「ちっ……くょー! 何なんだ、このバケモン共は!」
ぜえ、ぜえ、と息を切らして通りを駆けていた一角が、弓親を振り返った。その途端、
「危ねぇ!」
すぐ後ろを走っていた弓親は、一角に乱暴に突き飛ばされる。
文句を言うよりも先に、さっきまで弓親がいた場所を、光玉のようなものが薙いで行く。
アスファルトがまるで豆腐のように割れ、向かいの道路にいた女子高生達が悲鳴をあげた。

とにかく、人気の少ないところに行かなければ。言葉を交わさなくても、一角と弓親の思惑は一致していた。
弓親は、ちらりと背後を振り返る。すぐに、幾体もの仮面の者たちが目に入った。
まるで神前祭のような、象徴的な仮面。しかも彼ら(彼女らかもしれないが)は、走っていなかった。
わずかに、足が宙に浮いているのを見て、弓親は目を疑った。数センチ浮いたまま、滑るような動きで追ってくるのだ。
一角が、息を切らせたまま怒鳴る。
「てめえら! 妙な攻撃しやがって。直接殴りかかって来いや!」
「馬鹿、一角、何考えてんの!」
立ち止まりかけた一角を、勢いのままに蹴飛ばした。
確かに一角はいくつもの武術を極めているが、この異形な者達の前では、それは何の役にも立たないように思えた。
「どうした……反撃しないのか、死神」
まるで、お前達に追いつくのなど簡単なのだと言わんばかりに、するすると距離を詰めてくる。その数、合わせて八体。

―― 「死神」だって?
一度目に聞いた時は、聞き違えたのかと思った。しかし、間違いなく彼らは死神、と口にした。
昨日、冬獅郎のことを「死神」と呼んだ夏梨の言葉が、フラッシュバックする。
あの時は、そんな荒唐無稽な単語は気に留めもしなかったのだが……
まさか。
自分たちが何者なのか、分かっていないのは自分たちの方で、周りは知っているとしたら?
そもそも、自分たちのルーツが「思い込み」で成り立っていたことを、思い知らされたばかりではないか。
世界がぐるり、と回ったような気がして、弓親は思わず目をこすった。

「とにかく、人気のないところへ行くぞ、一角!」
弓親は考えを断ち切り、一角の肩を掴んで駆け出した。とにかく今は、この敵から逃れることが先決だ。
「何だか分からねぇが、人違いだろ!」
仕方ないように駆け出した一角は額の汗をぬぐい、舌打ちする。
「人違い」
弓親も息を弾ませながら、一角に視線を走らせた。
「じゃあ、言ってみるかい? この化物どもに、人違いですって。帰ってくれるかもしれないよ」
「てめーこそ、嫌味いう余裕あんじゃねえか……こっち行くぞ!」

一角が指差したのは、東京の緑地増加計画で作られた、広大な自然公園だった。
こんな雨混じりで、しかも平日となれば、人はそれほど多くないだろう。
人気がないゲートをくぐり、花海棠が両側に咲き乱れる道に駆け込んだ。見渡す限り芝桜が広がり、周囲はぐるりと森に包まれている。
ほっ、と息をついた途端。
「つまらぬ」
背後から声が聞こえた。
「な……」
空気が鳴る音に一角が振り向いた時には、その眼前に鎖鎌が迫っていた。

「ちっ!」
とっさに、顔の前に腕をかざす。そして、その手首に鎖鎌が巻きついた。
「ちょろちょろ逃げおって。反撃する気がないなら、殺す!」
その腰に手をやり、引き抜いたものに……弓親は、思わず一歩引いた。
それは、時代劇で見るような、古風な日本刀。
―― 冗談だろ……?
優雅な曲線を描く刃が、ギラリ、と淡い光に輝く様は、まるで悪い夢のようだ。
仮面に覆われた目の奥は、何を考えているのか全く読み取れない。

「逃げろ弓親! ここは自分で何とかする!」
一角が弓親を見て怒鳴ったとき、弓親の視界の隅で、その化け物が滑らかに地面を動くのが見えた。一角のほうに向かって、刃を振りかぶる。
「一角!!」
「接近戦なら……勝てる!」
弓親は、信じられない思いで一角の横顔を見た。笑って……いる。まるで嬉しくてたまらないように。

「この野郎!!」
鎖鎌を逆に引っ張り、力の限り引き寄せる。
「何!」
バランスを崩した化け物に向かって、一角は獣のような速さで、一直線に駆けた。
「逃がさねえ!」
たわんだ鎖を投げかけ、その胴体をデタラメに絡まったと思った瞬間、一角の膝が、化け物の腹にストレートに食い込んだ。
「ぐっ!」
その体が後ろに吹っ飛び、刃が隣に落ちる。俊敏な動きで立ち上がったが、その体がゆらり、と一度大きく揺れた。

