一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりとしかし確実に。青髪を持つ異形の男は、こちらに向かって歩いてきた。
どうして、そんなことを感じるのかは、分からない。
ただ、全神経が告げていた。この男に勝てる可能性は、万が一にもないと。

「ルキア」
恋次の声は、思いがけなく静かだった。いざというとき、こいつはいつも、こんな風に穏やかな声になる、とルキアは思う。
「走れ。俺が、お前が逃げ切れるくらいの時間は稼いでやる」
「何を言うのだ恋次! 私も!」
「もちろんタダとは言ってねえ!!」
恋次は、一歩ズイ、と踏み出し、ルキアを振り返りもせずに言った。
「もしも俺が戻ったら。また一緒に暮らしてもらうぜ、ルキア」
「……恋次」
ルキアは、恋次の背中を見つめることしかできなかった。
強引で、不器用で、いかにもこの男らしい言葉。でも……こんなときに。こんなふうに。気持ちを伝えられることなんて、望んではいない。

―― 望んではない!
衝動的に言い放とうした言葉は、喉の奥に押し込められる。
この大きな広い背中を、いつもいつも自分よりも前に、見続けてきた気がする。時には仲間として。兄弟として。親しさと……時に、妬みにさえ近い羨望を込めて。
―― 羨望?
ルキアは、そこでふと、考えを止める。一瞬浮かんだ恋次の背中は、闇色の着物をまとっていた。

「恋次」
「まだいんのかよ! 早く行け!」
私たちは。何か、本当に大切なことを、見過ごしているのではないか?


「ほぉ。見事に、タダの人間に化けたみてえだな。霊圧をカケラも感じねえ」
野卑な瞳が、ジロリ、と恋次とルキアに据えられた。
「な……何言ってやがる! 人を人間じゃねえみてえに」
青髪の男は、チッ、と舌打ちすると、唾を地面に吐いた。
「それを説明するほど俺はヒマじゃねー。面倒臭ぇから、殺していくぞ」
そして、腰に差した刀を、無造作に引き抜いた。
「ルキア!」
恋次が叫ぶ。ルキアが凍りついたように動かないのを見て、
「くそっ!」
ルキアを横ざまに抱え上げ、駆け出そうとした。
 

***


背中を、ゾクゾクと寒気が駆け上がる。全力で走らなければならないと分かっているのに、膝の力が抜けそうになる。
これが「殺気」というものなのだろう、と恋次は歯を食いしばった。濡れたアスファルトを、無我夢中で蹴る。
なんとかして、ルキアだけでも逃がさなければ。

「ムダだな」

背後から、青髪の男が呟いた。
「つまらねぇ。反吐がでるほどだ」
振り返った視界の先に、無造作に腰に差した刀を引き抜いた。
そのゆうゆうとした男の仕種が、圧倒的な優位を物語る。ギラリと輝く白刃に、恋次の背中がさあっと冷たくなる。
その切っ先がゆっくりと、恋次に向けられた。一歩男が踏み出そうとした、その時だった。

ひた。
ひた。
悪夢よりも冥く、
死よりも冷たい処から。
その者は、ゆっくりとやって来た。

「何!!」
青髪の男の足が、止まった。

何だ?
ただならぬ気配に、恋次はルキアを抱えたまま振り向いた。
そして、傲慢と野卑をたたえていたグリムジョーの瞳が、驚愕に見開かれていたのに気づく。
その瞳は、恋次とルキアの更に向こうを見据えていた。

「! 恋次」
別人のように掠れたルキアの声が、耳に届いた。

ひた。
ひた。

恋次は、振り返る。
その視界に不意に現れたのは、草履を履いた足だった。草履も足袋も、足を固めた脚絆も全て、闇に染め抜いたような漆黒だった。
闇だ。
光の中にいても、全てを貶めるような闇が歩いてくる。
ひた。
その「人影」の形をした闇が通り過ぎたとき、へた、と恋次は地面に座り込んだ。

―― コイツは、やべぇ……
本能が、そう告げていた。
「だ、誰だ。お前は」
掠れた声が、口をついた。

恋次の横を通り過ぎたのは、手足を手甲脚絆で固めた、単衣に袴姿の男だった。
少年、といっていいほど、まだ年若い。その服装も、髪も、瞳も、全て闇色に閉ざされている。
旅でもしてきたかのように肌は日焼けしており、襟元から除く胸元には、いくつもの古傷が見えた。
野蛮、とさえ言えるその気配は、ヒトのそれというよりも、獣に近い。
「あァ……気にすんな」
その瞳に、ギラリと冥い光がわたった。


「てめぇ、グリムジョー・ジャガージャックだな」
少年は、青髪の男から十メートルほど離れた処で、立ち止まる。
「恵蓮(エレン)が呼ぶから来てみれば、アジューカスじゃねえか。とんだ雑魚つかんじまった」
薄い唇から発せられたのは、少年にしては低い声。

