だって、ヒールが磨り減るもの。 駅から徒歩5分、ワンルームの物件を選んだ、アイツの言い分はそれだった。 2人で暮らすには、狭い、暑苦しい、プライバシーがない。 そんな俺の反撃は、さらりとかわされた。 カッ、カッ、と高い音を鳴らし、街を闊歩するあの女には、都会が似合う。 ねぇ、飲みに行こうよ。あんた中学生? それが問題? ねぇ、遊びに行こうよ。 ねぇ、一緒に暮らそうよ。 ぐいぐいと強引に、俺を知らない場所へ連れて行く、強引な足音。 ペースを崩されるのは嫌いな俺だが、相手が松本乱菊の場合に限っては、そうでもないらしい。 レースカーテンを通り抜けた午後の陽光が、ちらり、ちらり、と白いシーツの上に光の綾を作った。 近くの高校のチャイムが、明るい水の底のような、この部屋にまで届いてくる。 賑やかに笑いさざめきながら、家の下の道路を、高校生達が歩いてゆく足音が聞こえる。 ぱらり。 冬獅郎は、中学校の下校途中に買った本を、腹の上でパラパラととめくっていた。 セミダブル・ベッドに、中学生2年生にしては長身の、175センチの体を仰向けに投げ出している。 銀色の髪が柔らかな光を放ち、切れ長の二重の瞳は、今は少し眠そうに細められている。 深い蒼碧の瞳が、本の上をさまよう。 つまらない本だ、と思う。 つまらない本を読むのは、黙って座ってるよりも退屈だ。 中途半端に解いた制服のネクタイを、白い指がもてあそぶ。 なんで、こんな本、買ってしまったんだか。 ベッド脇に置いてあったマジックペンに、戯れに手を伸ばすとキャップを取り、表紙に向き合った。 ワンルームの向こうからは、シャワーの音がずっと聞こえている。 キュッ、と音を立てて蛇口を閉める音が、やけに大きく響いた。 *** 日当たりのいい、部屋がいいんだ。 交渉の果て、2DKの部屋を諦めたあの子は、あたしに向かってそう言った。 お肌が焼けるじゃない。 あんたの肌は真っ白だからさ、日にも焼けないからいいけど、あたしは焼けるのよ。 代わってよ。 そんなあたしのワガママを、あの子はあの、蒼碧の瞳で受け流した。 空の蒼。海の碧。そんなフィルターを通して世界を見てるあの子の視界は、どんな風なんだろう。 こんな灰色の都会も、輝いて見えるのかな。 少なくともあたしは、日番谷冬獅郎の隣に立って初めて、世界が色に満ちていることに気づいた。 健康的な日に焼けた体を、暖かな湯が滑り落ちてゆく。 バイオリンのようにリズム感のある体型。金色の髪。すらりと伸びた身長。 男も女も振り返るのを、当たり前みたいに思ってた。 ただ1人、あたしを風景の一部みたいに受け流した少年に会うまでは。 金色の髪が、バスルームの蛍光灯の光を受けて、鈍く輝いている。 バスオイルの人工的な花の香りが、バスルームを満たしている。 バスルームの扉を開け、隙間から手を伸ばして、かけてあったバスタオルを手に取った。 ポタポタと水滴を落としながら、洗面所に足を踏み入れた。 「進路面談」 ドアに隔てられたワンルームから、冬獅郎の声が聞こえた。 「ん? 高校の?」 んん、とはっきりしない声が返す。 「今週末、中学校で面談があんだよ。保護者も連れて来いって」 そりゃ、ムリね。化粧水を手に取りながら、乱菊は思う。 冬獅郎の親はノルウェーにいるのだと、一緒に住み始めた頃に聞いたことがある。 ヨーロッパの上の方としか知識がなく、ろくにリアクションを返せなかったのを覚えている。 親は日本人だが、祖父だか曽祖父だかがノルウェーの人間で、その縁で住んでいたらしい。 でも5年前、どういう経緯か冬獅郎だけが日本で暮らすことになった。 冬獅郎が他人事のように淡々と話したから、乱菊も淡々と聞いた。 それから、冬獅郎の家族のことを話題にしたことは一度もない。 「そこで、『自称親戚』のあたしの登場って訳ね」 鏡の中の自分の顔をチェックしながら、乱菊が返した。 よし、残業疲れでついてた、かすかなシワは消えてる。 周囲には、日本に身寄りがいない子の面倒を見てる親切な従姉のお姉さん、で通している。 あたしは恋人同士だって知られても全く気にしないけど、冬獅郎が頑なに嫌がるためだ。ま、バレてるかもしれないけど。 「いいけど、さ」 隣においてあった洗濯機の上に置いた、下着を手に取った。 まだ濡れた体にかまわず、手早く身につける。 「高校に行くんだから、親にも連絡取っときなさいよ」 「分かってるよ、金だってかかるし。いつか返すっていっても、やっぱり……」 「金のことでぐだぐだ言うんじゃない」 乱菊は、わざと蓮っ葉な口調で言い捨てる。 「都心のOL、なめんじゃないわよ」 冬獅郎1人高校に行かせるくらいじゃ、消化しきれないくらいの金が、預金口座にはうなっている、とまでは言わないが、実際それほど苦でもない。 