「わー、桜キレイだね!」
桜に鼻をくっつけんばかりにして、見入っていた澪が顔を上げた。
初めて出会ったときは赤ん坊だった澪も、よく遊び、よく食べ、よく笑うようになった。
一度死んだ魂を「生き生きとした」というのは変だが、その言葉が一番澪には似合う。

「ホラ、行燈置くからどけろ」
後ろから歩いてきた日番谷が、桜の脇に行燈を置くと、灯りを入れた。
ぽう……と、幻想的に桜の花が浮かび上がる。
外から差し込む微かな夕日に、周囲がまだほんのり赤く染まっている。
縁側から見える空は、今まさに夕焼けから夜に切り替わろうとしていた。
東の空には、うっすらと満月に近い輪郭が浮かんでいる。
「見てみて、お兄ちゃん!ちゃんとお団子も用意したよ!」
「あぁ……ん?」
日番谷が見やると、縁側にピンクと白、緑色の団子が段々にして積み上げられていた。

―― んー、色は合ってるんだが……
それなら十月にやっただろ。
そう思ったが、風流を解する人間がその場にいるわけではないので黙っておく。
「澪ちゃん、それはお月見よ!」
―― お?
日番谷の脇から、雛森が現れた。
季節を先取りした、地色は青、藤の花をかたどった爽やかな色合いの着物を来ている。
手には、なにやら分厚い本を持っていた。

「なんだその本?」
「朽木隊長著作、『作法の心得』! 日番谷くん、隊長仲間なのに読んでないの?」
「さりげなく、妹の話題ばっかりでウザいって聞いたことはある」
「それもそうね」
「えっ?」
「そんなことより、お花見よね、お花見」
さりげなく黒いセリフを聞いた気がしたが、気のせいだろう。
流された話題は掘り起こさない。
それは、周囲に女が多い日番谷が身につけた処世術の一つである。

「ここじゃないかい?」
部屋に座っていた祖母の梅が、よっこいしょと立ち上がり、雛森の後ろから本を取る。
「ほら、ここ」
自分たちが仕事で家を開けている間に、読み進めていたのだろう。
慣れた手つきでページを繰った。
「3月……花見。まず花見の前には身を清め、禊(みそぎ)すべし。
禊の後には清廉なる座敷にて一時間ほど結跏趺坐(けっかふざ)し心を清め……」
「お経?」
澪がキョトンと首をかしげた。

「ンなことやってたら、今日が終わっちまうぜ。却下だ」
日番谷はにべもなくそういうと、立ち上がった。
澪はチョコチョコと廊下に走り出て、そこで正座している。
「ねえ、ここで月を見るんだよね!」
「そーだな」
日番谷はあえて否定しない。
女がどうでもいい間違いをしても、いちいち指摘してはいけない。
それも、日番谷の処世術のひとつである。

「澪ちゃん、そこじゃ桜が見えないわよ」
苦笑した雛森の視線が、ちらりと行燈に向けられた。正確には、行燈の裏に立てかけられた一本の錫杖に。
「あら、この錫杖、日番谷くんの部屋にあったよね? なんでここに出てるの?」
「ん? ああ」
日番谷の視線が、錫杖に注がれる。穏やかな黄金色に光るそれに、目を細めた。
「いいんだよ。これは、ここで」
「もう、みんな春の祝い方が自己流ね」
雛森がそういっても、日番谷の視線は、錫杖に向けられたままだ。


日番谷が、隊長になったばかりの時からずっと、この錫杖を大切にしているのを知っている。
いつだったか、流魂街に遠征に行った日番谷が、ボロボロになって瀞霊廷に戻って来たことがあった。
瀞霊廷に帰りつくと同時に倒れ込むような状態だったが、その時に手にしていたのがこの錫杖だった。
誰のものだと聞いても、答えない。自分のものかと聞くと、預かりものだと言う。
この錫杖の由来は、これからもきっと日番谷の心の中にだけあるのだろうが……
―― 日番谷くん、優しい顔してるよ。
寂しいような、嬉しいような。ささやかな日番谷の秘密を前に、雛森は不思議な気持ちになる。

「日番谷くんが花もって帰ってくれる日が来るなんてね」
その気持ちを、別の言葉に摩り替えてみる。
「花見ってのに、花がねえのは困るだろ」
仏頂面を見せた日番谷を見て、今度はニッコリと笑う。
「ううん、でも嬉しい。ありがとう」


