「あのさ。僕、ずっと前から思ってたんだけど」 「なんだよ」 「不要だと思わない?」 ペシ、と髪ひとつない一角の頭を叩き、弓親がため息をついた。わずかな動きで、綺麗に切りそろえられた髪が揺れる。 「こんなパチンコ玉、ワックスつけて磨いておいたらいいじゃない」 「てめえ。客捕まえてパチンコ玉たぁ何だ!」 「やだやだ、口が悪い男なんて、今時もてないよ?」 一角が何かを言い返す前に、 「弓親さん、こっちお願いします!」 黒髪を見事なドレッドにした女の声が飛び、弓親はシャンプーを終えたばかりの客の席に向かった。 場所は、弓親が昼間働いている、渋谷に程近い美容院だ。 映画などの特殊メイクにも引っ張りだこの、個性派ぞろいのスタッフで有名な、その名も「髪結UchiHa」。 もちろん、オカッパで前髪を七色に染めた弓親のファッションは、同僚と比べても遜色ない。 「うわぁ、今日もホントにお綺麗ですね、由美子さん」 「あらやだ、今日も口がうまいわね」 華やいだ女の声を聞きながら、はぁ、と一角は不機嫌を吐き出した。 大きな鏡に映し出された強面のエプロン姿は、とてつもなく滑稽だ。 ―― 何がお綺麗デスネー、だ。 女におべっかを使う男なんて、男の風上にもおけないと思う。 一体なんで、あんなに外見も中身もオカマみたいな奴と、これほどの腐れ縁が続くのか。我ながら謎だ、と一角は思った。 「ホラホラすねないの、一角。もうちょっとしたらその頭磨いてあげるから」 ちらり、と弓親が一角を見やった。その時だった。鳴り響いた音に、弓親のはさみを握る手が止まる。 ジリリリ、と存在を主張するそれは、昭和の香り漂う黒電話である。 カウンターの向こうに駆けていったスタッフの一人が、受話器を耳に当てた。 「はい。髪結UchiHaです。ご予約のお客様でしょうか?……あ、はい。綾瀬川、ですね」 「誰? 今仕事中だから、後でかけなおすって言ってくれないか」 「ええ。でもそれが、ずいぶん慌てていらっしゃって……朽木ルキアさん、という方ですが……どうします?」 朽木ルキア……? あぁ。しばらく考えて、弓親は心中頷く。 昨日クロサキ医院で会って、美容院のカードを渡した生真面目そうな少女が、ルキアと呼ばれていた。 口数は少ないが、その分もの言いたげな大きな瞳が印象的だった。 「分かった、今出るよ。すみません由美子さん」 「モテる男は大変ねぇ。ぜんぜんいいわよ」 甘い声を背中に聞きながら、手をぬぐった弓親が、カウンターの向こうに手を伸ばした。 「はい。綾瀬川です」 「あ、あの。昨日クロサキ医院でお会いした、朽木ルキアといいます」 受話器の向こうから聞こえたのは、凍えたような少女の声だった。 「あぁ、よく覚えてるよ。どうかしたのかい?」 やたらと張り詰めた少女の声に疑問を覚えながら、弓親はなるべく柔らかく声をかける。緊張を含んだ沈黙の後、ルキアは言葉を続けた。 「突然に申し訳ありません。ぶしつけなお願いだということは承知しているのですが…… 家族の方と、連絡は取られていますか? 例えば、五年以上連絡を取っていない、ということはありますか?」 え? 一瞬の空白が開いた。 ―― なぜそれを知っているんだ? 一番初めに思ったのはそれだった。 まるで答えをある程度見越したような、確信めいた問いかけに聞こえたからだ。 確かに一角も弓親も五年以上家族と連絡を取り合っていないが、当然ながらルキアに伝えてはいない。 「それは、ないけど。どうしてそんなことを聞くんだい?」 少なくとも、初対面に近い人間に尋ねるには、失礼とまでは言わなくても、あまりにも突拍子もない質問だ。 ルキアは、それには答えずに、あらかじめ決めていたかのように即座に返した。 