ふと、目の前に置かれた金魚鉢に、見入っている自分に気がついた。
やちるの前で、優雅に揺れる金魚の尾びれは、ハッとするほどに鮮やかな赤。
顔を上げると、金魚鉢の向こうには極彩色の世界が広がっていた。

黄昏に落ちる空。
やちるが立っていたのは100メートルは続いている通りで、両側には旅館のような店が軒を連ねていた。
軒先の行灯が一斉に火を入れ始める時間帯で、付近は飴色に染まって見える。
木の格子の向こうには、女物の着物だろうか、赤や桜色、青や紫の煌びやかな色彩がちらりと浮かび、また消えた。
通りは、単衣に帯をちょいとひっかけただけの男達が、笑いさざめきながら歩いてゆく。
そこに、店の中から女の嬌声が飛び、男達の声と絡み合う。


「―― 夢?」
やちるは、目も口も開いたまましばらく突っ立っていたが、やがてポツンと言った。
瀞霊廷に来るまでは、全てが砂色に染まった流魂街の片隅に住んでいたし、
瀞霊廷に来てからは、全てが白と黒に整然と分けられた中で暮らしている。
こんな鮮やかな色彩には、縁がなかった。

でも、ここは流魂街じゃない。死神としての感覚で、すぐに分かった。
その証拠に、ここを歩いている人たちには魂魄がある。
それは、この場所が現世だということを示していた。

やちるは首を傾げたまま、ぷくりと膨らんだ頬に手をやり、ぎゅむ、と引っ張る。
「あぃたた!」
途端に、声を上げた。
「夢じゃ、ないの……?」
現実か夢かの確かめ方なんて、これしか知らない。
しばらく黙っていたやちるだが、やがて、にこーっと笑みが広がった。


「すっごーい!! おとぎ話の世界みたい!」
更木がいない、という心細さも忘れ、やちるは通りに駆け込んだ。
祭りにも似た喧騒をすりぬけるように、通りのあちこちを見てまわる。
濃い香水のにおいに、木格子から店の中を覗き込むと、見たことがないくらい顔が真っ白な娘が、重そうな着物をまとって座っていた。

―― 遊郭。
―― 女郎。
聞こえてくる耳慣れない言葉に、やちるは顔を上げる。
改めて通りを見回して、
「子供が、ひとりもいないんだ……」
と呟いた。

それだけではない、通りを歩いているのはほとんどが男だった。
女は、さきほどの娘のように、きらびやかだがずっしりと重そうな着物に身を包み、人形のように格子の向こうに並んでいる。
まるで、籠の中の鳥、のように。
やちるの頬から、笑みが消えた。


「ねー、ユーカクって何?」
やちるは、傍を通り過ぎた男に、声を張り上げて尋ねる。
しかし男は、隣の男とにぎやかに笑いながら、やちるには一瞥もくれずに歩いていった。
「ねぇ……」
その男の袖を掴もうと、やちるは手を伸ばす。……そして、いきなり引っ込めた。
「何?」
確かに袖を掴んだはずの指が空を切り、そのまますり抜けたのだ。

ぎょっとして立ち止まったやちるに、歩いてきた別の男の足がぶつかりそうになる。
しかしその男は、そのままやちるの「中を」すり抜け、何事もなかったかのように歩いてゆく。
「どうなってるの……」
誰もやちるの声が聞こえず、姿も見えず、触れることもできないのか?
心臓の鼓動が高くなるのが、分かる。日番谷の顔が、脳裏に浮かんだ。やちるの何倍も頭がいいらしい彼なら、
いつもみたいに冷静な顔で、その理由を説明してくれるのだろうか。
更木なら、こんなの大したことねぇよ、と動じもしないだろう。
そこで、ふうっ、とやちるは息を吐いた。
更木や日番谷を思い出すと同時に、自分の中で今にも暴れだしそうだった不安が、落ち着くのが分かった。


闇に沈みつつあるにぎやかな街並を、そっと足音を殺すように歩く。
もっとも、大声で叫んだとしても、誰も気がつかないのだけれど。
初めは浮き浮きした香水や白粉の香りにも、むせそうになる。
剣戟に満ちた修練場や、男達の野卑な怒鳴り声、足音、汗。
そんな世界を、心から懐かしいと思った。
ここは、やちるの世界ではない。

「ここ……どこなの? どうやったら帰れるの?」
足を止め、やちるがしょんぼりと呟いた時。
聞き覚えのある歌に、ハッとして耳を澄ませた。
女性のやわらかな歌声が、どこかの部屋から回廊を伝い、界隈に流れてくる。
その旋律に、聞き覚えがあった。

「この曲……さっき、聞いた曲だ!」
この世界に来る直前、隊首桜の下で聞いた笛の音と、旋律は同じだった。
どこか胸が苦しくなるような切ない曲。間違いない。
やちるは思わず駆け出した。

そして、駆け出すとほぼ同時に、やちるは足を止めることになる。
やちるの目の前、高くそびえ立った建物と建物の間に、遠くの丘の景色が見えていた。
そして丘の天辺に、縮尺がおかしいのではないかと思えるほどに巨大に、桜が咲き誇っていたのだ。
「なんで……あれ、隊首桜……」
呆然として、つぶやく。
あの大きさ、幹の形、花の色、どれをとっても、さっきまで自分が見ていた隊首桜そのものだった。
そんなはずはない、とやちるは考える。
あれと同じ桜が、現世にあるはずはないのに。

しばらく立ち尽くしていたやちるだが、やがてぶんぶんと首を振って再び駆け出した。
いくら考えたって、分かるはずがない、ということだけは分かったからだ。
早く行かないと、いつ歌声がやんでしまうかも分からない。

―― 綺麗な声。
慌てていても、その声が類稀なく美しい、ということは分かった。
通りを行く男達が、足を止めて聞き入るほどに。
「……誰だ? あの声。美しいな」
「あれだよ、花魁。花音(かおん)とかいう、絶世の美女って有名な」
「ほぉ。天は二物を与えたか」
「籠の鳥じゃ、しょうがねぇ」
男達の声の間をすり抜け、やちるはある遊郭の前までたどり着いた。


その遊郭は、付近の建物の中でもひときわ大きく、活気に満ちていた。
内部からは煌びやかな光が溢れ、男達が次々と門をくぐってゆく。
女が、入ってきたばかりの男の袖を取り、しなだれかかるのが見えた。
やちるは一瞬ためらったが、暖簾の下をくぐって、店の中に足を踏み入れた。

「駄目だって言ってるだろ! 花音は花魁だぞ! 花魁を、そんな端金で買えると思うか!」
どっ、と笑い声が起った。
笑っているのは、座敷に座る着飾った遊女達と、着流し姿の男達だ。
怒鳴っていたのは、店の用心棒だと思われる、人相の悪い巨躯の男だった。
ったく、と舌打ちすると、店先で笑われている男を見下ろした。

何だか頼りなさそうな人だな、と一瞥してやちるは思う。
間違っても十一番隊にはいなさそうなタイプだ。
長身で、袖から伸びた腕は女のように白く、細い。
顔立ちは学者のように知的だったが、勢いとか、逞しさといったものは一向に感じられない。

どうするんだろう、とやちるは男を見上げる。
今怒鳴りつけられたのが更木だったら、無言で相手をぶった斬っているだろう。
「そう……ですか」
だから、男がそれだけ言うと肩を落とし、くるりと背中を返したのには驚いた。
暖簾を分けて外に出る背中を、やちるは何となく追った。
歌声は、二階から聞こえてきている。