―― あれっ?
気づくと、やちるは部屋の中にいた。
「せいちゃん?」
目の前にいたはずの誠之助の姿がない。きょろきょろとあたりを見回してみて、そこが花魁、花音の自室だと気づいた。
無意識のうちに目に浮かんでいた涙を、拳でごしごしと拭う。
高鳴っていた鼓動が、ゆっくりとおさまってゆく。やちるはその場で、深呼吸した。
部屋は無人で、夜だというのに明かりも入っていない。
欄間から漏れる廊下の光で、部屋の中は薄暗かった。
竿にかけられた着物の色や、畳の上に置かれた煙草盆の位置が前見た時と違っていた。
また、時間が変わってしまっているらしい。花音の部屋がある時点で、さっきまでやちるがいた世界とは何年も経っているのだろう。
その時、ドッと下から笑い声が上がった。
―― 乾杯!
誰かの陽気な声と共に、拍手が巻き起こる。
その反面、この部屋の中は、音が死んだかのように静まり返っていた。
階下のざわめきも、膜の中にいるかのように遠く聞こえてくる。
―― さびしいよ……
話しかけることもできないと知りながらも、誰かがいるところのほうがマシだった。
いてもたってもいられず、やちるは花音の部屋を飛び出した。
そして、つやつやと飴色に光る階段を駆け降りる。
男の大声と重なるように、女の甲高い笑い声も聞こえる。
今日は何かの祭りか、祝い事なのだろうか。
吸い寄せられるように、声が聞こえる方へと向かう。
襷掛けをした手伝いらしい娘が膝をつき、徳利が乗った盆を廊下に置いて襖を開けるところだった。
開いた隙を縫って、やちるはそっと部屋の中へと忍び込む。同時に
「わあ……」
感嘆の声を上げていた。
10畳ほどの三間続きの部屋の襖を取り払って、大きな宴会場が作られていた。
羽織袴の男と、赤青金と、人魚のような色とりどりの、ひらひらした着物を着た女が入り混じっている。
漆塗りの長机には、所せましと海や山の幸が並べられ、酒が酌み交わされている。
これほど華やかで豪華な席を、やちるは初めて見た。
「ついにお前を物にしたぞ、花音!」
不意にそんな言葉を聞き、やちるはハッとして床の間の方に目をやった。
すると、床の間の前の上座には、もう60歳は越えていそうな初老の男が目に入った。
酔っているせいか顔は額から胸元まで赤く、顔といい、あごと言い、腹といい全体的に肉が緩んでいる感じがする。
その隣に、よくできた日本人形のように座っている花魁……
真紅の地色に、白鶴が群れをなして舞う豪華な打掛を着た花音が、座っていた。
「いやあうらやましい、こんな絶世の美女を愛人にできるなんて。長生きできますね!」
「当たり前だ、あと30年……いや50年は生きてやるさ」
ははは、と大きな口を開けて笑う男に、やちるは何ともいえず嫌悪感を覚えた。
この男は嫌いだ。理由は分からないが、そう思う。
肥った手が、花夜の腰のあたりに回されている。やちるは目を逸らした。
わずかな時間でも、状況は理解できた。
今やちるがいるのは、最初にやちるが行き合った場面……花音の部屋で、花音と誠之助が顔を合わせていた場面の未来に違いない。
あの時、二人は、花音を身請けしようとしている前田という男の話をしていた。
状況から見て、この初老の男が前田だろう。そして、身請けを否定した花音の言葉とは裏腹に、事態は進んでいる。
―― どうして、笑ってるの?