「連絡を取ってみてくれませんか」 何を、ばかばかしい。そう返すには、ルキアの言葉は切羽詰っていた。 「オイ? どーしたよ、弓親」 一角が大股でこちらに歩み寄り、カウンターを覗き込んだ。 「昨日のルキアちゃんっていう女の子がね。家族と連絡取ってくれって急に言うんだよ。今事情を聞こうとしてるとこ」 「……」 一角は、口をへの字に曲げてしばらく沈黙していたが、おもむろに尻ポケットから携帯電話を取り出した。 「ん? 電話するの?」 「どーせヒマなんだ。それに、どーせ電話しなきゃなんねーと思ってたんだ」 不器用な手つきでボタンを押す一角を、弓親はあっけに取られて見守った。 「ちょっと待て。今呼び出してる」 携帯に耳を押しつけながら一角が言った。呼び出し音が聞こえる。3回、4回…… 早く出やがれ。 そう思う反面、出るんじゃねぇと思うのも正直なところだった。 ここのところ、寝ても醒めても電話をするかどうか迷っていた。 深く考えるのが苦手な一角にとっては、イラつくことこの上なかった。 これ以上悩むくらいなら、こんな何気ない一押しに乗ってみるのも悪くない。 ―― 「お父さん、癌なのよ。もう五年は生きられないって……それでもあんた、出て行くの?」 五年前、母親に投げつけられた言葉を思い出さない日はなかった。 ―― 「お前には関係ねぇ。そんな理由で残られても迷惑なんだよ。出て行け!」 重なって聞こえた父親の声も。 しばらくは、「関係ねぇ」と吐き捨てた父親に怒りを感じてきた。関係ねぇってことはねぇだろと。 でも、ある時気づいたのだ。父親は、一角が自分を責めずにいられるように気遣っただけだと。 「そっちへ帰る」 父親に怒鳴られようがけなされようが、今度は思ったことをちゃんと伝えようと決めていた。 何のためとか、戻ってどうするんだとか、そんな理由は後でいい。 「もしもし」 しかし。一角の物思いは、思いがけない形で断ち切られた。 電話に出てきたのは、無愛想な年嵩の男の声。風邪でも引いているのか、と初め思った。声があまりに違ったからだ。 「……俺。一角だ」 「あ? 一角? 誰だお前」 は? 一角は、思わず携帯から手を離し、接受画面に映し出された電話番号を見やった。 「ちょっと一角。ひさしぶりだからって、実家の番号間違える? 普通」 ルキアとつながったままの受話器を手に、弓親が呆れた。 しかし。 「……」 一角は、接受画面を睨んだまま、ピタリと動きを止めていた。一言も発しないのを、怪訝そうに弓親が見やる。 「―― 間違って、ねえ」 何度見直しても、自分が生まれ育った家の電話番号に、違いはなかった。 なのに、なんで別人が出るんだ?背筋がサァッ、と寒くなるような焦りが、一角を包み込む。 「なぁ、弓親」 振り返った一角の顔を見て弓親は、ふとうそ寒い気持ちに包まれた。 一角が、まるで別人のように、見慣れない無表情だったからだ。一角は、表情を失ったまま、ポツリとつぶやいた。 「住所。住所、覚えてるか?」 「……えっ?」 しばらくの、沈黙があった。 弓親は、初めは信じられない表情で頭を掻いたが、それが直ぐに「恐怖」に取って代わるのには、それほどの時間を要さなかった。 「覚えて……ねぇ、のか。お前も」 こんな重要な、基本的なことを忘れたまま、そして忘れたことにも気づかないまま、どうして五年間も暮らしていられたんだ? 「もしもし!」 耳元で、ルキアの声が聞こえる。 「連絡できなかったのですね? 実は、私たちも……」 一角がズカズカとカウンターの置の奥に回り、受話器に耳を近づけた。 そこから漏れ聞こえるルキアの話は、自分たちと……状況こそ違えど、二人とよく似ていた。 ―― どういうことだ。 弓親は底なしに思えるような焦りの中で、考える。