらしいけどな、大勢の流魂街の住人や死神が襲われて命を落とした。
この桜の下にしか現れねぇから、近づかなきゃいいんだが。警告のために、『隊首桜』って呼ぶようになったらしいぜ」
「とっとと殺せばいいだろうが」
「たかが獣と侮るな、副隊長が重傷を負わされたこともあるんだからな。まあ、次現れたら殺すさ」
そして、さきほど視線を奪われた桜の花を見上げる。銀髪が桜色に染まった。
「こんな桜、隊長だけで独占するにはでかすぎるしな」

暖かな春の風が吹き抜ける。
中途半端に起こされてみれば、更木にはもう眠る気も起きなかった。かといって敵はもういない。
「そう思うなら、こんなトコで油売ってねぇで追えばどうだ。俺は興が削がれた、帰るぞやちる」
「えーもうちょっといたい!」
駄々をこねるやちるを見つつ、日番谷はふと首をひねった。
「……考えてみれば、追わなくてもいいのか」
「あ? なに一人で納得してんだ」
「気づかなかったのか、あれは……」
「ねーひっつん、遊ぼうよ!」
二人の会話に、やちるが割って入った。
「遊ぶ?」
「うん! いないいないバーしたり、鬼ごっこしたり、おま……」
「絶対にやらねー」
口の端を引きつらせながら、やちるの話を強制終了させた。
何を血迷って、隊長と副隊長ともあろう者が、いないいないバーや鬼ごっこや、おま……まごとなどする必要があるのか?
いや絶対にない。

「俺は、この桜に用があって来ただけだ」
「よう?」
やちるが首をかしげる。
「何本か、花がついた枝を取りにきたんだ」
そう言うと、ひょい、と数メートル上の枝にとびのった。背負った氷輪丸の柄に手をかけるのを見て、
「ダメー!!」
他の二人がその場に固まるほどの大声で、やちるが叫んだ。
「生きてる枝を切っちゃだめ! かわいそうだよ」
バツの悪い顔で、日番谷が柄から手を離す。この少年には珍しく、言い訳がましく返す。
「ンなこと言っても、この辺には枝なんか落ちてねぇだろ?」
「待ってて!」
言うが早いか、やちるがその場から掻き消えた。いつも更木の背中にくっついているから分かりづらいが、彼女の足の速さは瀞霊廷随一なのだ。

「お待たせ! こんなに落ちてたよ」
 わずかに数分後。満面の笑みを浮かべたやちるが現れた。その小さな両腕には、抱えきれないほどの枝が、大事そうに抱えられていた。
「……ありがとう」
ぎこちなく礼を言うと、日番谷が枝を受け取る。その拍子にひらひらと花びらが舞い、甘やかな香りがたちのぼった。
「もっていってあげなよ、喜ぶよ」
日番谷の後姿に、やちるは声をあげた。