「籠の鳥」とはよく言ったものだ、と花夜は夜道を行きながら自嘲する。
町人とほとんど変わらない程度の化粧しかしていなかったのが幸いしてか、
たまにすれ違う町人がいても、花夜に不審な目を向ける者はいなかった。
―― 早く行かなきゃ。
妙な胸騒ぎがした。気は焦るが、足は前に進んでくれない。
花夜が遊郭の自室で忘れないよう何度も思い起こして来た、少女時代の遊び場だった町と、現実の景色がどうしてもつながらない。
道は、こんなに広かっただろうか? そして、自分の足はこんなに重かっただろうか?
昔は何分でも平気で駆けていられたのに、今は普通に歩き続けるだけでも苦痛だった。
遊女として遊郭から一歩も出ることがなかった五年の間に、完全に体力が奪われているのを思い知った。
道はところどころ変わっていても、あの桜だけは町のあちこちから見えたから、方向を間違える心配はない。
桜の木へ続く坂をのぼりながら、花夜は何度も立ち止まりそうになっては歯を噛みしめた。
「あっ……」
足が上がらなくなっていたせいだろう。小さな小石に躓いて、前のめりに転ぶ。
「あ、痛……」
とっさに地面についた手のひらがじんじんと痛んだ。
膝の泥を払い、ふと座り込んだっま夜空を見上げる。
目覚めたばかりの蛙の合唱が、ところどころで聞こえた。
星はいつもよりも暗い空で、かすかな輝きを放っている。その姿が、不意に涙で滲んだ。
手のひらに残るこの痛みすらも、遊郭の中にいては遠いものだった。
汗を掻くことも、また心地よく懐かしい。
外に出て来たんだ。ここまでは必死でそれどころではなかったが、急に実感が込み上げてくる。
―― 誠之助さんに、会いたい。
生の自分の感情が、ふつふつとわきあがって来る。
花夜は、限界を訴える足を励ましながら、一歩前に踏み出した。
「……あら?」
なんだろう。視界にちらりと、誰かの影が見えた。
大人ではない。それどころか、自分の腰のあたりくらいしか身長がなさそうな、まだ子供だ。
子供が、こんな時間帯にこんな丘に一人でいるのは不自然だ。
黒い着物の袖が、ちらと見えた。闇よりも暗いその黒さに、なぜかぞっとした。
「……誰?」
泣いている。女の子が、かすかにすすり泣いている声が聞こえる。
「誰なの。どうしたの」
つられるように、坂を上がり桜の元に急いだ。
声は歩いても歩いても、遠くも近くもならない。
奇妙な夢の中に迷い込んだような感覚だった。
丘の頂上に立ち、辺りを見回したところで……花夜は、喉の奥で悲鳴を上げた。
桜の根元に、一人の男が仰向けに倒れていた。
体格もよく分からないほどの距離だったのに、なぜ、彼だと一瞬で気づいたのだろう。
少女のすすり泣きを聞いたときに、本当はもう予感があったのかもしれなかった。
「誠之助さん……」
足が、一足ごとに力を失い、崩れ落ちそうだった。
頭がしびれたように何も考えられない。感じることもできない。
質素でも、いつもきちんと着こなされていた着物は襟元が大きくはだけ、乱闘があったことを示していた。
髪は乱れ、べっとりと顔に血がこびりつき、あちこちはれ上がっている。誠之助だと見分けることすら難しい容貌になっていた。
胸といわず腹と言わず、いたるところに血痕が見えていた。
激しい乱闘を物語るかにように、桜の木の幹に短刀が突き立っていた。
そして地面には、血に滲んだ笛が一本投げ出されている。
ぺたん、と誠之助の傍にしゃがみこむ。
地面に広がる血が着物を汚したが、それも何だか夢の中のできごとのようだった。
「誠之助さん」
もう一度、声をかける。助かる傷ではないことだけが、間違いのないことに思えた。
誠之助が、不意にうめき声を漏らす。そして、かすかに目を開いた。
「どうして……?」
頭は状況を理解できていないはずなのに、目には勝手に涙があふれ、いく筋も頬を伝った。
誠之助は口を開き、何かを口にしようとする。でも、息が口から漏れるだけで、音にはならなかった。
「なに?」
頭を抱え起こし、耳を近付ける。その口の動きで、
―― 来てくれたのか。
そう言ったのが分かった。
普段はつけていないはずの手甲脚絆。
そして、踏みにじられた、何も入っていない風呂敷。
どこか遠くへ旅立とうとして、金を盗賊に奪われたのか。
