絹糸のような柔らかな雨が、さっきから降り続いていた。細かい雨粒は、落ちるというよりも、空中で舞っているように見えた。 空を見上げると、ぐんぐんと雲が動いてゆく。もうすぐ雨上がりも近いのだろう。雲間から光が漏れた。 一切の外音が遮断された中で、その光はひときわ鮮やかに映った。iPod から流れる、異国の楽器の音、どこか物寂しげな音楽に、冬獅郎は耳を済ませていた。 窓ガラスには、中学の制服姿の自分が映っている。その首筋に浮かんだ赤い跡を見て、冬獅郎は眉間に皴を寄せた。 ―― 「日番谷ァ、どーしたんだ? お前、首に赤い跡ついてんぞ」 放課後の教室で、クラスメートに言われた言葉を思い出す。冬獅郎はカバンを肩に掛け、さりげなく跡を隠した。 ―― 「ただの虫刺されだよ」 そう何気ない口調で返した冬獅郎は、ふと耳にしてしまったのだ。こそこそっ、と廊下の近くで囁き交わした女子の声を。 ―― 「うわ、虫刺されだって! そういう風にごまかすのって、お約束だよね! 絶対アレ、キスマークだよ」 ―― 「ね、誰が相手だと思う!? あたし、同居してる従姉に一票!!」 ―― 「実は従姉じゃないくて恋人説に十票!!」 聞くんじゃなかった、と泳いだ冬獅郎の目が、周りの友人達とぶつかる。一瞬、言葉に詰まったのが良くなかった。それは……その囁きの内容が、全て図星だったから。 ―― 「オイ! どーいうことだ! おめ、どーいうことだよ!! お前あの金髪のオネーサンはただの従姉だって言っただろ!」 ―― 「説明しろ!」 ―― 「あぁもぅ、うっせえよ!!」 めったにない冬獅郎の大声に、周りはぎょっとして黙り込む。 その隙に、サッと教室を出たのは良かったが……廊下に出た途端、教室全体に響き渡った悲鳴を思い出し、冬獅郎はもう一度、深い深いため息をついた。 明日、どんな顔で学校に行けというのだろう。 これもあれも全部、あの松本が悪ぃんだ。ため息をついた冬獅郎は、もう一度制服の襟を立て直して、その跡を隠した。 今朝のことだった。 冬獅郎は制服のボタンを留めながら玄関に下りると、革靴に足を通した。 「あたしの黒のヒール、出しといて!」 部屋の中からは、バタバタと走る音と一緒に、乱菊の慌てふためいた声が聞こえてくる。 あぁ、と返事を返すと、冬獅郎は靴箱を開けた。乱雑に詰め込まれた靴に顔をしかめながら、目指す靴を出し、玄関に並べる。 「オイ、眉毛片方しかねーぞ」 走ってきた乱菊の顔を見て言うと、うぁ、ともあぁ、ともつかない呻きを漏らして、また洗面所に走っていった。 ―― 全く。これで大企業のOLってんだから…… 世間の評価って言うのもテキトーなもんだ、と冬獅郎は思う。 まもなく、革のスカートと黒いジャケット、白のインナーをまとった乱菊が走り出てきた。 インナーはデコルテがかなり開いており、豊かな胸元がこぼれ出そうだ。 「ありがと!」 玄関の靴に足を入れうつむくと、スカートに深く入ったスリットと、白い太腿が目に入った。 「……」 別に見たくて見たわけじゃない。勝手に視界に飛び込んできただけだ。 しかし、乱菊は急にバッと顔をあげて、立ち上がった。身動きすればぶつかる、狭い玄関の中で、二人の視線がぶつかった。 「シたい」 「はぁっ?」 たじろいた冬獅郎が文句を言うよりも早く、乱菊の柔らかな体が、体当たりでもするかのようにぶつかってきた。 その赤く彩られた爪が、押し返そうとした冬獅郎の手首をまさぐり、押さえつけた。 しっとりと湿った唇が、冬獅郎の唇の上に印でも押すかのように、ゆっくりと押し当てられた。 おい。 