「なぁ恋次、あっち」
セブン・イレブンの自動ドアをくぐった途端、ルキアは恋次の袖を引っ張った。
細い指の感触を腕に感じ、恋次は心中ギクリとする。
そんな恋次に気づきもしないルキアの視線は、「今春の新発売!」とステッカーが貼られた棚に注がれている。
「なんだよ?」
一瞬の動揺を覆い隠すようにわざと荒っぽい声を出すと、眉間に皺を寄せて振り返られた。
「ちょっと袖を引っ張っただけだろう、乱暴な奴だ」
ぐっ、と言葉に詰まる。特に凄んだつもりはないのに、普段から「怖い」と女子に敬遠ばかりされているのだ。
相手は幼馴染なのに、久しぶりに会ったというだけで、何だか勝手が分からない。

恋次の戸惑いに気づいたのか気づかないのか、ふふん、とルキアは笑った。
「ま、わざとじゃないのは分かっているがな。どうせ、相変わらずクラスでは強面の阿散井君で通っておるのだろう」
「何だよ、その勝ち誇ったような笑いは!」
「お前が不器用なのは、十七年前からお見通しだ」

十七年、というのは比喩でもなんでもなく、実際に二人が一緒にいた時間と重なる。
いつも一緒にいた頃の空気が、ふわり、と二人の間を吹き抜けてゆく。
恋次はひっそり微笑むと、新発売の棚に見入っているルキアの後をゆっくりと追った。

「これ新発売らしいぞ、うまそうだ」
ルキアは恋次が近づくと、手に持った菓子を見せてきた。
「……ホンットーに、変わらねぇな、お前は」
思わず溜め息が出た。ルキアが手渡してきたのは、イチゴジャムが中に入ったビターチョコを、更にホワイトチョコでコーティングした代物だった。
恋次からしてみれば、こんなものは食べ物とは呼ばない。
「……甘くて死ぬ」
「何を言っておる。内側に挟まっているのはビターチョコなのだぞ。スイートチョコと合わされば、苦さと甘さが程よく……」
「重なるか!」
恋次にしてみれば、どっちもチョコだ。甘いものは別に嫌いじゃない、甘党でさえあるが、これはアンマリにアンマリではないだろうか。

「拷問かよ」
「分かった分かった、飲み物はアッサリ系でかまわん」
「ウーロン茶か壮健美茶でいいな?」
「メロンソーダがいい」
「アホか」
たわいもない会話を交わしながら、ぐるりと棚の周りを一周する。ちょっと高いな、と値札をにらんでいるルキアを、恋次は無言で見下ろした。

「なんだ?」
うなじの辺りに向けられた視線に気づいたのだろうか、ルキアが怪訝そうに顔を上げる。
「ん? いや、なんか……お前、縮んだか?」
女にしても小柄だが、ここまで見下ろした時の角度が急ではなかった気がする。
一瞬キョトンと目を丸くしたルキアだが、すぐに渋面をつくった。
「馬鹿者、私はまだ十七だぞ! 縮むわけがないだろう。お前が大きくなったのだ」
「そうか……な」
いや、当然そうなのだと思う。しかし、妙に釈然としない気持ちで、恋次はレジに向うルキアの後姿を見やる。
制服のプリーツスカートからのぞく足はすんなりと細く、男臭い恋次の足とは別の生き物のように華奢だ。
腕も強く握れば折れてしまいそうで、どこか柔らかい感じがする。

この女は、昔からこんなにか弱く見えただろうか?
後ろから腕を廻せば、すっぽりと胸の中に納まってしまいそうなサイズだ。

「恋次! 何をボーッとしておるのだ!」
凛とした声に、恋次はハッと我に返る。レジを打っていた中年の女性がクスッと笑うのを目の端に捉えて、気まずい思いに渋い顔を作った。
ルキアは、既に会計の終わった2つの袋を持っている。恋次は大股で歩み寄ると、ぐいっとルキアから袋を両方奪い取った。
「私が半分持つ!」
「いいって」
手を伸ばしたルキアを押しのけるように、出口に向う。小走りにルキアがそれを追った。
二人の身長差は、約40センチ。早足になると、ルキアは走らなければ追いつけない。
肩越しに振り返った恋次は、すぐに歩幅を緩める。追いつきながら、ルキアはふふっ、と微笑んだ。


***


十七年前の同じ日、赤ん坊だったルキアと恋次は、奇しくも同じ児童養護施設の軒先に捨てられていたらしい。
これが二人の出会いだが、当然二人とも覚えていない。
双子のきょうだいか、と念のためDNA検査が行われたそうだが、結局は赤の他人だと分かっただけだった。
その話を後で聞いて、ルキアは思わず噴出したのを覚えている。恋次とルキアでは、あまりに外見が違いすぎる。

この平和な日本の中で、文字通り天涯孤独の「捨て子」同士。
特に仲がいいと自覚することもなく、ルキアと恋次はただ分身のように、いつも一緒にいた。
そして中学に入学すると同時に、二人は施設を出てそれぞれ一人暮らしを始めた。
何事もなく中学を卒業し、奨学金を取って高校へ通ううち、少しずつ二人は離れ始めた。