いや違う、こんなところに偶然盗賊が大勢、駆けつけるはずがない。これはきっと……
「店のお金を、盗んだの?」
誠之助の目の光が、言葉以上の答えだった。
「どうして……」
いつか、誠之助と手と手を取って逃げることを夢見ていた。
その未来は、手に届くところに来たはずだった。
「……ゆけ」
その口が、必死に言葉を紡ごうとしている。
「なに?」
「私を、置いて……ゆけ。逃げろ」
足抜けした遊女はタダでは済まされない。
子供のころから逃げ出そうとしては折檻を受け続けていた花夜が、一番よく分かっている。
特に今回は、前田への身請けが決まった直後である。前田の意向によっては、命も危ない。
「……嫌よ」
花夜は誠之助の頭を膝の上に下ろすと、静かに首を振った。
「自由になったところで。あなたがいないのに、生きていたってしょうがないでしょう?」
涙は、気づけば止まっていた。人は絶望すれば、涙さえ枯れるのだと知った。
「見つけ……るから」
誠之助の声は、もう赤ん坊よりもか細い。それでも必死で続ける。
「探す……から。必ず次の世で、またお主を見つける」
前に会った時の、花夜の言葉を覚えていたのだろう。
次はしがらみのない世で会えたらいいのに。もちろん、かなうはずもない戯言のつもりだった。
「……そうね」花夜は咲き誇る桜を見上げた。別離と、再生の花。あたしが愛した花。「本当に、そうできたらいいわね」
幾人もの、足音が聞こえてくる。花夜は、それでも視線をそちらに向けようとしなかった。
数メートル隣に足音が近づいて初めて、瀕死の誠之助も察したようだった。
その目に、必死の感情が宿る。
「逃げ……」
「こんなことだろうとは思ってたが」
誠之助の声は、突然呼びかけた男に遮られた。
花夜は、ゆるゆると顔を上げる。
自分を取り囲む男たちが、何本もの木の棒を持っているのに気づいた。その棒のあちこちが、血で濡れている。
「あなた達が、誠之助さんを?」
「捕まれば公衆の面前で打ち首の上曝し首だ。この場で殺してやるのが親切だろ」
逃げろ、逃げろ、と誠之助がささやく声が聞こえる。
怜悧ないくつもの目が、花夜に向けられた。
「誠之助をたぶらかして、金を持ち出せたのか。ともに町から逃げるつもりだったか?」
「ちが……」
誠之助が言葉を発し、せき込んだ。血の混じった泡が周囲に飛び散る。
「違わないわ」
花夜の言葉に、誠之助が信じられぬ、というように目を見開く。
結局、違わないのだ。
あたしの存在が、誠之助さんから名誉も地位も奪い、そして今、未来を奪おうとしている。
あたしがいなければ、こんな結末は訪れなかったはずだ。
「わかってた」
ぽつりと、つぶやく。
「幸せは、取り過ぎちゃいけない。夢は、見過ぎちゃいけないって」
分かっていたのに手を伸ばし、その代償に全てを奪われるのか。
桜の木に突き立った短刀を引き抜いた花夜を見て、男たちがせせら笑う。
「女の細腕で、その刀で何をしようってんだ?」
や……め……ろ。
臨終の近い誠之助の目が、そう語っている。恐怖を映しているのが分かる。
花夜は、いやいやをするように首を振った。そして、ほほ笑む。
「またいつか、次の世で」
切っ先を、自分に向ける。男たちが声をあげて駆け寄るその一瞬前に、その刃は花夜の喉に吸い込まれた――
***
ほろほろと、花弁がこぼれる。
無限の命を示しているかのように、落ちても落ちても、咲き誇る桜は少しもその質量を減らしたようには見えない。
その根元に、男女一対の躯が眠っている。
男は仰向けに、女はその男の上に覆いかぶさるようにうつ伏せに倒れ、ともに事切れている。
音なき足音、姿なき人影をもつ、一人の少女が歩み寄る。
その頬には、涙の痕が残っていた。
「何を言ってるの」
花夜の、血にまみれてなお美しい横顔を見下ろす。新しい涙が、その傍に弾けた。
「幸せになって、ダメなわけないよ」
傍にいて、全てを見ていた。でもやちるは、何もできなかった――
転がる笛を、手に取る。胸に押し当てたとたん、感情がどっとこぼれ出した。
「こんなのって、こんなのってないよ!」
笛を抱えたまま、やちるはその場に泣き伏した。
* last update:2011/9/3