冬獅郎は、とっさにリアクションする意欲を失った。今、どちらも遅刻寸前で、慌てて家を出ようとしてただろ。なのに、なんでいきなりこうなるんだ、コイツは。 せめて夜まで待て。そう言おうと口を開くと、間髪いれず、するりと乱菊の舌が忍び込んできた。 言葉を形作ろうとした舌を音を立てて吸われ、冬獅郎が眉間に皴を寄せる。 ―― なんだ……? それは、その時に初めて感じた、違和感。 性急に求めてくるその舌が、唇が、震えている。その震えはあっという間に全身に広がった。 しかし、乱菊自身がそれに気づいていないように見える。怯えているのか、焦っているのか、押しのけて何事もなく終わらせるには、それは切実だった。 「……」 無言の間に、2人の間に息が漏れる。次に喘いでのけぞったのは、乱菊だった。 「……ッ」 その耳朶に近い首元に唇を寄せられ、声を漏らす。 冬獅郎の手が、手首を押さえた乱菊の手を跳ね除けた。そして、わずかに離れた乱菊の細腰に掌を当てると、ぐっと引き寄せる。 もう片方の手が、空いていたドアの鍵を、再び閉めた。 カチリ、と。 玄関に冷たい音が響いた。 いつのまに立場が逆転したのか、乱菊はドアに背中を押し付けられていた。 背中にすれるドアの感触すら、体を熱くさせる。いつの間にかインナーのボタンが外され、その隙間から白い下着が覗いている。 「前から……思ってたんだけどさ。ブラのホック取る速度は大したもんよね」 「うるせえな」 吐息の間に漏らした感想は、ぴしゃりと封じ込められる。 下着と肌の隙間に、冬獅郎の手が入り込んだ。やがて、冬獅郎の手の動きと共に、乱菊の肌が上気し始める。 露になった胸に、冬獅郎が唇を寄せた。ほぅ、と喉をのけぞらせた乱菊が、満足げに息をつく。 「早く終わらせて……学校行かなきゃ、なんて思ってる?」 「当たり前だろ」 「そう簡単にイかないから」 スル、とその手が動き、冬獅郎の首のネクタイを解く。 「そっちこそ。ネクタイを解く速さは大したもんだ」 「ヘラズグチ」 ニコリ、と乱菊が笑うと、シャツのボタンをあきれるほど鮮やかに外した。そして、裸の胸にヒンヤリした掌を這わせる。 「オイ、やめろよ」 眉間に皺を寄せた冬獅郎を見て、乱菊が挑発的な微笑を唇に乗せる。 「男にこんなもんいらないわよね。必要だとすると、カンジるため、くらい?」 ワインレッドに塗られた乱菊の爪が、ぐりっ、とそれを押さえつけた。 「ぅっ……」 初めて冬獅郎が声を漏らす。 「ゾクゾクするわ。その声。大好き……」 首を捕らえた乱菊が、冬獅郎の体を引き寄せ、その耳にキスを落とした。 「ねぇ。好きよ」 「……あぁ」 「あぁじゃなくて。あたしのこと好きならそう言ってよ」 「……」 「いえないの?言ってよ。『愛してる、乱菊』て」 「無理」 「……ちょっと」 乱菊が、体を離しかけた冬獅郎を手招きする。 「いいから。近う寄れ」 「いつのヒトだ、お前は」 そして、身を寄せた冬獅郎の顎のしたあたりに口をつけ、強くキスをした。 「……て!」 淡い痛みが走り、冬獅郎はあわてて逃れるが、もう遅い。 「てめ……跡つけるなってあれほど言ってんだろーが!」 「知らないわよ!!」 「何切れてんだ、急に!!」 「惚れた女を苗字呼び? 好きって言ってって返事が『無理』??」 さっきまでの雰囲気はどこへやら、冬獅郎の襟をつかんで引き寄せた姿は、カツアゲにしか見えない。 「さあ言え!」 「……」 二人の間に沈黙が落ちる。三秒、四秒……乱菊の気は、短い。 「馬鹿野郎!」 男前にもそういい捨てると、服を直しもせず、そのままドアを開けて姿を消した。 