しかし全く会わなくなるということはなく、学校で顔を見合わせるたびに雑談くらいはしていたのだ。
二人にとって、ふるさとの持つ空気は、相手の中にある。
つかの間離れても、すぐにまた吸い寄せられてくるとルキアは分かっていた。
とはいえ、廊下で出会った恋次にいきなり「一緒にテスト勉強しよう」と切り出された時は、相当面食らった(恋次は勉強が嫌いだったはず……)が、
久しぶりに恋次の部屋に行くのも悪くない、と思う。
―― 素直じゃないな。
本当は、気持ちが弾んでいる。
いつもならお気に入りの菓子を買うのに、珍しく新発売に手を出した辺りに、それが現れていると思う。
ゆっくりと大股で歩く恋次の隣にルキアは並んだ。


「……なぁ、恋次」
桜並木が続く通りを並んで歩きながら、ルキアは恋次を見上げた。
「何だ?」
「養護施設の先生に連絡、取ってるか?」
「なんだあ? いきなり。そういや取ってねぇけど。それがどうかしたか?」
ルキアは返事をしようとして、言葉を途中で見失ったように口ごもった。
「何だよ、言えよ」
「……隣の市なのに、養護施設を出てから一度も連絡を取っていないと思ってな。
養護施設にいる間は優しくしてくれたが、あの人にとっては、それが仕事だったからかな」

児童養護施設、と婉曲的に言っているが、実質は孤児院だ。
それも、こんな都会では親と死に別れたとか、経済的な事情で泣く泣く手放した、などというお涙頂戴のストーリーは転がっていない。
赤ん坊の傍に手紙のひとつも残さずに掻き消え、それっきり影も見えないルキアと恋次の親。
彼ら彼女らが子供を捨てた理由は、経済的理由でも病苦でもないのだ、と何となく予想している。理由は敢えていえば……「無い」のではないだろうか。 
―― 「会えないけれど、あなたと両親はきっと、この空の下でつながっているのよ」
幼い頃先生に言われた時、それはどこか心強い言葉として響いたものだ。ただ今は、それが断絶の意味を持って冷たく響く。

「そうかもしれねえし、そうじゃねえかもしれねえな」
慰めの言葉を吐くでもなく、ぶっきらぼうに恋次は言った。
「……答えになっておらぬ」
「俺が答えられるわけねえだろ。そんなん相手にしか分からねぇんだから。会いたいなら、お前から会いに行けよ。簡単なことだろうが」
「……簡単、か」
「大体おめぇはよ、育ての親とか生みの親とか、気にしすぎるんだよ。そんなモン生活に必要ねぇだろ、違うか?」
「それはそうだが」
「じゃあいいじゃねえか」
不思議だな、とルキアは思う。同じように軒先に捨てられていながら、どうしてこんなに考え方が違うのだろう。
生まれた時、場所、産んだ親。ルーツが一切分からない真っ白な状態をものともしないどころか、プラスにも捉えられる男だ。でも、ルキアは違う。
「……本当は、生みの親にも育ての親にも、会いたくはないのかもしれないな」
「は?」
「もしも、私のことを忘れてしまっていたとしたら。誰が私を望んでくれるのだ?」

夜、一人で料理をするときとか。登校する前に、玄関で靴に足を入れる瞬間とか。
一人になった心の隙に、孤独という名の恐怖はルキアに忍び寄ってくる。
もし、誰も、自分を望んでくれなかったとしたら。受身だといわれればそれまでだが、誰かに求められたいと思う。
ルキアの心はきっと未だに、置き去りにされたままなのだ。

「俺」
「は?」
最低限の短い返事に、ルキアはきょとんとして恋次の背中を見た。続きの言葉は与えられず、広い背中が怒り肩のまま遠ざかる。
文脈を頭でつなげて、ようやくルキアは理解する。その頬に、じんわりと微笑が広がった。
小走りにその後姿に追いつくと、これまでより少しだけ、恋次に身を寄せて歩いた。
体温を感じるほどの距離ではないけれど、それでも恋次の傍は陽だまりのように暖かかった。


住宅街に差し掛かった時、ルキアは道路の先に落ちていた何かに気づいて、視線を落とした。
「何だ? あれは」
「本だな」
恋次は歩み寄ると、本をつまみ上げた。ペーパーバックなどではない、しっかりとした作りの本だ。
「ゲッ、英語だ」
表紙を見るなり、恋次は嫌なものでも見たように顔を逸らす。
「誰かが落したんだな」
ルキアは本の表紙を覗き込むと、改めて周囲を見渡した。すると、目の前のマンションが目に入った。
「honky tonk」と小さな看板が立っている、白壁でオレンジの屋根を持つ、こじゃれた作りの建物だ。
「ここ、あの従姉弟(いとこ)が住んでるっていうマンションじゃねえか?」
「ん? ああ」
二人は思わず顔を見合わせた。

