東京都心、六本木。そこは、突然に崩れ落ちたビルを目にして、恐慌状態に陥っていた。
「なんだ! ガス爆発か! 警察はどうしたんだ!」
「いや違う、テロか?」
ビルの内部から、買い物を楽しんでいた観光客や、オフィスワーカー達が我を失って駆け出してくる。
人々はあっという間に車道にあふれ、道路のあちこち、立ち往生した車のクラクションが響き渡った。

「どうなってんだ、こりゃ……」
前に進めず、やむを得ずブレーキを踏んだ車の運転席から、男がビルを見上げた。
昨日見た平和なビルの景色は、もはやどこにもなかった。その中層階から吹き出した炎は、まるで血のように赤い。黒い煙が、ビルを覆い隠そうとしていた。

その時、男の視界を、車の間を縫うように走ってきたバイクがさえぎる。ヘルメットもかぶらないその姿に、男の視線は奪われる。
黒く長い髪が爆風にはためいた。中学生か高校生か、なんにしろまだ少女だ。
少女は唇を噛んでビルを見上げると、その場でバイクを乗り捨て、ビルに向かって駆け出そうとした。

「おい、君! そっちは……」
止めようとした男は、少女が手に持った長い棒のようなものに目を留め、ぎょっとして言葉をとぎらせた。
―― あれは、日本刀?
身長の半分はある、古めかしい長刀の鞘を握り、少女……黒崎夏梨は、まっすぐにビルに向かって駆けた。
ここまで来たら、もうはっきりと感じる。あの、懐かしい霊圧を。


***


「冬獅郎……!」
刀をぐっと握り締めた夏梨は、その時初めて刀の異変に気づいた。
「何だ……なんで光ってるんだ?」
その刀は、今や発光しているように見えるほどはっきりと、青白い光に包まれていた。
ビリ……と、鞘を握っている夏梨の手が、電流が走ったかのように痺れた。まるで、生き返ろうともがいているように。
―― この刀を御せるのは、冬獅郎しかいねえ。
それまで、この刀を取り落とすわけにはいかない。夏梨は息を弾ませ、崩れたビルの中に足を踏み入れた。

 

「破道の三十三、赤火砲!」
雛森の声が、轟音の間を縫うように響いた。その声と同時に、何もないはずの空間から炎が噴出す。
全ての電気が消えた薄暗いビルの中を、その紅蓮が赤々と照らし出した。その炎は、イキモノのように、壁の向こうに潜んだ冬獅郎と、その腕で気を失った乱菊に向かう。

「くそっ……」
とっさに体勢を低めて、冬獅郎をその炎の一撃をかわす。
スッ、と華奢な指先が、その冬獅郎の頭を指差した。それに答えるように、炎の向きが、下にいる冬獅郎へと変わる。
「……っ!」
無意識に顔の前にかざした腕に、炎が絡みついた。
ダン!
制服のジャケットを脱ぎ捨てると同時に、腕に燃え広がろうとした炎を、腕を壁に叩きつけることでかき消す。

「……その技を、紙一重でかわしてもムダよ」
ぜぇ、ぜぇ、と廊下にこだまする冬獅郎の息に重なるように、あどけない声が聞こえた。
ぎり、と冬獅郎は歯を食いしばった。力を失った乱菊の体を、両腕で抱えなおす。
その肩から流れる血は、少しは止まりかけていたが、それでも乱菊の全身は、多すぎる出血のため青白く見えた。これほど揺さぶられても、ピクリとも動かない。

崩れた壁のカケラを、草履の足が踏みつける。ゆっくりと現れたのは、漆黒の着物に身を包んだ、雛森桃。
「忘れちゃったのね、日番谷くん。私があなたに教えた技なのに」
その口元に浮かんでいたのは、淡い微笑み。それは、たった30分前に、微笑んで日本庭園のカモを見ていたときの表情と、変わらない。
その表情を見返した冬獅郎の背中が、ゾクゾクと粟立った。
この女は、俺たちを殺す。この笑顔のままで。それが、その時はっきりと自覚できたからだ。