「バケモノだろうが、イキモノだろ。だったら勝てる」
この男が好戦的なのはいつものことだが、ここまで……危険な香りが漂うほどだったか?
弓親は目を見張った。まるで脱皮でもするかのように、この男の中から、別のモノが生まれようとしている。
「……とにかく! もっと奥まで行こう!」
弓親が一角に声をかけ、先に立って走り出す。チッ、と一角も舌打ちをすると、弓親の後を追った。

「どっかで止まるぞ! 俺は戦う!!」
「調子に乗るんじゃないの。八体いるんだよ?」
「逃げるのは苦手なんだよ!」
一角がとっさに言った言葉に、弓親は無意識のうちに頷いていた。逃げるのは苦手。確かに……そうだ。
しかし一角に一発食らった一体も、今は何事もなかったかのように追ってきている。
普通の攻撃で、致命傷に近いダメージを与えるのは、きわめて難しい、と思っていいだろう。
―― どうする?
弓親が考えをめぐらせた時。ふ、と頭の中に滑り込んだ明晰な音声があった。

―― 「弓親。東京で困ったことがあったら、ここに電話しなさい。助けてくれるから」
それは、東京に出てくる前に、母親からかけられた言葉だった。
まさか、こんな状況を想定してはいないでしょうねお母さん。心の中で苦笑いする。
ただ、この記憶も今となればどれだけ正しいのか、心もとないけれど。



「おい弓親! この辺でいいだろ」
一角の声に、弓親は我に返った。
ふわり、と鼻腔をくすぐったのは、花の香り。顔を上げると、見渡す限りの薄紫が目に入った。
ピンクと紫が交じり合ったような花房が、弓親の頭のあたりまで垂れてきている。
こんな状況でなければ、見事な藤棚だ、と見とれていただろう。
その時。ふわり、と柔らかな亜麻色が視界を通り過ぎ、弓親は顔を上げた。
「……あ」
思わず、藤棚を振り仰ぎ……声を漏らしていた。

弓親の見上げた先、藤の曲がりくねった、巨大な枝に腰を下ろしていたのは……一人の若い娘だった。
亜麻色の波打つ髪が風に乗って揺られ、春のやわい光の中で、けぶって見えた。
その髪は、小柄なその娘の膝より下くらいの長さはあるだろう。
深い藍の着物の上に、全身を覆う銀糸の薄布(ショール)をまとっていた。
薄布には、異国を思わせる、精緻な透け模様がかたどられている。
ふわり、と藤の花房を揺らした春風が、薄布を漣のように輝かせた。
花に隠れてよく見えないが、下は黒い袴を履いているらしい。華奢なブーツの足が覗いていた。
肌の色は、透き通るように淡い。

明るい翠(みどり)の双眸が、ひた、と二人のいる辺りに据えられた。
「あ……あなたは」
弓親は、その言葉を押し出すのがやっとだった。
その姿の後ろに、藤の花がかすかに透けているのを見ても、弓親は驚かなかった。
これは……人外のものだ。ヒトにしては、あまりに麗しく見える。
「神々しい」という言葉がこれほどまでに似合う人間が、他にいるとも思えないほどに。

一角も、凍りついたように動きを止めている。ザッ、と2人の背後に、幾つもの足音が響き、弓親と一角は鋭い動きで振り返った。
「おいアンタ、何者か知らねえが、逃げろ!」
少女に背を向けた一角が怒鳴った。ゆらり、と少女の翠の瞳が、化け物たちに流れる。
―― 動揺……してない……?
ちらり、とその瞳を見た弓親は、ちらりとも怯えを見せないその表情に驚いた。


「……これは、驚いたな」
次に言葉を発したのは、化け物たちの一人だった。
刀を下ろし、まるで弓親と一角が目に入らないかのように、ゆったりとした足取りで、少女のところへ向かう。
「『紅(あか)』の姫君ではないか。現世でお目通りかなうとは、夢にも思ってなかったぜ」
仮面に半分隠された口元が、ニヤ、と亀裂のように上がった。
「アンタの綺麗な目には俺たちなんか、獣みてえに見えるんだろうな。汚らわしい破面に貶められる王家の姫。……そそられるぜ」

欲望に満ちた八対の瞳を向けられても、紅の姫、と呼ばれた娘は、軽く小首を傾げただけだった。
その透き通った桜色の唇が、ゆっくりと開かれる。
「けがらわしい人など、いませんわ」
「穢れを知らないって奴か。その綺麗な顔、歪ませてやるよ」
「俺が先だ!!」
我先、と化け物たちが少女に襲い掛かった、その瞬間だった。

ザッ、とその眼前に、2人の男が姿を現す。一角が、振り上げた腕を、そのまま横に払った。
拳で横っ面を張られた化け物が、さすがに倒れこむ。弓親は、全く表情を変えず……化け物の一体の股間を、思い切り蹴り上げた。
「うぉぉ??」
他の六人も動きを止める。一瞬の間隙に、一角の大声が響き渡った。
「寄ってたかって女襲いやがって、それでも男か、てめえら!」
「てめえら、先に片付けてやるよ!」
二人と八人の男たちが、一歩も譲らず、にらみ合う。