もしも廊下をすれ違う人がいれば、間違いなく動揺させるだろう格好のままで。 そのまま、カツ、カツ……と足音が遠ざかってゆく。 室内では、鏡の前で冬獅郎が頭を抱えていた。 襟を立てれば一時的に隠れるが、これじゃ目ざといクラスの女子に、絶対気づかれる。その首には、くっきりとキスマークが浮かんでいた。 めんどくせえ…… どうしても、気づけば頭が今朝のことに戻ってきている。 どうしたって、アイツと俺では、ものの考え方が違う。 俺に足りないのは、誰かに会いたいっていう衝動。 そして、誰かとずっと一緒にいたいっていう、継続した気持ち。 それから、愛してるとか、一緒にいたいとか、会いたいとか、相手に気持ちを伝えるスキル。 これまで、そんなもの必要なかったんだから、仕方ない。 それどころか、「レンアイカンジョウ」なんて、テレビドラマにしか存在しない感情だって本気で思ってたくらいなんだ。 俺にとって他人は、モニターに映っては通り過ぎる、景色と同じだった。 目に見えるし、近づけるけど、決して触れることはない。 ましてや、モニターの向こうの相手に何かを求めるなんて……夢にも考えたりはしない。 そう。今ヘッドフォンを通して見る、人々が無音で通り過ぎる世界のように。 これまでは、そうだったんだ。 俺は、俺のペースを崩したくないんだ。 それでも。 馬鹿野郎。そう言い放ちながら、涙をためたアイツの瞳を思い出す。 言おうとすれば簡単に口に出せる一言を、いつまで経っても言わない俺が憎かったか? まさか、そんなことも言えないくらい臆病者だとは、思っていないんだろうな。 怖いのは、これまでの自分を壊すことか。 それとも、乱菊を失うことか。 その時、もたれかかっていた壁の向こうで、ドアが開くのが見えた。 小さな袋を手に持った男と、その腕にしがみついた女が、同時に出てくるのが見えた。 店を出たところで、小さな袋を渡された女が、満面の笑みを浮かべ、男に何か言っている。 冬獅郎は、その店のショーウィンドウに、幾度目かの視線を走らせた。 煌びやかな照明の下で輝いているのは、色とりどりのアクセサリーだった。 シルバーやゴールドの指輪。冬獅郎には名前も分からない、色とりどりの宝石。 冬獅郎は、無言で腕時計を見下ろした。時刻は、16時45分。待ち合わせの時間には、まだ15分ある。 ふう。 冬獅郎は幾度目かのため息をつくと、iPodの電源を切り、ヘッドフォンを鞄の中に突っ込んだ。 途端に、世界に音が戻ってきた。 十分後。 小さな紙袋を提げて、冬獅郎が店を出てきたその瞬間だった。 「あなたが……日番谷冬獅郎くん?」 女……少女くらいにも思える、まだあどけなさの残る声。思わず声が出そうなほど驚いた冬獅郎だが、動揺をおくびにも出さず、現れた人物を見返した。 「アンタが、綾瀬川が紹介するって言ってた人か?」 待ち合わせは五時に、この辺り。銀髪に碧眼という目立ちすぎる外見のため、いちいち相手の外見までは聞いていなかったのだ。 しかし、男か女かくらいは聞いておけばよかった。冬獅郎はこっそり、襟を立てて首のアザを隠した。 ―― 綾瀬川より何歳も年下か? 黒目がちな、丸い大きな瞳が、まっすぐに冬獅郎を見上げていた。おそらく長い黒髪は、後ろですっきりとまとめられている。 「ええ。綾瀬川さんにノルウェーに詳しい人がいるって聞いて、あたしが紹介を頼んだの」 「あぁ、聞いてる」 冬獅郎がうなずくと、少女はにっこりと微笑んだ。 「あたしの名前は、雛森桃。よろしくね、日番谷くん」 頬にくっきりと笑窪が浮かんだ。
last update:2010年 6月28日