「……何言ってんだ、てめぇ! 俺はてめぇなんか知らねぇぞ!」
冬獅郎の叫びに、雛森は、その微笑を深くしただけだった。
そして、鞘に収めていた日本刀を、スラリと抜き放った。2人の距離が、10メートル、8メートル、5メートル……どんどん、近づいてゆく。
柄を握るその指先が、力がこもるにつれて白くなるところまで、はっきりと見えた。
―― なんだ?
直接斬りかかるには、まだ遠い、その距離。
その桜色の唇が、開いた。
「弾け。『飛梅(とびうめ)』」
その言葉に呼応するように、何もないはずの空中から、大人の頭ほどの大きさの火の玉がいくつも現れた。
―― まずい!
冬獅郎は、とっさにぎゅっ、と乱菊の体を抱きしめた。その姿を捉えた雛森の瞳から、笑みが消えた。容赦のない火球は、冬獅郎でなく、冬獅郎のすぐ上の、天井を狙った。

激しい音と共に、鉄の溶けるなんとも言えない悪臭が、周囲にただよった。天井が一気に崩れ落ち、冬獅郎たちのいた所にも、落ちてゆく。
「……来る」
雛森は、天井にあいた穴から、露になった空を見上げた。そして、その空に黒点のように浮かぶ姿に、かすかに大きな目をしかめた。
その黒い点は見る見る間に大きくなり、仮面をかぶった人間……いや、破面の姿を形作ろうとしていた。

 

「……うっ」
全身が、自分のものじゃないように動かない。
痛いというよりも、熱い。冬獅郎は、自分たちに覆いかぶさった瓦礫の中から、何とか身を起こした。
乱菊の体の上にかかった瓦礫を払おうとした瞬間……こみ上げてきた熱いものに、冬獅郎は思わず前かがみになる。
「が……がはっ……」
床に吐き出したものの紅さに、目がくらみそうになる。肩口に焼けるような痛みを感じ、そちらに目をやって愕然と目を見開いた。
右肩の、首に近い場所。そこに、30センチはあるガラスの破片が突き立っていた。瓦礫を払おうとした腕が、だらん、と下に垂れる。
「あ……」
ガラスが、見る見る間に赤に染まってゆく。
死ぬ、殺される。悲鳴が、押し殺していた喉の奥からこみ上げてきた。
「……うぅ……」
混乱しかけた冬獅郎の意識を引き戻したのは、乱菊の声だった。

苦しげに眉根に皴を寄せる姿をみて、冬獅郎は口を押さえ、悲鳴をかみ殺した。
こいつに、俺の悲鳴を聞かせるわけにはいかない。単なる意地にすぎないとしても。
―― こいつだけでも……
乱菊を床にそっと寝かせ、冬獅郎は顔を起こした。

とにかく、この場から離れなければ。
あの女は、俺を狙ってる。俺がこの場から離れれば、乱菊の助かる可能性は高くなる。
「……!」
歯を食いしばり、ガラス片を引き抜いた。バシャッ、と地面にはじけた血の上に掌をつき、冬獅郎はよろめきながらも立ち上がった。

「あたしたちの味方になるなら、あなただけは、助けてあげるわ」
ざっ、ざっ、と雛森が足音と共に、冬獅郎の元に一歩ずつ、歩み寄る。
「松本は?」
その問いに、雛森は答えない。かわりに、その唇がほころぶ。

「あたしと一緒に来る? 日番谷くん」
瞬きもしない翡翠の瞳が、雛森の漆黒の瞳を射通すかのように向けられた。
このままでは、ほぼ確実に自分は殺される。そしてその後に、乱菊は殺されてしまうだろう。
どうせ殺されるなら、自分ひとりだけでも生き延びたほうが理にかなっている……でも、「それでは意味がないのだ」。