「もし。そこの方」
不意に、涼やかな声が、弓親に呼びかけた。
「何でしょう、美しいお嬢さん」
「こんな時でもそれかよ……」
一角がウンザリした声を出したが、聞こえない振りをする。
娘は弓親の声に、ふわり、と微笑んで弓親のほうを見やる。
―― 目が、悪いのか……?
声が聞こえてから視線を動かすそのしぐさは、視力に頼っていない。弓親は思わず、明るく輝く瞳を見返した。
さくらんぼのようにポツリと赤い唇が、ゆっくりと言葉をつむいだ。

「あなたたちの過去は、偽りです」

宣託のように下された言葉。とっさに、弓親も一角も、何も返すことができなかった。
その言葉が、偶然にしては余りにも、二人の今の状況にしっくりと馴染んだからだ。
そうじゃないかと漠然と恐れていた核心を、すぱりと突かれたようなものだった。弓親は、思わず少女の言葉を繰り返した。
「偽り、って……」
「誰かに与えられた過去、という意味です」
「な……にを。一体なんのために」
「人間として、生きてゆくために」
人間? 何を言うのだ。まるで自分達がもともと、人間ではなかったような口ぶりではないか。
少女は、わずかに頬に微笑を乗せながら、続けた。
「危険に陥った時どうすればよいか。記憶には、それもプログラムされているはずですよ」

人の頭は機械ではない、プログラムとは何のことだ? そう言い返そうとした弓親の脳裏に、さきほどの母親の言葉が甦る。
困ったことがあったら連絡しろ。そう言った母親の顔でさえ、思い出すことが出来ないのに。
見せられたメモの電話番号を、まるで一分前に見せられたかのように、確実に覚えているのはなぜなのだ?
―― 「プログラム」されている、とでもいうのか。

「おい、弓親?」
一角の声をよそに、弓親は携帯を取り出し、その電話番号を打ち込んだ。すぐに確かめずにはいられない焦燥が、弓親の感情を支配する。
そして、永遠に続くかと思われた呼び出し音の後……突然音が途絶えた。
一瞬の空白の後。電話の向こうから、声が聞こえた。

「はーい、浦原商店です♪」
「……は?」
そんなところ、聞いたことない。まったく予想外な男の声に、弓親は当惑する。
偶然、かかっただけなのか? 弓親の思いをよそに、男は飄々とした声でしゃべり続ける。
「綾瀬川弓親サン。あなたが最初にここにかけてくると思ってたんですよ。傍には斑目サンもいますね」
「あなたは……誰だ。僕たちの何を知っている?」
「知ってますよ。よーくね。五年以上前のことも」
明らかに口元は笑っているだろう、と思わせる声で、男は続けた。

「そろそろ、記憶の綻びに『気がついてしまう』頃かと思ってたんスよ。アナタたち六人が出会うことが引き金でしたから」
「……何者だ?」
気づけば、冷たい声で問い返していた。
気がついてしまう?
引き金??
六人。というのはやはり、昨日クロサキ医院で出会った者たちのことなのか。
「アタシは浦原喜助。貴方たちの記憶を弄(いじ)くった男ですよ」
「な……」

「弓親、戦わねーなら下がれ!」
ひょう、と振り下ろされた刀を交わし、一角が化け物の腕に取り付いた。
そして、力づくで、その刀を奪い取る。
「てめえら!」
振り回すと同時に、辺りには鮮血が飛び散った。
「一角!」
膝をついた一角に、弓親は携帯を持ったまま走り寄った。

見下ろしたその体には、あちこちに決して浅くはない傷があった。
―― 勝てない、な。
それは、初めから分かっていたことではある。でも、それを自覚した瞬間、自分の中に湧き出してきた、破滅的、とも言える衝動に弓親は戸惑った。
戦いを、欲している。自分たちの血が肉が骨が。どうやら……バケモノを心に飼っていたのは、一角だけではないらしい。
「逃げるのは得意技じゃなかったのかよ?」
「あ?」
化け物の声に、一角は太い眉をひそめた。

「だってそうだろうよ。逃げて、逃げて逃げまくって、現世まで来たんだろ? てめーらは」
何を言ってる? 弓親が聞き返そうとした時だった。
「ちょっと弓親サン、携帯切らないでくださいよ! そしたらおしまいだ」
携帯から漏れてきた声に、弓親は顔をしかめる。
「何を……」
弓親の声は、電話から漏れてきた、浦原の声にかき消される。
―― 経文か?
それは、日本語に聞こえたが早口のため、聞き取れない。
娘が、ぽつん、と呟いた。
「時空が……転送される」
「え?」
二人が振り返った瞬間、周囲が光に包まれた。
そして一瞬の光が晴れた後、そこにはもう誰の姿もなかった。




last update:2010年 6月29日