めったに会わない二人でも、互いに知っていることを疑わない……それくらい、その二人のことは有名だった。
金髪に銀髪、どちらも青い目をした日本人離れした外見ながら、ハーフなのか名前は日本人そのものらしい。
ルキアも、女のほうを目にしたことはあった。
金色の髪を腰までなびかせ、肩で風を切るように歩く。そのヒールの音の高さを、思い出した。

どこの国の血が入っているのか、彫りは深く瞳は明るい青色だった。少年のほうを見たことはないが、負けず劣らずの美形らしい。
人のいいマンションの大家から誰かが聞きだした「従姉弟」説は、もはや高校の誰もが知るところになっていた。
それが本当なのか嘘なのか。それは退屈を持て余している高校生の、格好のおしゃべりのネタになっている。

―― 従姉弟、か。
うらやましい、と思う。それが本当ではなく、赤の他人が従兄弟と名乗りあっているのなら、なおのこと。
血縁がないのに、親族と名乗りあうような深いつながりが、どのように創られるのかルキアには分からないのだ。
家族すら持たないルキアには、何だかそれは遠すぎるように思えた。
一瞬目を閉じ、視線を落とそうとした時。ふと誰かの視線を感じ、見上げたルキアは同時に短く悲鳴を上げた。

「なんだ、ルキア……ぉわっ!」
二人の視線は、マンションの一室に注がれていた。窓の向うで、金色の髪をたなびかせた女が、こちらを見下ろしていた。
ただし、小さな黒い下着以外は、何も身につけない姿で。女は二人と視線が合ったのに気づくと、にっこり笑って手を振った。
「す、すんません!」
とっさに恋次は謝ると、そのまま道路をダッシュして……逃げた。
「お、おい恋次!」
ルキアも、慌ててその後を追う。



―― なんだ、あの胸は……
ルキアは、ようやく足を止めた恋次の隣で、大きく何度か、喘いだ。
ボーリングの玉を思わせるあのボリューム……あんなモノ、初めて見た。思わず自分の胸を見下ろして、同じようにルキアの胸を見た恋次に気づいた。
「死ね、貴様ァ! 今、何を考えた!」
「え? イヤッ、俺は!」
赤面したままのけぞった恋次を、ローファーの足で蹴りつける。
「ンなことより! 俺、本持ってきちまった」
恋次は自分とルキアの間を遮るように、本をルキアの前に突きつけた。

本を受け取ったルキアはぺらぺらと何枚かめくったが、しばらくして、唸った。
「さっっぱり、分からぬ……」
細かい英語がびっしりと並び、ところどころに訳のわからない数式が読める。理系の本なのだろう、ということくらいしか分からない。
「お前それで、外国の大学行きたいとか、よく言えるよな」
「うるさい! 理系でなければ私にも分かる!」
「どーだか」
やや衝撃から立ち直ったやり取りを続けながら、近くの駅の入り口へと足を踏み入れた。

「これ、どうする? 警察に届けるか?」
階段を上りホームにたどり着いた時、ルキアは本を持ったまま恋次を見上げた。
「かまわねーよ、ここに置いとけ」
ホームのベンチの上に、恋次は本をポンと放り出した。
「おい、でも……」
「このテスト前に、そんな面倒くせえことできるかよ。行くぞ」
なおも背後を気にするルキアの肩に、恋次の大きな掌が自然と触れた。
「けど」
「せっかく久しぶりに会ったんだ」
「う、うん」
導かれるままに、滑り込んできた電車のドアに歩み寄る。降りてきた客の後に乗り込もうとして、すれ違った二人連れに……二人は思わずぎょっとして足を止めた。


周囲の視線を一身に浴びているその二人は就職活動中なのだろう、リクルートスーツに身を包んでいる。しかし、その風体が問題だった。
一人は、ヤクザのような強面で、鞄よりも竹刀でも持っていたほうが似合いそうだ。しかも、生まれつきなのか剃っているのか、頭には髪一本ない。
そしてもう一人は、眉目秀麗なのだろうが、その前髪を七色に染め分けていた。肩のあたりでオカッパのように切り揃えている。
こんな髪型、どうやって美容院でオーダーしたのだろう。

何者なのかさっぱり分からないが、恋次とルキアにも、この男達を採用する企業がないだろう、ということくらいは分かった。
一生自分達とは係わり合いにならなさそうなタイプだ。というよりも、なりたくない。
そうルキアが思った時、オカッパのほうの男が、チラリ、とすれ違いざまに恋次を見た。
「赤いウニ頭か。……美しくない」
「なんだと?」
恋次は気が短い。ルキアが隣にいなければ、すぐに胸倉を取っていただろう。

フン、とその男が小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「こンの、オカッパが!」
恋次がそう言い返すと同時に、プシュー、と音を立ててドアが閉まった。
ドアの中と外で、形相を変えた二人の男がにらみ合う中途半端な状況のまま、電車は無表情に発車した。


last update:2010年 3月10日