足音が完全に消えたのを確かめると、誠之助はほっと息をついた。
口元に当てたままだった笛を文机の上に置くと、花音に歩みよる。
「……花夜」
幼い頃の名前に、花音は首をすくめてくすぐったそうに笑った。
「花夜、って名前。私は好きよ」
「お主が生まれた夜、産室の窓からあの桜が見えた。母上が、その美しさから名づけられたのだと聞いた」
「そうだったかしら」
「お主が私に言ったんだぞ」
「忘れちゃったわ」
紅色の唇が、言葉を紡ぐ。湿っぽさや悲しさを思い起こすには、あまりにも澄んで美しい色だった。
「昔のことは、もう覚えていないか」
「さぁ。私がこの名を好きなのは、今はもう、あなた以外の誰もこの名を呼ばないからよ」
誠之助の眉間の皺が深まる。黒目がちな瞳がまっすぐに花音を捉えるが、彼女は声も立てずに見返してきた。
リン、と音が鳴るような、鈴のように丸い涼やかな瞳だ。
「……君がここに身売りされて……もう、5年になるのか」
「そうよ。実家がこの店と同じ町にあるなんて、不思議な感じがするわ。今日もあの街を通って歩いてきたの?」
小首をかしげ、花音は誠之助を見つめた。頷いた誠之助に、楽しげな表情を浮かべる。
「そう。私にとってあの町は、子供の頃に聞かせてもらった御伽噺と変わらないの。
土の道も、打ち水の音も、家の柱の模様も、父様や母様の顔も。霞の向こうみたいに感じる」
「……悲しくはないのか?」
「ええ。もう悲しくはないわ。『花音』として暮らして、あまりに長いもの」
二人の間に、長い沈黙が落ちる。
「……すまぬ」
「何が?」
「私は無力だった。お主をあの時、救えなかった」
窓の桟に腰かけた花音の前に、誠之助が歩み寄る。突っ立ったまま、花音を見下ろした。
「もう、終わったことよ」
花音の瞳はいよいよ、きらきらと輝いている。見ているだけで吸い込まれそうだ。
「言ったでしょう。もう悲しくはないって。……納得、いかない?」
「……いかないさ。いくはずがない」
誠之助は、瞳を伏せて続けた。華奢な肩を、ぐいと掴む。
焚き染めた香の香りが甘やかに立ち上った。花音は身じろぎもしない。
「君は、びっくりするほどお転婆な少女だった。間違っても、こんな籠の中の生活に、耐えられる性格じゃないはずだ」
くすくす。くすくすくす。
花音は、耐え切れなくなったように、笑い出す。
「私はもう、遊郭に売られて泣いていた子供じゃない。花魁なのよ。悲しくはない。もっと言えば、満足しているわ」
「嘘だ!」
物静かな外見とは裏腹に、誠之助は鋭く言葉を発する。
「自分を貶めるようなことを、言わないでくれ」
「貶める?」
その紅色の唇の端が、持ち上げられた。
わずかに低くなった声音に、あどけなさの残る外見とは裏腹に、色気がにおう。
すぅ、と音もなく立ち上がった。
「遊女は穢れているの? 誠之助さん」
顔に落ちた髪を一筋、耳に掛ける。そして花音は至近距離で仰向いた。
「私は、この体一つで生きてきた。誰の厄介にもならず、まっすぐ生きてきたつもりよ。違う?」
さっき、つまづいて誠之助の腕に支えられたのが信じられないほどに、強い口調だった。
その体は細く、誠之助よりも頭ひとつ分小柄でありながらも、誠之助が一歩背後に下がるほどに。
「……すまない」
頭を下げた誠之助を見て、花音はやさしい瞳になった。
「私は、この仕事に誇りをもっているわ。多くの男の人が、私に会ってよかったって言ってくれた。幸せだって、言ってくれた……」
彼女は、最後まで言い切ることができなかった。
ふわり、と誠之助の着物の袖が膨らんだと思った時には、花音の華奢な体は誠之助の胸の中に吸い込まれていた。
「ひとつ、聞きたいんだ。君が、隣町の豪商……前田家に身請けされるという話は、本当か」
着物に顔をうずめていた花音の肩が、かすかにピクリと動く。
「この国一番の花魁が遂に誰かのものになると、界隈は噂で持ちきりだ。
いてもたってもいられず、有り金を持ってここに来たんだ。真実を確かめたくて」
束の間黙っていた花音は、やがて首を振った。
「私は、お断りするつもりよ。これまでも、身請けの話が来るたびにそうしていたもの」
「この街の全てを買えるほどの金を積まれても、君の主人は断れるのか?」
「身請けされたら、あなたに会えなくなるもの」
「花夜。でもそれは……」