「その漆黒の衣装、古傷……てめえまさか、鉄(くろがね)家の御子か」
相手を見下すような、どうでもいいような、そんな視線を少年は返した。
それが示すのは……是。
少年のこれ以上ないほどに短い反応に、グリムジョーは一瞬の沈黙と狂ったような笑いを返した。
「殺し屋どころじゃねえ、王家の狂戦士(バーサーカー)じゃねえか。まさか、現世でその顔拝めるとはな。死神でも助けに来たのか? 今更」
「あぁ?」
御子(みこ)と呼ばれた少年は、面倒くさそうに、自分を唖然と見つめる恋次とルキアを見返した。

「死神? 五年前、ソウル・ソサエティにいたとかいう奴らか? なんでこんなトコにいるんだ」
五年前。
その言葉に、恋次はゾクリと背筋が冷たくなるのを感じた。この異形のものたちまで、その言葉を口にするのか?

「じゃあ、なんでここに来た?」
「てめえら破面がいるからだろ。お前は殺してゆくぞ」
まるで、ちょっとモノを借りてゆく、という気安さで。漆黒の少年はグリムジョーを見た。
ニヤリ、とグリムジョーが笑みを浮かべる。
「てめえ相手に遠慮はしねえ。一気にいくぜ」
「あぁ」
顔色一つ変えず、少年はグリムジョーを見返す。

「『軋(きし)れ……豹王!!』
そのグリムジョーの叫びと共に、その体が、形を変えてゆく。大きく開かれた口から、牙が何本も突き出した。そして耳は、動物のそれへと姿を変える。
その全身は白い鎧のようなもので覆われ、髪は一気に、全身よりも長く伸びた。
「な……」
ビリビリと空気が振動する。傍にいるだけで鼓膜が破れそうだ。
加えて、突然台風が来たかのような風圧。数メートルの距離にいるルキアと恋次は、耳を押さえて道路に突っ伏すことしか出来なかった。

その隣を、影のように漆黒の姿が通り過ぎた。
「アジューカスにしては強ぇな。もう一息でヴァストローデになるか……」
「おい! お前、素手じゃ……」
ルキアと恋次の前に立った、少年を見て恋次は叫んだ。
「死ね!」
グリムジョーの掌に凶暴な力が集まっていくのが、恋次から見ても分かった。
―― 逃げなければ……
ルキアを連れて立ち上がろうとするが、上半身を起こすことすらままならない。
あのグリムジョーという男から発する力が炸裂したら、どれほどの被害になるのか見当もつかない。
ここは、人通りはあまりないとはいっても、住宅地なのだ。

「王虚の閃光(グラン・レイ・セロ)!!」
勝ち誇った叫びと共に、カッ、と辺りに雷のような閃光が走る。
「うっ!」
とっさに、恋次がルキアの上に覆いかぶさった。
グリムジョーが、振りかざした右の掌を少年に向けた……その刹那。漆黒の闇が、光を裂いてグリムジョーの懐に飛び込んだ!
「な……!」
グリムジョーがのけぞるよりも早く、少年はすばやく、グリムジョーの振りかざした掌を握りこんだ。
少年の掌から腕にかけて、毒々しい漆黒の光に覆われてゆく。激しい衝撃波が、地面に伏した2人にも届いた。


「……なんだ!」
一秒……三秒……五秒。
何も起こらないことに気づいた恋次が、狼狽した表情のまま身を起こした。
それは、さきほどと変わらぬ薄曇。静かな雨が、アスファルトに落ちているだけだった。何も破壊されず、光の片鱗も感じられない。

「どういうことだ」
上半身を起こしたルキアが見たのは、両手をガッチリと合わせたまま対峙する2人の男。
「王虚の閃光(グラン・レイ・セロ)を相殺しやがるとは……」
少年を見下ろし、ギリッ、と歯を食いしばったのは、グリムジョーの方だった。
「『王』なんて言葉、そんな軽々しく技につけるんじゃねえよ」
バシッ、と何かが弾けるような重々しい音が響く。交差した手の真下のアスファルトが、音を立てて割れ、割れ目は見る見る間に広がってゆく。

「……狩らせてもらう」
その少年の言葉に、恋次は冷水を浴びせられたかのようにゾッとした。
あまりにも、その口ぶりが滑らかだったからだ。まるで毎日毎日、言いなれた言葉だとでも言うように。その言葉を聴いた、グリムジョーがニヤリと笑う。
「てめえが死ねや!」
互いに、開いた手を相手に向かって繰り出した……と思ったとき。不意に、辺りが光に包まれた。
「何?」
初めて少年が、感情を含んだ声を発する。その姿がふっ、と閃光のように光ったと思うと、次の瞬間にはその姿が掻き消える。
そして光が晴れた先には、もう誰の姿もなかった。ただ、無人の原野が、雨に濡れているだけだった。



last update:2019年 3月 8日