ちらりと見えた、花音のあでやかな笑みが、分からなかった。
遊郭に売られる時は、あんなに辛そうな顔をしていたくせに。泣いていたくせに。
それでも売られるしかないと分かった時は、あんなに凛とした顔を見せたくせに。
どうして今の花音は、こんなに「嬉しそうに」笑っていられるのだろう。分からなかった。
花音は、かいがいしく男の隣に侍り、盃が空くたびに徳利から酒を注いでやっていた。
そして、不意にスッと身を起こす。
「少々はずしますわ。極上の酒を用意するよう、台所に伝えてまいります」
「お前が行くことはない、待たんか! せっかくの祝いの席だ」
立ち上がった花音の手をつかもうとした時、周囲からヤジが飛ぶ。
「焦ることはありませんよ前田様、もう貴方のものなんですから」
「すぐに戻ります」
するりと男の手を逃れ、花音はその場を後にする。
やちるはやるせない思いを抱えながら、そのあとを追った。
「待ちなよ、花魁」
座敷からの声が届かない場所に来た時、花音の後ろから声がかかった。
振り向いた花音は、歩み寄って来た人物に少し目を見開いたが、すぐに口元に笑みを浮かべた。
「十六夜姐さん」
きりりと髪を結いあげた十六夜は、花音の笑みを厳しい顔で見やった。
「一週間前だったかね、最後に来てたのは。あの男はいいのかい」
「誠之助さんのこと?」
「そう言っていたね」
「……いいんです」
花夜の目元が、弓型に形作られる。ほほ笑んでいる……やちるはぎゅっと胸が締めつけられた。
十六夜は、すぐには答えず、ふぅー、とため息をついた。
「あんたが、ここに来て5年か。初めは、隙さえあれば逃げ出しては連れ戻されて。
折檻を食らっては、あざだらけになっていたね。打たれる度に、叫んでたあんたの声を覚えてるよ。誠之助さんって」
「子供の頃の話ですわ」
やちるはハッと花音の顔を見上げたが、彼女の笑顔に変化はなかった。
「昔のことですが、あの人に言ったことがあります。好きだから、奉公しているのだろうと。自分が選んだことに、どうして辛そうな顔をするのかと。
私も、同じです。結局は自分で決めた道なのですわ」
「どうしようもない理由があったんだろ? 好きで選んだ道じゃない」
「たとえそうだとしても、その道をここまで歩いて来たのは私です。花魁という生き方に誇りを持っていますわ」
「そうだろうさ。それくらいの根性がなけりゃ、いくら綺麗でも花魁にはなれないからね。でも、あたしが言いたいのはそんなことじゃないよ」
「私は……」
「あたしは、『花夜』に用があるんだよ。あんたじゃない」
遠くに、遊女たちの嬌声が聞こえている。
それとは別の世界の生き物のように、十六夜と花音は向き合っている。
まるで、ぴんと糸が張り詰めているようだった。……やちるは、動けない。
先に口を開いたのは十六夜だった。
「あたしに言わせれば、大人になるっていうのはね。ただ、覆い隠すのがうまくなるだけさ。思いは、決して消えたりしない。違うかい」
花音は、わずかに目を細めたが、何もいわなかった。そうだとも、違うとも。
「花夜。あんたは本心を隠すのがうまいね。あんたの願いは、なんだい」
「……忘れましたわ」
花音は、少し首を振った。そして、どこか懐かしそうな笑みを浮かべた。
「幸せは、取りすぎてはだめなのです。自分に与えられた檻の中で収めなければ。手を伸ばしすぎてはいけないんですよ、姐さん」
「……花魁」
「お世話になりました、姐さん。来週には、前田邸に発ちます」
何かを言おうとした十六夜の前で優雅に頭を下げ、するりとその場を後にする。
真紅の打掛を軽く引きりながら、階段を上がってゆく後ろ姿を、やちるは追った。
花夜の背中に、十六夜は最後に声をかけた。
「忘れないで。あたしは、あんたに幸せになってもらいたいんだ」
分からない、と思った。
花夜、という女性の気持ちが、やちるには分からない。
本当に遊女という立場に、身請けされると言う今の状況に満足しているのかそうでないのか、
誠之助に対して愛情が本当にあるのかも分からない。
幸せになってほしいと願われていながら、肝心の花夜の思いが見えないのだ。
花夜は足音もさせずに、自室の中に静かに滑り込んだ。
そして、明かりも入れないままに襖を閉める。辺りは急に暗くなった。
「ねぇ」
やちるは一歩進み出て、花音の顔を下から覗き込んだ。
そして、すぐに目をそらす。見てはいけないものを、覗いてしまったような気がしたからだ。
まるで、舞台に出されていた操り人形が、突然全ての糸を切られてしまったかのように。
花音の顔からは、全ての感情が抜け落ちていた。
華奢な肩から、豪華な内掛が力尽きたように滑り落ちた。
衣擦れの音とともに、内掛が花音の身体を中心に、扇を開いたように広がった。
その下に、内掛よりは地味だが、桜色の華やかな柄の着物が現れた。
花音は、自分が内掛を脱いだことにも気づかないような、放心した表情のままでいる。
花音は、前にこの部屋で見たような、遊女の化粧はしていなかった。
身請けが決まった段階での集まりだったためだろう。町で見かけた女性の化粧に近かった。
眉は黒く、穏やかな弓型を描いている。
黒目がちな瞳は、感情を映していないためか人形のように静止している。
白粉をつけていない頬はわずかに紅潮し、控えめに紅を刷いた唇は少し開いている。
花魁の姿より格段に若々しく、まるでもぎたての果実のように初々しい。
細いたおやかな指が、結いあげた頭にいくつも差した簪を抜き取る。
一本一本、抜き取るたびにすとんと下に落とした。
濡れ羽色の髪がはらりと着物の背にこぼれて、闇の中で艶々と光る。
穏やかでない状況なのに、やちるは思わず、見とれた。
花音は、ゆっくりと沈んだ足取りで、窓へと向かった。
そして、閉まっていた障子を引き開ける。すると、あの桜が窓いっぱいに広がった。
―― 「毎晩行くよ。桜の元に」
誠之助は、そう言っていた。今も、あの桜の元にいるのだろうか?