「あたしが言ってんのは、親と仲良くしてなさい、てことよ」 「……お前だって、親と連絡とってるの、見たことねえぞ」 拗ねたような冬獅郎の声に、乱菊はふと、思いをめぐらせる。 そういえば、あたし自身、家族と連絡取らなくなって、どれくらいになるかしら。 薄暗い洗面所の中で、金色の髪がけぶるように輝いているのを見つめた。 あたしの体にも、どこか異国の血が流れてる、らしかったけど。 アメリカだったか? それともイギリスか。前に親に聞いたかもしれないし、単なる想像かもしれない。 もともと縁が薄いのか、あたしの情が薄いのか きっと、都会だから、だ。 都会には、自分のルーツ、なんて面倒くさいものを、持ちこまなくていい気楽さがあるように思う。 「あたしはいーのよ、もう大人だから」 どういう論理だ、と冬獅郎がぼやく。 タオルで髪から落ちる水滴を拭い、乱菊は下着姿のまま、ワンルームに続くドアを開けた。 ベッドに寝転がった冬獅郎の横顔にチラリと視線を走らせると、冷蔵庫を開ける。 ミネラル・ウォーターを手に取ると、直接ボトルに口をつけて一気に半分ほど飲み干した。 カタリ、という軽い音に振り返ると、冬獅郎はベッド脇のテーブルにペンを置いたところだった。 その視線は、乱菊が出てきてからずっと、本に注がれたままだ。 「冬獅郎……女の裸より本かよ」 「見飽きた」 乱菊を一瞥すると、すぐに本に視線を戻してしまう。 乱菊はムッと口をへの字に曲げると、大股でベッドに歩み寄った。 「こんな美人を捕まえて、見飽きたって何よ。それでもついてんの? あんた」 ガッ、と膝をベッドにつくなり、冬獅郎の制服のベルトに手をかけようとする。 その指先を、冬獅郎が膝を曲げてブロックした。 「邪魔すんな、人が読書しようとしてんの……」 冬獅郎が言い終わるよりも早く、乱菊はその本の背表紙を鷲掴みにする。 「馬鹿……何すんだ!」 乱菊がいきなりその本を、開いた窓から外に放り投げたのを見て、冬獅郎の声が、初めて大きくなった。 「おい!」 「あ、高校生がこっち見てる」 身を起こそうとした冬獅郎の肩に、赤いマニキュアが光る指を置き、乱菊が窓から下を見下ろした。 「起きてもいいけどさ、昼間っからイチャついてるカップルって、噂になっちゃったりして」 「……いっぺん死ね」 冬獅郎は、顔の上に手のひらを置いた。やってられない、という風情である。 心の底からあきれ果てた目で、乱菊が窓の外に向かって笑顔で手を振るのを見上げた。 「下着姿だって分かってるか? 恥を知れ」 「あら、やきもち?」 どこが!? 力いっぱい否定する声を足の下に聞きながら、道路を観察する。 「男のほう、髪型は馬鹿みたいだけどイイ体してんじゃない。女の子もかわいいわね、胸はないけど。あ! 逃げた」 「下りろ、離れろ、近づくな!」 冬獅郎の憤懣やるかたなしという声に、冬獅郎を見下ろした。 「そして病院へ行ってアタマを診てもらえ」 「あたしを見て」 「見ない」 反抗的に目を閉じ、枕の上で首を倒した冬獅郎の白い喉に、我知らずゴクリと唾を飲み込む。 「食っていい?」 「そんなにサカってんなら、駅で誰か見つけて抱いてもらえよ。徒歩5分だ」 思わず、絶句する。 あたしもあたしだけど、こいつも大概いい神経してるわ。 あたしの言いなりの男なんて1ダースは優にいるのに、こんな生意気なガキとつきあうなんて何たる不覚。 中学2年生、14歳。年齢はあたしの2分の1、身長は2センチ下。 銀色の柔らかな髪。白い肌。青緑の目。どれも水彩絵の具を何度も重ねたみたいな深くて透明な色。 絵心なんてないけれど、絵にだってこんなに完璧な色彩の調和はあまりないと思う。 学校の成績を口にしたことはないけれど、投げ出されていた通知表を見たらオール5だった。 生意気で、強引で、自分勝手で、無愛想。恋人にも甘い言葉一つ吐かない。腹が立つのに、それがはまってしまう厄介な少年。 「何じろじろ見てんだよ」 「厄介な男に捉まっちゃったな、て思って」 じっと見下ろすと、冬獅郎は身じろぎもせず乱菊を見返してきた。二人の間をふわり、春の風が吹きぬけてゆく。 「分かったわよ、負けたわよ、あたしが」 乱菊は立ち上がった。 「本、取ってくるわ」 下着のまま、勇ましく立ち上がった乱菊の手を、冬獅郎の手が捕まえた。 ふわり、と体が宙を舞い、乱菊の体はいとも簡単に、ベッドに沈む。 乱菊が何か言う前に、男にしてはまだ細い指がこめかみを撫で、金髪の中に差し込まれた。 髪を漉く、優しい手。それだけで今までのことを全て忘れて、猫のように喉を鳴らしたくなってしまう。 「いい」 見上げれば、至近距離に、冬獅郎の蒼碧の瞳があった。 乱菊はそっと目を閉じ、自分より少しだけ広い、日番谷の背中に手を回した。 ―― 生意気で、強引で、自分勝手で…… 乱菊は、そっと言葉をつけ足す。 ―― そして、本当は、誰よりも優しい。
last update:2010年 3月10日