「お先に失礼します」 乱菊は、足早にエレベーターに乗り込んだ。定時直後に上がることなんて年に数回もなく、エレベーターホールも閑散としている。 1Fへのボタンを押すと、エレベーターの壁に持たれ、降りてゆく階数を見つめる。ふぅー、と自然にため息が漏れた。 そして、ケータイをバッグから取り出すと、何度も見たメッセージを確かめた。 「6時ごろ、外の日本庭園の辺りで待ってる。冬」 必要最低限のそっけないメッセージに、ふふっ、と微笑む。 エレベーターが開くと、カッカツとヒールを鳴らしながら、セキュリティゲートを通って、薄闇に包まれた外へと足を踏み出す。 まるで迷宮のような石の階段を下り、日本庭園へまっすぐに向かった。 ネオンに挟まれた、奥まった場所にある日本庭園は、小さな都会の谷間のようだ。ざっと見渡したところ、まだ冬獅郎は着いてはいないらしい。 入り口の見える場所でタバコをくわえると、ライターでそっと火をつけた。ふっ、と煙を吐くと、一日の疲れが、そのまま煙と一緒に抜けていくように思えた。 ―― 謝らなくちゃ、ね。 愛してるって言えとか。名前で呼べとか。普通の恋人同士だったら、それは別におかしなことじゃないだろう。 でも、冬獅郎は何というか……おそろしく不器用なだけなのだ。 口にされなくても、普段どれほど大切にされているかは、実はよく分かっているはずだったのに。 なぜだかあの時は、衝動的に、その言葉が聞きたくなったのだ。明日じゃ、ダメなのだ。今晩でも、ダメなのだ。今すぐ、確かな言葉がほしいと思った。 あの時全身を覆ったのは恐怖というより、正体も分からぬ焦りだった。 ―― あたしも、まだまだ弱いな。 次にどう顔を合わせようかと思っていたときに、届いた一通のメール。思わずトイレに行ってもう一回まじまじと見るほど、驚いた。 ケンカすれば、自然修復するまでほったらかし、というのが今までの冬獅郎のスタイルだったからだ。 きっと葛藤しただろう、と思う。それでも、彼は一歩踏み出すことを選んだ。彼も少しずつ変わっているのだ。 だから。あたしが謝らなきゃ、と乱菊は思う。気づけば、ひとり微笑んでいた。 雑踏の中で、はしゃぐ女の声が聞こえてくる。 「ねー見て見て、日番谷くん! カモの赤ちゃんがいるよ!」 そう、こんな風に、カワイイ女を演じるのも悪く…… ―― 日番谷ァ?? がば、と乱菊は体を起こした。 そして、それに返した声は間違いもなく…… 「お、ほんとだな。こっち来るぞ!」 「かわいい〜!!」 オイ。 乱菊は、じゅっ、と灰皿でタバコをもみ消した。 そして、大股で日本庭園の、池のほうへと向かった。 池の傍にかがんだ2人は、庭園に足を踏み入れると、すぐに見つかった。 よちよちと池の淵を歩く親子のカモを、並んで見つめる一組の男女。冬獅郎の隣にいたのは、黒髪をお団子にまとめた、高校生くらいの見知らぬ少女だった。 「あ、転んだ!」 「かわいいね〜」 思わず、乱菊が足を止めてしまうほどに。乱菊は、冬獅郎があれほど素直な笑顔を見せるのを、初めて見た。 ……て。待て。 なんでアタシが、足を止めなきゃいけないのよ。 「何を……キャッキャ キャッキャ騒いどんだ、冬獅郎!」 ハッ、と冬獅郎が顔を上げる。 「何だ、松本か」 立ち上がったその表情は、いつもの無表情に戻っていて。乱菊は、ワケの分からない悔しさに襲われた。 「何イラッとしてんだよ?」 「来い!」 有無を言わせず、乱菊は、冬獅郎の襟首をつかんで、庭園の端へと寄った。これじゃ、今朝と一緒だ……と思いながら。 「だ・れ・な・の・よ。そこの女は」 「お前が、綾瀬川からの話取り次いだんだろうが! ノルウェーの話聞きたいから、紹介してくれって」 ああ。乱菊は一人で合点した。