女ってのは、どうしてこれほど多くの笑顔を使い分けるんだろう、と対する日番谷は思う。
―― 「もっていってあげなよ。喜ぶよ!」
そう自分に言った、やちるの笑顔がよみがえった。
あいつの笑顔は、いつも一種類に見える。単純に楽しいときだけの、笑顔。
それは、あいつがまだ子供だからだろうか。

「それにしても……」
日番谷は、呟いた。
「あいつに一言も、誰かに桜をやるなんて、いわなかったのにな」
「あいつって?」
「草鹿だよ」
それを聞くと、雛森は合点が言ったように頷く。
「やちるちゃんね。そういうの、ものすごく聡いのよ」
「草鹿がか?」
いまいち、ピンと来ない。
そんな日番谷を見やって、雛森がふふっと笑う。
「だからね。死神の中でも稀な、あんな能力があるんだと思うわよ」

あんな能力、と雛森は伏せたが、それが何であるか、日番谷も分かっている。
神童と呼ばれた自分でさえ、カケラも持ち得なかった能力。
死神多しと言えども、天性の才能に支配されるその能力をもつのは、今は草鹿やちるしかいない。
「ま、そうかもな」
日番谷はしばらく黙った後、頷いた。

雛森は微笑むと、冷たい風が吹き込み始めた縁側に出て、そこを片付けて障子を閉めた。
行燈の灯りに照らされた鏡に、日番谷自身の顔が浮かんでいる。
その朱色の光に照らされて尚、その瞳は蒼碧だ。

―― キレイな目! あたしこの色、大好き!
やちると初めて会ったとき、一言目に言われたのが、それだった。
―― フザけんな。男にキレイなんて言うんじゃねえよ。
とっさに、不機嫌そのものの声で、そう返したのだった。
まぁまぁ、と乱菊が割って入ったくらいだから、よほどの不機嫌に見えたのだろう。

本当はただ、驚いただけだったんだ。
この蒼碧の目のせいで、皆に避けられるんだと思い込んでいた頃があったから。
誉められるなんて、ばあちゃんと雛森、澪しかいないと思っていたから。
だから……当時の日番谷には、その言葉は受け入れられなかった。
多く仲間に恵まれた、今ならそうは言わないかもしれない。
でも、あの時傷ついた目をしたやちるは、もう二度と、目のことは言わなくなった。

―― 悪いこと、したかもな。
まだ、覚えているだろうか、傷ついているだろうか。
次会ったら、謝っておくか。チラリとそう思った。
普通なら忘れているだろう遠い昔だが、やちるは覚えている。なぜかそんな気がする。
鏡に映った日番谷の顔の向こうで、桜が揺れた。

チラリ、とそれに目をやり……ハッと気づいて、もう一度桜をまじまじと見た。
―― 風も吹いてねえのに……
生き物のように、桜の枝が揺れていた。
ハラリ、ハラリ、と花が落ちてゆく。
―― ただの桜じゃねえ。
言い知れぬ焦燥に駆られ、日番谷は体を起こした。

そして、隊首桜の気配を探り……不意に、やちるの霊圧に気づいた。
「草鹿……帰ったんじゃなかったのか?」
家に帰りついた後、やちるの霊圧をそれとなく探っていた。
そして、隊首桜のところにはもういないことを確認していたはずだったのに――
「もう夜になるのに。あんなところにいるなんて」
隣に立った雛森も、すぐにやちるの気配を感じたらしい。眉間にしわを寄せている。
「狼が出るっていう、あの桜でしょ? あたし、やちるちゃんを迎えに行こうか?」
「いや、いい。俺が行く」
日番谷は錫杖とそろえるように立てかけていた刀を手に取る。
それを見て、澪が一瞬、泣きそうな顔をした。

大好きな「お兄ちゃん」と「お姉ちゃん」が刀を持つ時、良くないことが起こると知っている。
いつも、しばらく戻ってこなくなったり、帰ってきても怪我をしていたりするからだ。
でも、それを止めてはいけないことも、何となく澪は察しているらしい。
だから、何か言いたそうな目で、いつも悲しそうな顔をするのだ。

日番谷は、ぽん、と澪の頭に手を置いた。
「すぐ戻る。もう一人、お前と気が合いそうな奴を連れてくるだけだから。団子食って待ってろ」
ウン、と頷いた澪に頷き返し、日番谷はその場を後にした。




* last update:2011/9/5