「断る」

雛森から目を逸らさないまま、冬獅郎はきっぱりと言い放った。
小賢しく独りで生き残るくらいなら、無様に二人で死にたい。
―― 俺は、こんな風に考える人間だっただろうか……
それは、自分自身でも意外なほどの、熱情。これほどに、この女を愛しているとは、知らなかったくらいに。

雛森は、そんな冬獅郎の心の動きを追うかのように、静かに冬獅郎を見守っていた。
「そうよね。あなたは、そう言うわよね。……変わらないね、日番谷くん」
「てめえに、俺の何が分かる」
「……そうね。あたし達の道はもう二度と交差しない。出会うことはない」
冬獅郎の燃えるような瞳を見返し、雛森はその時わずかに、口元をゆがめた。

そのときには、冬獅郎も、上空に現れた人影に気づいていた。
―― なんだ、こいつら……
体や顔のどこかに、仮面のようなものをつけた者たちが、こちらに向かってこようとしている。
それだけじゃない。異形のモノたちが、空座町の上空にあちこちに出現している。なぜか、その気配だけは分かった。

「……待ってください、藍染隊長」

雛森はスッ、と目を閉じてつぶやいた。
「藍染」。その名前に、こちらに来ようとしていた破面たちが動きを止める。
「……アイゼン?」
感情の抜けた声で、冬獅郎がその名を呟く。藍染、ともう一度繰り返した。
それが誰なのかわからないのに、ざわり、と胸の奥が毛羽立つような思いに囚われる。そんな日番谷を、雛森は眦を決して見返した。
「日番谷冬獅郎は、私がこの手で……殺しますから」
雛森が手にした刃が、輝きを放つ。静かに目を見開いた雛森の双眸に、光が渡った。


ダン!
その時、地面に響いた足音に、雛森と冬獅郎ははじけるように振り返った。
「冬獅郎!!」
フロア全体に、響き渡った、その声。
「お前は……!」
冬獅郎が肩を抑えて、振り返る。
「バカ野郎! お前、なんでこんなトコに……」

冬獅郎の視界の先にいたのは、クロサキ医院で出会った少女……黒崎夏梨だった。
汗で長い髪は首に張り付き、顔は煙で黒く汚れている。夏梨はためらわず瓦礫の山を越えてこちらに来ようとしたが、ハッと足を止める。
エスカレーターがあった部分は無残に崩れ落ち、2人の間に5メートルはある隙間を作っていた。
「くそっ……冬獅郎!」
歯噛みした夏梨は、手にしたものを冬獅郎に差し出した。

「それは……!」
雛森が目を見開く。青白い光がまとわりついた、その刀は。
「受け取れ!」
夏梨は、氷輪丸を冬獅郎に向かって投げつけた。

 

心がためらうよりも早く。その腕が、氷輪丸の柄を受け止めた。それと同時に、恐ろしいまでの力が、自分の中を吹き荒れた。
―― なんだ?
ガクン、と冬獅郎の体が前かがみになる。

「冬獅郎! オイ、大丈夫か!」
夏梨、とかいう女の声が聞こえる。自分の中に暴力的なまでの力であふれる何かを、押さえつけようとするものがあるんだ。
まるで、蘇ろうとするものを押さえつけるように。
―― 封魂術か?
そう思った直後、自分の答えに自分で驚いた。そんな言葉知らないはずなのに。

混沌とした冬獅郎の脳裏をはしったのは、光に満ちたノルウェーだった。
その中で微笑む父母。
風のように過ぎた、幼い頃の淡い日々。
―― いかないで……
さし伸ばされた手は、父か、母か。

「嘘だ」

全てを断ち切るように。冬獅郎は言い放った。
嘘だ嘘だ。
そんな平和な風景なんて、俺の過去のどこにもなかった!
「邪魔だ―――!!!」
叫ぶと同時に。その風景にピシッ、とひびが入り、あっという間に霧散してゆく。冷たくしかし熱い、あの懐かしい霊圧が、冬獅郎を取り巻いた。