過去の記憶は、持っている。場所だったり、電話番号だったり。 しかし、個人を確実に突き止められるような記憶は抜け落ちている。 まるで、自分の記憶の穴に気づかないよう、操作されていたかのように。 「……誰に?」 ふと浮かんだ自分の考えに、弓親は背筋が寒くなった。 そんなはずはない。ひとりひとりの頭にしかない、過去や感情に、誰かが手を加えられるはずがない。 「あの場にいた客人は、あと二人いた。あの二人は……?」 ルキアの声に、弓親はハッと我に返った。あの場にいたのは……乱菊と、冬獅郎。 「冬獅郎くんなら、今六本木だよ」 「オイ、なんで知ってんだよ」 一角が横から口を挟んだ。 「ノルウェーの出身って言ってただろ? 彼。僕の友人で、ノルウェーに渡りたいって言ってる子がいてね。紹介したんだよ。たぶん今頃会ってると思う」 この調子じゃ、僕達の二の舞になるかもしれないけど。弓親は自虐気味にそう付け加えた。 「電話してみるかい。まぁ、夜にしたほうがいいけど」 初めの動揺は、潮が引くように収まってきていた。確かに、自分の過去を……土台の部分が全く思い出せない、というのは心もとない。 だが、この五年ずっと忘れていたということは、今さら慌てたところで、どうにもならないということでもある。。 夜にでも一度集まらないか、と弓親が電話の向こうに言おうとした時だった。 「なんだ、てめえ! 何モンだ!」 電話の向こうから、緊迫した恋次の声が響いた。 「なんだ? どうしたんだい?」 「……刃物を持った、青色の髪の男が……」 ごくり、とルキアが唾を飲み込む音が聞こえた。 「なん……」 「おい、弓親」 一角が弓親の肩を、痛いほどの力で掴む。 「どうし……」 振り返ったとき、一角は美容院の大きな窓の外を見ていた。窓の外はスクランブル交差点で、皆信号待ちをしている。 だが、通りの真ん中を、明らかに異形のモノたちが何人も、まっすぐにこちらに歩いてきていた。 手首から足首まですっぽりと覆う、揃った白装束。 その顔には、ところどころに割れた仮面のようなものが張りついていた。 車が走り抜ける……が、その異形の者たちの体をすり抜け、何事もなかったかのように通り過ぎていく。 周りにいる人々も、これほど異様な風景なのに、誰も見えていないようだった。 ……その顔のひとつは、はっきりと一角と弓親のほうを見て、ニヤリと笑った。 そのとき、ルキアとつながった電話の向こうで、声が聞こえた。 「何だァ? 忘れたのかよ。お前たち死神とは、ずいぶん仲良くしたもんだろうが」 ―― 死神? たしか、その名を昨日、黒崎夏梨が口にしていた。 「現世なら、人間に溶け込んで逃げ切れると思ったのかよ? ……だが、もう逃がさねえぜ。タイムアウトだ」 その、次の瞬間。 歩いてきた異形の者たちが、手をこちらにかざすのが見えた。 それと同時に、掌から吐き出されたのは、光球。 それは、あっという間に2人のいる美容院に迫り……危険だと察した時には、美容院の一角に突っ込んでいた。 ドォン!! 鈍い音が響き、辺りに人々の悲鳴が木霊する。 握り締めた黒電話の受話器からは、回線がやられたのだろう、ツー・ツー・ツーとしか聞こえてこない。 「何だっ!? 何が起こったんだ!」 「どうしたの? 急に……」 訳が分からないだろう人々が、逃げ惑う声が耳を打つ。 土煙と、崩れ落ちるコンクリートの破片の中……彼らは、やってきた。 ロボットのような無表情で、慌てるでもなく一角と弓親の方へ歩いてきた。 「とにかく弓親、ここから離れるぞ!」 「……ああ!」 なにがなんだか分からぬまま、二人は瓦礫の中身を翻し、通りに向かって駆けた。
last update:2010年 6月27日