「ルキアちゃん」
小太りで、白いものがかなり混じった髪を結わえているのは、養護施設で私が暮らしていた頃の、担当の先生だ。
「人生の幸せの量って、みんな同じだというわ。あなたは前半苦労した分、これからいっぱい幸せが待ってるから。……幸せになりなさい」

その言葉を、私は何度胸の中に呼び起こしてきたことだろう。
皴に囲まれた優しい瞳、いつも微笑んでいるように上を向いた口角。写真のように鮮やかに思い出せる。
でも……考えてみれば、彼女は「誰だったのだ」? 私は、名前すら思い出せないのに。
ここには、一緒に過ごしたはずの養護施設すら、ないのに。

「あ……」
怖い。自分の記憶が、信じられない。ルキアは両方のこめかみを押さえ、深くうつむいていた。
「ルキア」
恋次がルキアの肩に触れ、ルキアはびくりと肩を震わせた。

「よく聞けよ……」
恋次の声が揺れている。
「近所の人にざっと聞き込んだがな。ここに、児童養護施設なんてなかったそうだ。五年前どころか、何十年も前から」
「そ、んなはずがあるか……」
ゾクゾクと寒気がこみ上げてくる。
「そんなはずがあるか! じゃあ、私達はどこで育ったのだ! 誰に育てられたのだ!! なぜここに居られる!?」
絶対だと思っていた過去。それが、足元から崩れ落ちる感覚に、ルキアは震えた。


―― 「『五年前』って、何してたんだ?」

夏梨の声が、耳に突き刺さる。妙に違和感があったあの質問は、実は的を得たものだったのではなかったか。
現に私たちは今、自分たちの五年以上前の人生を、否定されたばかりではないか――
腕にかけていた赤い鞄が、音を立てて濡れた地面に落ち中身が散らばっても、ルキアは拾うことができずにいた。


「ルキア。しっかりしろ」
ルキアを我に返らせたのは、いつになく穏やかな恋次の声だった。地面にしゃがみこむと、散らばった中身を拾い集め始める。
「恋次、お前――」
「過去の記憶がどうだろうが、俺とお前は変わらずここにいるんだ。消えてなくなるわけじゃない。現在に勝る過去なんてない。そうだろ?」
この男は、強いな。
私がもしも一人だったら、このままパニックに陥ってしまったかもしれない。
そう思った時、やっとルキアはほぅ、と深く息を吸い込むことができた。

「ありがとう。恋次」
「別に、礼言われるようなことじゃねぇよ」
恋次はなぜか照れくさそうに言うと立ち上がり、ポン、と片手をルキアの肩に置いた。
それは恋次の癖のようなものだ。手を置かれるたびに、大丈夫だと言われた気がする。


「ん? これ何だ?」
恋次が、拾い忘れた名刺を見下ろして、怪訝そうに眉をひそめた。
「あぁ。昨日、クロサキ医院で会った、綾瀬川という人にもらったのだ」
「あぁ?」
とたんに恋次が、顔をしかめてそれを見下ろす。
「あのオカッパ男か? いつの間に」

ルキアとすれ違うときに、そっとカードを手の中に滑り込ませてきたのだ。
―― 「気が向いたら遊びにおいでよ」
そこには美容院の名前、アドレスと、「綾瀬川弓親」という名前が黒字で記されていた。
「ただの名刺だ」
妙に言い訳がましく感じながらそう言うと、そそくさと拾おうとして、ルキアはぴたりと動きを止めた。

「なぁ、恋次」
「なんだよ」
「あの場にいた、私たち以外の四人の客、全員が五年前以前は別の町にいて……そして、何してたか聞かれたら一瞬、当惑したように見えた。私たちと同じように」
「ン? お前、ひょっとして」

もちろん、こんなものは賭けだ。おそろしく的外れな考えかもしれない、ということは分かっている。
でも、今この状態から一歩でも抜け出すには、何かやらなければ始まらない。
「……お前の直感は信用してる」
バカバカしい、と一笑に付すかと思った恋次は、ニヤリと笑ってルキアを見下ろした。
―― 過去を失ったのが、もし私達だけでないとしたら……
もう春も爛漫だというのに、ボタンを押す指は凍えそうなほど冷たかった。



そして、2人はまだ気づいていない。
雨の濡れる坂道を、ゆっくりとした足取りで歩いてくる男の姿。
雨が男の体にも降り注ぐが、水滴は肩や足に当たることなく通り抜け、そのまま地面にはじける。薄く差しこんだ太陽の光も、この男の下に影を作りはしない。

その男の装束は、黒いマークは入っているが、ほぼ純白。逆立った髪の色は、淡い水色である。
目の周りに黒の隈取があり、その顔も喉も手も、驚くほど色が白かった。
「ち。めんどうくせえな」
ペッ、と野卑な仕草で地面に唾を吐いた。
「このグリムジョーが、いちいち出張る必要があんのか? あんな死に損ないのために」
上がりきった坂の向こうに、電話で話し込んでいる二人の背中が見えた。


last update:2010年 6月26日