そういえば、相手の性別は聞かなかったが、こんな若い女だとは思ってなかったのだ。 「話は終わってたんだが、お前が来るまでヒマだろって言って、いてくれただけだ」 「う……悪かったわよ」 さすがの乱菊も、冬獅郎の襟にかけた手を離した。 その時、じっ、と自分のほうを見つめる視線に気づき、乱菊はパッと振り返る。思いがけず近くにいたのは、さっきの少女だった。 「雛森桃といいます、はじめまして」 「え、えぇ、はじめまして!」 照れ笑いする乱菊を、冬獅郎は睨みつけた。 しかし……二人が間近で話す姿を見て、乱菊は心中首をひねる。 冬獅郎は、人一倍他人と距離を空ける性格のはずなのに。この雛森、と名乗った少女に対しての、この打ち解け振りはいったい、何なのだろう。 「じゃ。あたし帰るね。いろいろ話してくれてありがとう!」 気を利かせたのか雛森がニコリと笑うと、手を振った。 「イヤ、こちらこそ。また……」 「じゃあね、雛森ちゃん! 冬獅郎を見てくれてありがとう!」 「……俺はそんなガキじゃねーぞ……」 冬獅郎がジロリ、と乱菊を見上げる。 「また」の後に言葉をかぶせたのはワザとだ。また会おうなーなんていわれたら、今後が不安。 「じゃ、行こう」 冬獅郎の腕を取って、先に歩き出す。 数歩歩いた冬獅郎が振り返り、空いている方の手を上げた。 「じゃあな」 しかし。振り返った先に、そこに立っているはずの、雛森の姿はなかった。 ―― え? 周囲に視線を走らせるが、どこにもその、可憐な姿はない。 その、刹那。 冬獅郎は、ゾクッ、と背筋を走った寒気に、身を強張らせて、振り返った。 その視線の先。 わずか30センチほどのところに、雛森の姿があった。ピンクのワンピースの代わりに、まとった黒い着物が風に揺れた。 「さよなら」 その桃色の唇から、言葉が漏れる。キラリ、とその腰のあたりで、何かが光ったような気がした。 それが白刃の切っ先だ、と気がついた時には、雛森はすでに一歩踏み出していた。 「ひな……もり」 乾いた唇が、無理やりに言葉を紡いだ。それは、まるでスローモーションのように。紅いしぶきが上がり、雛森と冬獅郎の頬にサッと飛んだ。 「……え?」 そのものの正体を、冬獅郎が気づくよりも早く。冬獅郎の腕をつかんでいた乱菊の力が、急に緩む。 ハッ、と見上げたとき、視界に飛び込んできたのは。乱菊が、肩から血を吹きながら、よろめく光景だった。 「まつ……もと」 とっさに、手を伸ばして、倒れた乱菊の背中を受け止めた。 「あっ……っ!」 ビクン、と体を痙攣させる乱菊を見て……急に冬獅郎は我に返った。 ―― 止まらない……! どくどくと、途切れなく血を見れば、その手の知識のない冬獅郎にも、これが重傷だということは分かる。 「お前っ!! 何を……!」 血が流れ出す傷口に手を当て、冬獅郎は雛森を怒鳴りつけた。漆黒の単衣。漆黒の袴。そして、手にした和風の刀剣。一体、どうやって一瞬で姿を変えた? 雛森の表情には暗い影が落ち、よく見えない。 しかし、その口元が、わずかに「微笑」を形作るのを、冬獅郎は確かに見た。 「きゃぁっ!!」 「何……!」 異変に気づいた人々の間から、悲鳴が上がる。血刀を下げた死覇装姿の雛森は、ゆっくりと冬獅郎と乱菊に歩み寄った。 冬獅郎は、乱菊の肩を抱き、少しずつ雛森から距離をとろうと後ずさった。 ―― ヤバイ…… とにかく、乱菊をここから遠ざけなければ。 「貴方たちは、『私たち』の敵。これ以上生かしておくわけにはいかないの。日番谷くん……乱菊さん」 底の見えない暗い光が、その瞳には宿っていた。 そして、その数瞬後。その建物の一角が、まるで砲弾でも打ち込まれたかのように轟音を立てて崩れ落ちた。
last update:2010年 7月 1日