 
***


「次から次へと、わいてくるものですね……破面。このままじゃ、空座町全体が襲われますよ。五年前のように」
浦原が地下から、上空を見つめてつぶやいた。
「護る」
それに対する、一護の言葉は短かった。
「アイツと約束したんだ。こいつらを、絶対に護り抜くと」

そして、気を失ったままの四人を見下ろして……ぴたり、と動きを止めた。
「こ……これは!」
浦原が手にしていた四本の刀が、突然暴力的な光を放ったのだ。
「なんだ、こりゃ!」
狼狽した一護とは逆に、浦原は、ひとつ、大きくうなずいた。
「選んだ……って、ワケですね。日番谷サン。こんな霊圧ぶつけられたら、封印なんてひとたまりも無いっスよ」

―― この霊圧は!
一護は、その風圧に顔の前に腕をやりながら、刀を見つめた。そこから放たれたのは、間違えようもない、あの四人の霊圧……

突然、伸ばされた太い腕が、浦原の腕から刀を一本、奪い取った。

「退屈すぎて死にそうだったぜ」
ばさっ、と黒い袖がゆれる。
「すっかり忘れてたくせに」
わずかに笑いを含んだ声と同時に、もう一本の刀が、奪い取られる。
「みんな立場は同じでしょ、一角さん、弓親さん」
ひときわ大きな長刀に手を伸ばしたのは、赤髪の男。漆黒の影のように、その大柄の姿が躍動する。

「……あ……」
一護は、突っ立ったまま、その四人を、見返すことしかできなかった。

「……私が最後か」
浦原から刀を手渡されたのは、死覇装に身を包んだ、小柄な女死神。
動くのを忘れたかのように棒立ちになっている一護を、見上げた。
感情のこもった大きな瞳が、まっすぐに向けられる。その唇が、かすかに動いた。

―― すまぬ。

顔を伏せると、一護に大股で歩み寄り……ぽん、とその二の腕の辺りを叩いた。
「何を、泣きそうな顔をしているのだ。一護」
黒い大きな瞳。
自信に満ちた、微笑み。
全く、変わっていない。

「……ルキア」
一護は一瞬、空を仰いだ。
死覇装の袖で、ぐいっと目の辺りをぬぐう。
「行くぜ」
自分を見返すルキア、恋次、一角、弓親の4人の目を見つめた瞳には、張りが戻っていた。

 
***


「……霜天に座せ。『氷輪丸』」
静かな声が、炎の吹き荒れる地におちた。

途端に、青白い光が当たりにはじけ、炎がたちまち凍りついてゆく。圧倒的な霊圧が、その場を静かに制圧してゆく。ためらいのない指が、氷輪丸の柄を握り締めた。
漆黒の死覇装が、爆風にあおられる。同時にはためいたのは、純白の羽織だった。その背に刻まれた、「十」の文字。

翡翠の、混じりけのない強い瞳が、放たれた矢のように雛森を射すくめた。
「まだ、記憶は戻っていないようね。……ちょうどいいけれど」
先に、目を逸らしたのは雛森だった。
―― 何を言っている……
過去のことも、未来のことも考えられない。ただ感じるのは、掌を通じて刀から流れ込んでくる、圧倒的な力の塊。
「三度目ね。あなたと刃を交わすのは」
雛森、という女がつぶやき……斬魂刀の切っ先を冬獅郎に向けた。

―― HINAMORI……

ふと頭をよぎったのは、数日前に買ったあの本で、目についた名前。
何か、取り返しのつかないことを、している気がした。
でも……
冬獅郎は、後ろに横たわる、血まみれの乱菊の姿を振り返った。怒りが、いったん生まれた迷いを吹き散らしてゆく。

「松本を傷つける奴は、許さねぇ」
抜き放った氷輪丸の刃先を、冬獅郎はまっすぐに雛森に向けた。
「てめぇは殺す。雛森桃」



last update:2010年 7月 3日