笛を吹くのが、子供のころから好きだった。
下級武士が名を上げるには、剣術で身を立てるしかないと言われていた時代のことだ。
―― 「情けない」
思い切って、笛を習いたいと訴えた時、吐き捨てた父親の顔を思い出す。
―― 「戦いに死すよりは良いです」
その言葉とは裏腹に、横を向いた母親の表情は淋しそうだった。

剣術はからきし、頭も人並み。
不遇に暮らし、子に夢を託すしかなかった親にとってみれば、親不幸な息子だっただろう。
笛を買ってくれなどと言いだせるような家計でもなかったから、笛は何度も失敗作を積み重ねながら、自分で作った。
そして、家からは遠く離れた丘陵の上で、人知れず練習を重ねて来た。

手作りの笛だけあって音は普通の笛とは少し異なっていたが、
朴訥で、どこか哀愁漂う旋律は、自分にぴったりだと思っていた。
12で隣町で奉公に出されてからも、この丘陵通いは続いた。
花夜と会ったのは、そんなひとときだった。


初めて会った夜、花夜は誠之助の隣に仰向けにごろんと身体を投げ出し、桜と夜空を眺めていた。
頬を撫でる風に、目を細めた彼女は心から気持ちよさそうで、誠之助は妙な居心地の悪さを感じたものだった。
つきあっていくうちに分かったが、彼女は自由と言うか、天衣無縫というか、周囲の環境を一切気にかけないところがあった。
経済的に恵まれていたからだ、と言うこともできる。実際、彼女の家は町でも有数の豪商だった。
―― 「笛が好きだから吹いてるんでしょ。家族が好きだから奉公してるんでしょ。
自分が選んだことじゃない。なのにどうしてそんなに辛そうなの?」
花夜が何気なく言った言葉は、奉公して辛い目に会うのは家族が貧しいからだ、弟妹のためだ、と言い聞かせていた自分には痛かった。
周りのせいではなく、全ては自分が選んだことでないかと。
自分よりも幼い少女に、はっきりと言われてたじろいだのを懐かしく思い出す。

―― 「ねぇ、また、笛吹いてよ」
立ち去り際、彼女はそう言って笑った。
―― 「あたし、あなたの笛大好きになっちゃった」
その日から、彼女が両親を失った日まで、花夜は陸門の、ただ1人の観客になった。
花夜の大好きな桜の歌を、姿に似つかわしい美しい声で、よく歌っていたものだった。


「もしも……」
あれから何年もの時間が流れ、変わらない丘陵に立ち、誠之助は一人つぶやいた。
もしも、お主が、本当に私の笛を分かってくれているというなら。
この笛に、お主が好きだといったこの曲に込め続けた思いに、気がつかないはずはないだろう。
誠之助は、一曲を吹き終えると、その笛を懐にしまった。

天下の花魁・花音が、ついに身請けされることが決まった。
その噂が町を駆け巡ったのは、今から三日前のことだった。
男たちは、もう花魁と会えなくなることを嘆き、前田という身請けした男を妬んだ。
女たちは、妾であっても名だたる豪商の庇護を受けて羨ましいと、少し蔑んだ声音で語り合った。
彼女がかつて、同じ町で暮らした「花夜」だったことを覚えている人間は、もう町にはいないようだった。

―― 「結局、金だったらしいぜ」
帳簿をつけていた時、廊下で男たちが言い交わすのが聞こえて来た。
―― 「花魁は拒絶したそうだ。まあ分からなくもないぜ、あんな年寄りの囲い者になってもつまるめぇ。
だが、金を積まれた遊郭の主人の方が、折れたらしい。天下の花魁が稼ぎだすはずだった額をはるかに超える金が動いたらしいぜ」
―― 「まあ、花魁冥利に尽きるんじゃないか?」
筆を握る指に、力が入らなかった。数字を追いかける気力もなかった。
結局、自分たちの障害になるのは全て、金だ。

