「ちょっと、旦那!」
玄関をくぐったところで、裏口から呼びかけたのは艶やかな女の声だった。
白粉の濃厚な香りが、後を追っていたやちるの鼻腔に流れ込む。
建物の裏から手招きしていたのは、すらりと身長が高い女だった。
深い青に、淡い色彩の花の文様が入った着物を、思い切り背中を抜いて着こなしている。

「何か?」
その男が女を見やると、女は全くもう、とでも言いたげに鼻先に皺を寄せた。
「何チンタラしてんのさ、一人前の男のくせにさ。こっちからも二階にいけるよ。花魁があんたに会いたいって」
蓮っ葉な口調で言い捨てると、立てた親指の先で、背後を指す。
そして男の返事を待たず、くるりと背を向けた。
「はっ、はい!」
―― 大丈夫かな、この人……
慌てて返事をして追いかける男を、やちるは見上げる。そして、その後ろを追った。
二人の向う方向には、あの歌声が続いている。

「あの、ありがとうございます! 貴女は……」
「十六夜(いざよい)。……あのねぇ。遊女なんかにアナタ、なんて言うもんじゃないよ。むずがゆくなる」
「遊女なんか、ではありません。少なくとも花音は僕にとっては違う」
「ご執心、てかい?」
「僕の大切な人です」
からかうように言った十六夜と名乗った女に、男はきっぱりと言い返した。
中の光も当たらない裏口を裾を持ち上げて歩きながら、女が振り返った。

「こう言っちゃ悪いけど、旦那みたいな若さじゃ、その額の金を用意するのだって苦労しただろ。
悪い金じゃないだろうね? 花魁は、やめときな。他の女にしなよ」
男は、答えなかった。十六夜を見返したまま、静かに首を振っただけだった。
ふぅ、と女は紅の唇から、ため息を漏らす。

なんだろう。
やちるは、男の顔を見上げる。
弱弱しいのに、たまにこの男の顔には、やちるの知る男達と同じ強さが垣間見える時がある。
―― 名前、何っていうのかな……
「旦那、名前は?」
そう思った時、裏口の戸に手をかけた十六夜が、奇しくも訊ねた。
「誠之助、と申します」


女の歌声が、どんどん近くなってゆく。
聞いているうちに、すぅっ、と吸い込まれそうに透明感のある声だった。
きしきし、と音を立て、十六夜が燈のない階段をのぼってゆく。
やちるは誠之助の後を追い、息をつめるようにして階段に足を乗せた。
もっとも、足音が聞こえる気遣いはないのだけれど。

「花魁、空けるよ」
十六夜の声と同時に、ガラリ、と襖が開いた。
途端に、部屋中の燈が、まばゆいばかりの光芒で瞳を刺した。


まばゆいばかりの灯火を背後に立つ娘の姿は、逆光になって初め暗い影のように見えた。
歌声が、ぱたりと止んだ。
顔が、十六夜と誠之助のほうへ向けられ、娘は無言で立ち上がる。
濃い臙脂(えんじ)と紅を基調にしたあでやかな着物が、足元に扇のように広がる。
ゆるゆるとした足取りで、衣擦れの音と共に、娘はふたりの元に歩み寄ってきた。

―― キレイなヒト……
やちるは、その姿が近づいてくるにつれ、ドキリとした。
濡羽色、と呼ぶにふさわしい漆黒の髪は、畳につくほどに長く波打っていた。
一部を頭頂部で結い上げ、琥珀の簪で止めている。
白粉をはたいた顔は人形のように白く、目尻と口元に入れられた紅が妖艶につやめく。
男を視線を合わせた瞬間、その鳶色の瞳が生き生きと輝いた。

「誠之助さん!」
駆け寄ろうとした娘は、踏み出すと同時に、長い着物の裾を踏んでよろめいた。
「危ない!」
とっさに誠之助が腕を差し出し、その腕の中に娘は飛び込む形になる。
「……ごめんなさい」
白粉の上からでも、娘の頬から首筋に赤みが差すのが分かった。
女の色香を匂わせていたのが嘘のように、その横顔はあどけなく見える。
「……いや、大丈夫か、花夜(はなよ)」
それを見下ろした誠之助は、熱いものにでもさわったかのように手を引っ込めた。

