涙が頬を流れ落ち、その冷たさに、やちるは我に返った。
「……ここ」
桜の幹に背中をもたせかけて座ったまま、眠り込んでいたらしい。
身体を起こすと、どれだけ長い間同じ体勢でいたのか、身体のあちこちが痛んだ。
首の後ろを押さえながら見上げると、夕焼けの中で光り輝く、桜の花弁が視界いっぱいに広がっていた。
「……夕焼け? 夜だったのに」
ぼんやりとつぶやいた時、ふと空気が変わっているのに気づく。
茂みの間から覗ける眼下の町並みの向こうに、整然とした黒瓦、白壁の建物が続き、中央には巨大な尖塔が見える。
「……瀞霊廷!?」
見慣れた姿を、間違えるはずはない。
―― 戻って来たの……?
あれほど戻りたいと思っていたのに、喜びが沸いてこない。
さっきまで目の当たりにした誠之助と花夜の死にざまがあまりに無惨で、まだ夢を見ているようだった。
はらり、とやちるの肩に、ひとひらの花弁が舞い降りる。
「隊首桜……」
ぼんやりと、つぶやく。
夢、だったのだろうか?
ただの夢だというにはあまりに、誠之助と花夜の無惨な最期は生々しく、やちるの胸はまだ早鐘を打っている。
香りも、音も、目で見えた景色も、あまりにはっきりと覚えていた。
「ん〜……」
考えるのは苦手なのだ。どうしよう、と思った時、パッとひらめいた。
「ひっつんに聞けばいいんだ!」
考えてみれば、もうここは流魂街なのだから、助けてくれる仲間はいくらでもいる。
勢いよく立ちあがったやちるは、ふ、と幹の一点を見上げて、固まった。
やちるの頭の、少し上くらいの場所に、小さな傷跡が残っていた。
鋭い刃物によって傷つけられたように見える。そしてその場所は奇しくも、花夜が自害した短刀が突き立っていた場所と同じだった。
偶然……なのだろうか?
やちるは泣きそうに顔をゆがめたが、すぐに身をひるがえす。
なんだか、この世界も夢だったらどうしよう、と恐怖が胸をつきあげたからだ。
遠くに見える瀞霊廷も幻で、いくら話しかけても死神たちが気づいてくれなかったらどうしよう。
たった一人なのは、もう一秒たりとも嫌だった。
しかし、やちるは駆け出してすぐ、足を止めることになる。
―― 何か、来る。
死神として鍛え上げられた鋭敏な感覚は、足音もなく近付く気配を察知していた。
刻一刻と暗くなる夕闇にまぎれるように、巨大な獣の姿が現れた。
その輪郭は半ば闇に溶け、目だけが爛々と輝いている。
そしてその目は、まっすぐにやちるを睨んでいた。
荒い獣の息が、静寂の中に響き渡る。
数時間前、日番谷が追っていた狼に違いない。
更木がやちるの斬魂刀も持って来てくれいたことをふ、と思い出し、桜の幹の方を横目で見る。
巨大な根っこの向こうに、刀の鍔のようなものが覗いている。
刀を手に戦うか、それとも逃げるか。
更木は「何かあったら自分を呼べ」と言っていた。
でもいくら更木でも、こんなことで迷惑をかけたくはなかった。
自分は副隊長と言う立場で、それに値する実力もあると知っているからだ。
まなじりを決して、ゆっくりと歩み寄って来る狼と対峙する。
自分の足なら、狼が飛びかかって来るよりも早く、あの刀を掴み取ることができる。
狼も、やちるの目を見返している。
鳶色のその瞳は、怒りと、苦痛に満ちている。
じっと見つめている間に、ドキリとした。
―― この目、知ってる……
「ねぇ……あなた、まさか」
ごくり、と唾を飲み込んで、続けた。
「せいちゃん……じゃ、ないよね?」
* last update:2011/9/4