土煙に、地面に落ちていた桜の花びらが拭き散らされる。
間一髪攻撃をかわしたやちるに、狼が向き直った。

「なんで……」
やちるは、息を切らしながらも一歩前に進み出た。
狼の前足は、やちるの胴体に匹敵するほどに太い。
一歩歩くごとに、筋肉が躍動するのが見える。並みの虚は全く太刀打ちできないだろう。
やちるが「夢」で知った誠之助とは、生き物である、という点しか共通点はないように思えた。

だが、霊圧で気配を探ることに慣れているやちるにとってみれば、姿はあまり問題ではなかった。
この目の前の狼から感じる気配は、間違えようもなく誠之助と同じだった。
「せいちゃん……誠之助でしょ?」

本能のままに唸っているように見えた狼が、今にも再度飛びかかろうとしていた身体を起こした。
「……誠之助」
注意して聞かなければ、それはただの獣の唸り声に思えただろう。
しかし耳をすませれば、人間の言葉をこの狼が発したのは分かった。
「かつては、そのような名だったかも知れぬ」
「間違いないよ。あたし、会ったもん」
獣の目が、きつく細まった。そして鳶色の目で、正面からやちるを睨みつける。
やがて、不意に笑い出した。やはり半ば、獣の咆哮にすぎなかったが。

「思いだしたぞ。その声……死の間際に、私が聞いたのと同じ声だ」
「聞いた……あたしの声を?」
――「遅いよ」。
確かに彼女は、あの時そう呟いたのだった。聞こえないはずの距離でそう言ったのに、なぜか誠之助が辺りを見回したから、不思議には思っていた。
死期が近い人間は、普段は見ることのない死神の姿を見ることがある。
生の世界から、死の世界へと半ば足を踏み入れているからだ。

「そうか。お前は、死神だったのか」
獣の目が、やちるの死覇装に注がれる。にんまり、とその巨大な口に亀裂が入ったように見えた。笑ったのだ。
牙をむき出し、狼は一歩踏み出した。逆にやちるは一歩下がった。

子供だからと言って、戦いの場数が少ないわけではない。
むしろ見て来た修羅場の数だけ見れば、死神達の中でも十本の指には入るだろう。
ただ、やちるに対して、ここまで強烈な怒りを叩きつけて来た相手は、初めてだった。
「なんで……あたしを、襲ってくるの? 死神、だから?」
「この桜の下に立つ者は、誰であれ容赦しない」
狼は、頭上の桜を振り仰ぐ。

「……せいちゃん」
それを見たやちるは、ぐっと胸が詰まった。
この桜はかつての誠之助の目にも、あの桜と瓜二つに映っているのだろう。
誠之助と花夜はあの桜の下で出会い、関係を深めあい、そして命を落とした。
忘れられなくて、護ろうとして当然だと思う。

立ちすくむやちるを前に、狼は再び歯をむき出す。
「……が。それが死神ならば尚更許さぬ」
「……どうして?」
「どうして、だと?」
狼の声が興奮に震える。
「現世で死した私を、この流魂街へと送りこんだのは死神だからだ。百年以上にわたる、この迷宮へ」
「……百年。現世……?」
やちるの脳裏を、走馬灯のように「夢」の世界がよぎった。
あれはやはり、ただの夢ではなく現実……現世だったというのか。しかも、百年も前の。
「百年も、ずっと……花夜ちゃんを探し続けてたの?」
それは推測ではない。確信だった。

「花夜」の名を口にしたとたん、狼は体毛を逆立てた。やちるには、身体が一回りも大きくなったように見えた。
「貴様、その女の居場所を知っているのか?」
やちるは、その言葉に押されるように数歩、後ろに下がった。そして、ふるふると首を振る。

考えるまでもない。この広大なソウル・ソサエティで、ただ一人を探し出すなんて、死神にも不可能だ。
やちるの知る唯一の例外は、ルキアを見つけた朽木白哉だが、
朽木家のかけた人数と時間をもってしても、ルキアを探し出すことはできなかったのだ。
偶然、ルキアが真央霊術院に入学し、白哉の目と鼻の先で暮らすようになったから、分かっただけの話だ。
「……居場所は、誰にも分からないよ。死神でも、もっと上の神様でも」

でも。やちるが、更木と生き別れにもしもなったなら、きっと探し続ける。
可能性があるかないか、どれくらいかかるか、など考えもしないだろう。
心の底では、誠之助の気持ちは分かる。だからこそ、嘘はつけなかった。
思いに沈んだやちるの視線が一瞬、狼からずれる。その次の瞬間、狼が跳躍した。

「っ……」
嫌と言うほど背中を木の幹に叩きつけられて、一瞬息ができなくなる。
せき込もうとして、腹のあたりを狼の前足に抑え込まれているのに気づく。
「……残酷なものだ。お前ら死神は。百年という期限付きで、私達人間をソウル・ソサエティに放り込む。
どれほど会いたいものがいようと、お構いなしに別々の世界へと割り振る。
百年は、愛する者を探し出すには短く、耐え忍ぶには長すぎる時間だ」
狼の息が、頬に吹きかけられる。身動きしようにも、爪に抑え込まれて身体をずらすことすらままならなかった。

「私は恨んだ。そして自分の力で花夜を探し出すと誓った。
そのために力が欲しい。地を誰よりも早く駆ける速さが欲しいと願ったのだ。
長い年月のうち、手足は太く、より駆けるために四つん這いの姿となり、気づけば今の姿に変わっていたのだ」

これはもう、ヒトじゃない。獣ですらない。バケモノだ。
斬り殺すほかない。
でも、すぐそばに自分の斬魂刀の存在を感じてなお、やちるの中に殺意は湧かなかった。
これほど、哀しそうなバケモノを、やちるは初めて見た。
そして、どうして彼が悲しんでいるのか、分かる。胸の中に流れ込んできて痛いほどだった。

息ができない。急速に視界がかすんでゆく。
無意識のうちに、やちるは小さな手を上空に伸ばしていた。
「け……」
剣ちゃん。
そう呼ぼうとした瞬間、狼の巨大な口が間近に迫っていた。



* last update:2011/9/13