金がないから奉公に出され、身を売られ、そして今度は買われてゆく。
帳簿が涙に滲み――そして、誠之助はその時、はっと気付いたのだ。
この店の信用を得ている自分にとって、帳簿を書き替え、金を持ち出すのは訳もないと。


悩み、悩んだ結果が、今足元に無造作に置かれた風呂敷の中に入っている。
これだけの額があれば、前田が出したであろう金を上回る自信があった。
その金で花夜を身請けして町を出て、ともに暮らそう。

世話になった商家に、とてつもない迷惑をかけることになる。
息子に失望しながらも、愛情を持ち続けてくれた父母を裏切ることになる。
そう思うと心が締めつけられるように痛んだ。
しかし命を持ってその罪を購うのなら、理解も許されもしなくても、覚悟だけは分かってもらえるかもしれない。

自分には、追っ手から逃げ切るような才覚はない。
一年後か、それとももっと短いか……いずれにせよ、いつかは捕まる。
切腹すら許されず、打ち首となる未来は見えていた。

――だが、花夜自身には咎はない。
出所がどうであろうと、身請けの金を支払われ自由の身になったのだから。
自分の命で、彼女の人生のこれからを「買える」のであれば、悪くはないと。
本気で思うほど、いつのまに自分はあれほど花夜を愛していたのだろうか。


「……もう、時間がない」
商家で騒ぎだす前に、遊郭に行かなければならなかった。
ずっしりと重い風呂敷包みを手に、立ち上がったその時だった。
―― 遅いよ。
そんな声が、風に乗ってふと流れて来たような気がした。幼い、少女の声だった。
「……誰かいるのか」
振り返ってみても、もう夜なのに女の子が外を出歩いているはずもない。
みっしりと咲き誇る桜から、花びらがほろほろとこぼれおちる。
―― もう、まにあわない
あどけない声が、もう一度聞こえる。なぜか、ぞっとした。

「おい、いたぞ!」
びぃん、と暗闇を裂いて、男の声が響き渡る。勝手に身体がびくりと動く。
とっさに、風呂敷包みを抱えて駆け出そうとした時、町へと下る道沿いに、何人もの男の影が現れた。
背中に店の名が染め抜かれた見慣れた法被姿に、唇を噛む。
「……武士ってのは、落ちぶれると思いきったことをするもんだな。長年世話になった店から金を持ち出すとは」
手に手に長い棒をもった男達に、あっという間に取り囲まれる。
前に立ち、口を開いたのは、自分に帳簿付けの仕事を教えてくれた男だった。

「何か申し開きがあるか?」
見つめてくるその視線には、嫌悪感が漂っていた。
人を裏切るとはこういうことなのだと思い知らされる。
何も、言い訳などできるはずがなかった。無言で、首を振る。

「そこを、通してください」
その言葉に、反応する男はいなかった。逆に、間合いを詰められる。
「残念だな、誠之助」
取り巻く男たちの数は10人以上。風呂敷を降り捨てれば、あるいは逃げのびられるかもしれない。
小判を振りまけば、一瞬気が取られる。隙が作れる。しかし、それではこれだけの行動を起こした意味がない。
「お前のことは理解していた。しょっちゅうここに来ていることも、花音などという花魁に入れ上げていることも知っていた。
それでも、仕事っぷりは真面目だったから多めに見てやったのに」
「彼女は、花音などという名ではありません、花夜です! この街で一緒に暮らしていたこともあったじゃないですか!」
「昔を引きずるのは、過去の栄光を誇る武士崩れがよくやることだ」

――やめて。
また、あの少女の声が聞こえる。心を痛めている。これから起こることが分かっている。
そうか、と不意に気づく。気づいたのは、男たちが誠之助を取り囲み、棒を構えたその時だった。
この世ならぬ者が、すでに迎えに来ていたか、と。
次いで、視界が朱に染まった。



* last update:2011/9/3