「あーはいはい、続きはあたしが出て行ってからにしておくれ、全く」
「い、十六夜姐さん……ごめんなさい」
本当に十六夜の存在を忘れていたのか、慌てて離れる二人に苦笑する。
「いいさ。あんたもたまには、戻るといいよ。花魁でも「花音」でもなく、ただの「花夜」にね」
ひらひら、と手を振り、そのまま振り返らずに部屋から出て行った。


「わっ、……と……」
十六夜が襖を閉めようとする隙間から、やちるはするりと部屋の中に入り込んだ。
パシッ、と閉められた後、部屋の中をまじまじと見回す。
そこは、十畳ほどの空間だった。着物掛の上に様々な色合いの着物が掛けられている。
桜色、紅色、藍色、白。その錦絵のような色彩に、やちるは声を失って魅入った。

乱菊がこんな着物を持っているのは知っていて、見せてもらったこともある。
でも、これほどの数はなかったはずだ。
金箔が打たれた屏風、飴色の煙草盆、化粧道具、鏡……
女物には縁がなかったやちるにとって、ひとつひとつがじっくり覗いてみたいものだった。


「笛を吹いて、誠之助さん」
娘……花音は、窓枠に腰を落として誠之助を見上げた。
普段の声も、歌のようにきれいだ、とやちるは思う。
優しくてやわらかいのに、なぜか逆らえない……何だか不思議な声音だ。
「でも……笛を吹けば階下にも響く」
「かまわないわ」
にっこりと屈託なく笑う。

敢えて言えば、その物腰は卯ノ花に似ている。
外見は、……こんなことを言えば本人は怒るのだろうが、その端正さが白哉に似ていた。
その漆黒の髪、貴族の物腰が連想させるのだろうか。
だが、戦いに身をおく死神と、目の前のこの娘は、当たり前のことながら根本が全く異質だ。
仕草のひとつひとつが、表情の一葉一葉が、女らしく磨きぬかれ洗練されている。

―― お姫様、みたい……
いつの間にか、憧れに似た気持ちで娘を見上げている自分に気がつく。
こういうお姉さんがいたらな、という憧れと、自分もいつかこうなれたら、というときめきが入り混じった思い。

誠之助は、ためらいがちに懐に手を差し入れると、木の笛を取り出した。
木を削って磨いただけの、装飾もなにもない素朴なものだが、よく手入れされているのか艶々と光っている。
笛を口元にもっていった誠之助がすっと息を吸い込むと同時に、花音が再び歌いだした。

ふたつの音色が絡み合い、半分ほど開けられた窓を抜け、回廊を流れてゆくのが思い浮かぶようだった。
―― 願わくば 今宵桜の下で 貴方と未来を語りたい……

その時、窓に腰掛けた花音の背後、はるか遠くにあの桜の威容を見つけ、やちるは息を飲んだ。
どうしてだろう、とやちるは思う。
今窓の外からも見える桜と、流魂街でやちるが遊んだ隊首桜は、偶然と言うにはあまりにも似ている。
でも、世界も……時代さえも違うらしい二つの空間で、同じものが存在するはずがないのだ。


「オイ! 花魁の部屋に、誰かいるのか! 聞かねぇ笛の音だな」
乱暴な足音が階段を駆け上がり、誠之助は笛から口を離した。
あの声、玄関の前で誠之助を怒鳴りつけていたのと同一人物に違いない。
足音が襖の前まで迫り、やちるは思わず肩をすくめた。
誠之助が見つかり引きずり出されるのは時間の問題だと思われた。

「花魁! 開けるぞ」
「小梅と、歌の練習をしておりました」
花音の穏やかな口調に、やちるは驚いてその横顔を見つめた。
襖を開けられたら一瞬で見抜かれる嘘だ。誠之助の表情も強張っている。
「本当だろうな!」
「部屋を改めてもかまいませんよ。……花魁の言葉が信じられぬ、というのなら」
鳶色の瞳が、まっすぐに襖の向こうに向けられる。
男は、しばし無言だった。
やちるも、息をつめて見守る。


一秒、五秒……
永遠とも感じる短い時間の中、花音は軽く瞳を閉じた。
「いや。やめておく」
男の野卑な声と共に、足音が今度は遠ざかってゆく。
「その華奢な体のどこに、そんな度胸があるんだろうな。……全く幼い頃と変わらないな、花夜」
ほっとため息をついた誠之助が、花音が穏やかに微笑んだままなのを見て、苦笑した。