誠之助は、そこで口ごもった。
身請けされれば、二度と誠之助には会えない。
しかし身請けを断り続けるなら、遊女として生きるほかないのだ。
花音の手を握り、誠之助はわずかに俯いた白い顔を見下ろす。
白粉を塗った項が、臙脂の着物に吸い込まれていくのがハッとするほどに美しい。
天下の花魁。絶世の美女。
しかし腕の中にいるのは、ただの一人の、幼馴染だった。
初めて会った夜のことを、不意に思い出す。
「……花夜」
「なぁに」
「俺は商家に奉公に出ている。信用も出てきて、店の金も任せられるようになった。あれが自由になれば……」
「誠之助さん。間違ったことを考えてはダメよ」
鋭い声に、思わず誠之助は声を荒げた。
「間違っているだと……それを言うなら、全てが間違っている!」
その時、花音は少し悲しそうな顔をした。
全てが。そう全てが間違っている、と誠之助は思う。
花夜が家族を失ったことも、武家に生まれながらその後花魁にならざるを得なかった境遇も。
ちょっとくらいの覚悟では、その間違った運命の螺旋と止められぬ。
「そんなお金を積まれても、私はあなたとは行きません」
断固とした声で、花音は返した。
「私は、花魁です。そんな後ろ暗いお金で身請けされて、後ろ指を差されるわけにはいきません」
「花……」
「その話は、おしまいにしましょう」
頑なに扉を閉ざすような、断固とした声だった。
「……君に、もう俺ができることはないのか?」
搾り出すような声に、花音はふっ、と表情を掻き消す。
しかしその無表情は、俯いていた誠之助の目には留まらなかった。
「……幸せは、取りすぎると不幸になるのよ」
「え?」
「だから誠之助さん」
花音は、ふわりと笑顔を浮かべた。そして続けようとした時……
「花魁。前田様がお見えですよ」
襖の向こうから聞こえた禿のあどけない声に、二人は同時に表情を強張らせた。
「……。もう少し待っていただいてから、お通しして。妾は支度中です、とお伝えしてくださいな」
「はい!」
パタパタと足音が去っていくのを聞きながら、花音はゆっくりと、体を離した。
「花夜……!」
「誠之助さん。きっとたまにしか、会えないわ。だから私に会いたいと思ったら、あの桜の木の下に来て。
私は、ずっとこの部屋からあの桜を見ているから。それだけで私は十分よ」
花音はつい、と指先を上げると、部屋の外の巨大な桜を指差す。
「懐かしいな。……君と、幼い頃よく見に行った桜だ。今も桜は、好きなのか?」
「ええ。桜は、潔く散るでしょう。そして次の年にはまた咲き誇る、別離と再会の花なの」
花音は、時間の流れなど忘れてしまったかのような遠い微笑を浮かべている。
「いつか生まれ変わって。次はしがらみのない世界で、あなたに会えたらいいのに」
「……花夜」
「戯れ事よ」
ふふっ、と花音は声を立てて笑った。
その花音の唇に、音もなく誠之助の唇が合わせられる。
「毎晩行くよ。桜の元に」
「……愛している」
花音は、答えない。
ふっと彼女が表情をなくしたのに気づかず、誠之助は立ち上がった。
そして想いを振り切るかのように背中を向け、早足で部屋を出て行った。
***
ジジッ、と行灯の中で、油が燃える音がする。
ゆらゆらと揺れる炎の光に照らし出される影は、化粧をする花音のものだけだ。
すぐ後ろに立つやちるの姿は、うつらない。
―― 別の男の人に、会うの……?
髪を直す花音を、間近に見下ろす。
その姿は、同じ女で子供のやちるから見ても、胸が痛いほど美しかった。
やちるには、交わされた言葉の半分も理解できなかった。
でも、花音と誠之助の間に存在していた、気持ちの正体くらい分かっている。
やちるも、ある人に対して同じ気持ちを持っているから。
「どうして?」
聞こえないと知りながら、やちるは花音に声をかける。
「どうして、好きな人と一緒にいられないの?」
だからこそ分からない。
大切な人がいながらも、その人を帰して別の男に会う花音の気持ちが。
好きな人と一緒にいられるなんて、当たり前のことだと思っていた。
物心ついた時にはすでに、あの男はやちると共にあったから。
そしてこれからもずっと一緒だと、芯から信じられる人だから。
―― 剣ちゃんに、会いたい……
久しぶりに、そう思う。ふっと目を閉じた。
……また、景色が暗くなる。