日番谷がシバタと出会っていた頃。やちるは、あいかわらず桜のごつごつした枝の上に腰掛け、足をブラブラさせながら一面の桜を見渡していた。
どう、と風が吹きぬけ、視界を桜色に染めるほどの花弁が一斉に宙に舞う。
「あ!」
とっさに遠ざかる花びらに指を伸ばすが、やちるの手から逃げるように次々と軽やかに舞い落ちてしまう。
「あーあ、花が減っちゃうよ」
ため息をついて見上げたやちるの動きが、止まる。頭上には、さきほどと何も変わらない質量の花が、枝が重みでかすかにしなるほどに密集していた。
―― なんだか、すごい木だな……
まるで、なんらかの意思をもっているかのような。ただ「キレイ」では済まされない、背筋がどこか寒くなるような美しさ。やちるは思わず、二の腕を押さえた。
「オイやちる、いつまでそこにいる気だ!」
は、と肩が跳ね上がり、我に返る。見下ろしても花枝に隠れて姿は見えないが、更木がこっちを見ている視線を感じた。
「うん! すぐ降り……」
そこまで言いかけたやちるが、ふと言葉を止めた。一枚の絵のように密集した花の上に、影が動いたような気がしたからだ。
目を凝らすと、その影が、動いたのが分かった。
「誰……?」
頭上からの光が、その「誰か」の影を密集した花びらの上に落しているのだ。しかし、やちるの位置からは影が見えるだけで、その人物の姿そのものは見えない。
「誰なの、そこにいるの?」
一歩近より、やちるは声をかけた。影絵のようなその姿は、たよりなげにゆらゆらと揺れている。
振袖をまとい、髪は身長と同じくらい長く、風にたなびいているのが分かる。そして、うつむいているらしかった。
―― 泣いてるの……?
どうして、そう思ったのかは自分でも分からない。しかし、一心にうつむいているその姿が、なんだかとても悲しげに見えたのだ。
でも、やちるはそこで、気を使って見てみぬ振りをするような少女ではない。
そっと近寄って、影のある場所に近づくと、その人物がいると目星をつけた場所を振り返ってみた。
「……あれ?」
誰も、いない。
無人の枝を見やると、やちるは慌てて影の映っていた辺りを見やる。しかし霞のように掻き消えでもしたのか、もう影すらどこにもなかった。
どう、とまた風が吹きぬけ、やちるはその場に立ちすくむ。その「女」が残したのかもしれない強い悲しみがそこに留まっているような気がして、そっと胸を押さえた。
「どうして、泣いてるの……? 何か悲しいの?」
目を閉じれば分かる、まだ「彼女」の気配はここにある。耳を澄ませたとき、
「やちる!」
更木の苛立ちが混ざった声に、やちるはパッと視線を下に戻した。
「ごめーん、剣ちゃん!」
桜の枝の中から顔をのぞかせると、苛立ち半分、心配半分の更木の表情が目に入った。
「どうかしたか?」
いつもなら、返事くらいしろ、と吐き捨てられるところなのに。更木の表情には、見慣れぬものを見たような怪訝さが漂っている。
やちるの表情に常ならぬものを感じ取ったのだろう。しかしやちるは笑顔で首を振った。
「ううん、なんでもないの。あたしねぇ、ここで夕焼け見たい!」
「夕焼けだと? そんなに待てるか!」
思ったとおり、更木は即座に不機嫌になった。時間は午後2時ごろ。夕焼けまでには、あと3時間はある。
そろそろ、隊舎で一角や弓親に稽古をつける、と約束をしていた時間だった。
「じゃー剣ちゃん、先に帰ったらいいじゃん!」
確かにこういう場合、いつも更木はやちるを置いて、先に帰っている。
「まぁな」
珍しく歯切れの悪い更木を見下ろし、やちるはパーッと笑みを広げる。
「剣ちゃん、あたしのこと心配なんだ!」
「してねー」
更木は即座に、絵に描いたような仏頂面で返した。
「心配いらないよ! あたし副隊長だよ? もしさっきの狼が来ても平気だよ!」
「知ってるってんだ。お前の足にかなう奴はいねぇからな」
更木は頭を振ると、諦めたように斬魂刀を手に取り、立ち上がった。
「……晩飯までには隊舎へ戻れよ」
「あぃ!」
ふざけて敬礼をしてみせたやちるを、更木は無言で見上げる。
「やちる、お前……」
「あぃ?」
「……いや。万一あの狼が出てきたら、相手にすんな。どうせすぐ消える」
「ほぇ? なんで消えるの?」
「現世への転生が近いと、魂は姿が透けて見えるんだよ。ていうか、てめぇがそれを知らねぇ訳ねぇだろ!」
えへへ、と笑うやちるを見て、更木はため息をついた。
「ね、剣ちゃん」
不意にやちるが呼びかけた。
「笛の音しない?」
「あん?」
更木はしばらく黙り込んで耳を澄ませたが、すぐに首を振った。
「何言ってんだ? 何も聞こえねえだろ」
「そう。ならいいの!」
やちるはにこっと屈託のない笑みを浮かべた。そんなやちるを更木は黙って見ていたが……ため息をついた。
「……やちる。もし何かあったら、俺を呼べよ」
「うん!」
やちるが頷くのを確認して、更木は隊首桜に背中を向けた。
「剣ちゃんって、意外と心配性なんだよね」
更木の気配が完全に消えた後、やちるは誰かに話しかけるようにひとりごとを言った。
「誰なの? さっきから、笛吹いてるの」
頭上を見渡し、声を張り上げる。更木は何も聞こえないと言った。しかしやちるの耳には、はっきりと細く高い笛の音が聞こえていた。
そして今は、笛にかぶさるように若い女の歌声も流れてきていた。
「さっきの女の人なの? あたしに何か用があるの?」
そう言っている間にも、どんどん笛と歌声は近くなってゆく。あまりにもその声がものさびしく、やちるは唇を噛んだ。
ひたひたと胸を浸してくるこんな切ない気持ちは、普段の彼女の中にはないものだった。
「ねぇ……」
迫る笛の音に再び呼びかけたとき、不意に気配が背後に迫ってきた。さっと振り返ったやちるの顔の正面から、一陣の風が吹きぬけた。
―― 誰……?
そう思った時には、意識が遠くさらわれる。風が通り抜けた後、いままでやちるが居た場所は、無人になっていた。