やちるの頭の中に、少し前に見た光景がよみがえる。
まだ町娘だった花夜が枝に腰かけて歌い、誠之助が笛を吹いていたあの夕暮れを。
いろいろなしがらみに身を縛られていたとはいえ、あの瞬間の二人は心から楽しそうだった。
この時間が続けばいい、と見ていたやちるでさえ芯から思ったのだ。
誠之助は、優しさが裏目に出るばかりで、不器用で、やちるから見ればもどかしい男だった。
でも、今この瞬間に、花夜のいる遊郭から姿が見えることはないと分かっていても、立っているだろうことは間違いないと思った。
花音……花夜は、膝を畳の上につき、両手を窓の桟にかけて、じっと桜を見つめている。
ぽたっ、と音がしてやちるが見ると、畳の上に水滴が落ちている。
泣いている――
両手を桟にかけたまま、額に桟がつくくらい深く俯いたまま。
少しだけ見えた口元は、強く引き結ばれていた。
どんな嗚咽よりも、一切の音を噛み殺して、声もなく泣く姿は、見ていてもぐっと胸に堪えた。
「本当は、会いたいんでしょ?」
やちるは、思わず大きな声を上げていた。
「会いに行けばいいよ! どうして駄目なの?」
やちるにも、特別な人がいる。花夜の気持ちは、痛いほど伝わって来る。
―― 「八千流(やちる)」。
更木が名づけてくれた名が、かつて彼が特別に思っていた、他の誰かの名前でもよかった。
もしも、やちるが更木にとって、「八千流」の代わりにすぎなかったとしても、それでよかった。
更木と一緒にいて、常に生き死にを目の当たりにして来た。
命があって、ただ一緒にいられることが、どれほど特別なことか身にしみて知っている。
幸せになってほしい、と心から思った。
―― 届いて。
そっ、とその手を、花夜の細かく震える肩に伸ばした。
小さな指先が、花夜に触れるか、触れないかの時、
「うきゃぁっ!」
やちるは、のけぞってその場に尻もちをついた。
動きを取り戻した操り人形のように、花音が突然体を起こしたからだ。
ぽかんとしてやちるが見上げる中、彼女は指で涙を払い、机の上にあった紐で手早く髪を束ねた。
そして箪笥を開けると、中から黒いコートを取り出した。
それを目立たないように小脇に抱えると、廊下へ続く襖に手をかける。
一瞬、部屋を振り返った表情は、凛としたものに変わっている。
「会いに行くんだ!」
思わず、やちるはそう叫んでいた。
そうだよ。会いたい人に会いに行って、いけないはずがない。
やちるは立ち上がり、花音が出て行った後の襖の隙間から、廊下に抜け出そうとした。
しかし……そこにあったのは、廊下ではなかった。
***
「あの桜……戻って来たの?」
やちるは、めまぐるしく周囲を見渡した。
前の前にはあの隊首桜そっくりの桜が満開で、振り向けばあの町並みだった。
場所が変わっただけでなく、また時間軸も飛んでしまっていてはたまらない。
元の世界に戻ることも忘れ、やちるは二人の行く末を見届けたいと思っていた。幸せになってほしいと。
「彼」を見つけるのに、時間はかからなかった。聞き覚えのある笛の音が、風に乗って流れて来たからだ。
音に誘われるように歩いて行くと、桜のすぐそば、町の夜景が見下ろせる場所で、誠之助の後ろ姿が見えた。
―― どこかへ旅に出るの?
やちるがすぐにそう思ったのは、誠之助がいつもの着物に、手甲脚絆で身を固めていたからだ。
やちる達死神も、普段の死覇装に加えて手甲と脚絆を身につけることはあるが、一週間を越える遠出に限られている。
誠之助の足元には、風呂敷包みたひとつだけ置かれている。そこからこぼれ出た金色に、やちるは目を見張った。
近寄って覗きこむと、それは思った通り、紐で何枚かごとにくくられた、小判の束だった。
「……こんな大金、どこで」
まさか。
やちるはハッと顔を上げ、思い詰めた誠之助の横顔を見上げた。