「こりゃ、すげえな」 一護は、浦原商店の傍の電信柱の上に飛び乗り、周囲を見渡した。 ざっと一瞥しただけで、何十体もの破面や虚が視界に映る。目を閉じれば、何十キロもの範囲に渡り、破面が転々としている気配を感じる。 「寝てんじゃねーぞ、一護ォ!」 張りのある大声に目を開けた瞬間、前を唐突に通り過ぎた影に、一護は思わず手を伸ばす。 「ダメだ、一角! まだアンタ戻ったばっかりなんだ、調子が……」 「延びろ、鬼灯丸!」 一護が言い終わるよりも早く、手にした斬魂刀が、槍にその姿を変えた。 「調子……」 「死ねや、コラァ!!」 一番手近にいた虚を、全く反撃のそぶりすら見せず突き通す。霊圧がはじけ、虚はくぐもった悲鳴と共に消失した。 「あ? なんか言ったか、一護?」 「……なんでもねー」 そうだ。 十一番隊は、他のどの隊よりも戦い好きの死神の集まりだった。二度と引き出されるまいと思っていた、そんな記憶に、一護は一人微笑む。 「笑ってるとは余裕だね、一護君」 ふわり、と一護の隣に飛び降りたのは、弓親だった。 「アンタら、もう全部思い出してるのか?」 一角よりも話が通じそうだ。斬魂刀を構えながら、一護が弓親に問いかける。 「イヤ? 過去のことなんて考えてないよ、僕は。別に興味もないね」 弓親は、斬魂刀を引き抜き、破面たちを見据える。ぽぅ、とその斬魂刀が輝きを放ち始めた。 「ただ、この姿のほうが本能に忠実だってことだけだよ、今分かるのは」 あまり、一角と変わらなかった。フッ、と弓親が瞬歩で姿を消すのを見やり、一護は思った。 その攻撃に、破面たちが総崩れになるのは時間はかからなかった。 「逃がさないよ! 追い詰めて、追い詰めて、もっと醜い顔を見せておくれ」 ―― 趣味悪ぃな…… 五年たっても、全く戦闘力も性格も変わっていない。むしろ、五年間普通の人間と混じって、暮らせてきたほうが不思議になってくるくらいだ。 「ま、腕鳴らしにはちょうどいいか」 浦原商店の屋根に立った恋次が、辺りを見渡す。隣にはルキアが立っていた。 「てめーらまで急に、笑顔で破面に斬りかかるのか?」 「ま、聞きたいことは山ほどあるぜ」 恋次は、屋根の上に飛び移ってきた一護を、チラリと一瞥して言った。 「お前、なんだその古傷は? 五年前にはなかったはずだぜ」 確かに、死覇装から覗いた首といわず、腕といわず、胸元といわず。一護の体のあちこちに、決して浅いとはいえない古傷が見えた。 「戦い続けていたのか? ……たった一人で」 一護を見上げるルキアの大きな瞳が、揺れている。一護は、それを見下ろして……微笑んだ。 「いーんだよ、もう」 たった一人でも、この6人を、何が何でも護り抜くと思っていた。同じ力を持つものが、隣に立ってくれる感覚すら、もう遠いものになっていた。 「……話は後だ。行くぜ」 「おう」 一護と恋次は、同時に斬魂刀を襲い来る破面たちに向けた。 「斬月!」 「吼えろ、蛇尾丸!!」 二人の声が、夕闇の迫り始めた空に響き渡った。 ―― 虚や破面が一掃されるのも、時間の問題だな。 冷静に戦いを見守っていたルキアは、内心つぶやくと、タン……と屋根を蹴り、近くの電波塔に飛び移った。 ほんの30分前まで、自分にそんな跳躍力があるなんて、夢にも思わなかったのだから妙だ。 記憶は、まるで点のように心もとない。 全てが断片で、全体像が見えてこない。 ただ、自分達が死神だったこと。そして、破面と呼ばれる敵と戦っていたことだけが、薄ボンヤリと思い出される。 ―― 日番谷隊長と、松本副隊長はどこだ……? ルキアが気にしていたのは、その二人だった。 二人の記憶が戻っているのかいないのか、それは分からない。しかし、この騒動に巻き込まれ、破面に襲われている可能性は十分にある。 本来の二人なら全く問題ないだろうが、力が戻っていないなら話は別だ。 ―― 霊圧が、うまく探れない…… そうそう、全てが直ぐに戻るわけではないらしい。 しかし…… ビクッ、とルキアは目を見開く。 自分と同質の、氷雪系。しかし、自分よりとんでもなく強い力が、爆発的に高まるのを感じたからだ。 「日番谷隊長……!」 思わず、届くはずのない名を呼ぶ。その霊圧は、自分たちのいる場所からは、かなり遠い。それでも、明確に居場所を告げるほどに、その力は強かった。 ルキアがその方角を見つめた瞬間。突然空がまばゆい光に照らされた。 それは、ほんの一瞬。 「雷……?」 ルキアが顔を上げたその頬に、パラリ、と何かが当たった。 「雹(ひょう)? こんな季節に」 それは、小指の先くらいはある、大きな雹だった。 茜色の空に、恐ろしい勢いで、黒く巨大な雲が集まりつつある。パシッ、と乾いた音を立て、雲間に稲妻が走る。 「なんだぁ?」 一角が、戦いの手を止めて、上空を見上げた。一護がその隣で、つぶやく。 「……冬獅郎が、怒ってる」 冬獅郎の持つ斬魂刀は、氷雪系最強と呼ばれる氷輪丸。 その力は天候さえも支配し、雪雲を呼び雷雲を発生させることもある。そして、今ヒシヒシと肌に感じるのは、凍てつくような激怒だった。 「日番谷隊長は、敵と戦っている!」 ルキアが、4人を見上げて叫んだ。 「破面かよ!」 「待て……この霊圧は」 破面では……ない。 この霊圧を、自分はよく知っている、はずだ。その時、ルキアの脳裏に浮かんできた、はるか昔の風景があった。 ―― 「ねぇシロちゃん、待ってよ!」 ―― 「だから。俺はもう隊長だっつってんだろ! 隊長って呼べ、隊長って!」 ―― 「イヤよ」 ―― 「何でだよ?」 ―― 「だって、何だか遠くなっちゃうみたいなんだもん。シロちゃんはあたしの大切な人なのに」 ―― 「でかい声で何言ってんだ、お前は」 振り返った冬獅郎が、思いがけないほど穏やかな笑顔だったから、よく覚えていた。 冬獅郎にとっても大切なひとなのだと、一目で分かるほどに。 「……日番谷隊長……貴方は、一体なにを」 届くはずのない距離。しかしルキアは、つぶやかずにはいられなかった。 なぜ、あのふたりが刀を交わしているのだ? 大事な人……なのでは、なかったのか。 「一護! 皆! 日番谷隊長のところへ行くぞ!」 気がつけば、ルキアはそう叫んでいた。 *** 夏梨は、瓦礫の山をどうにか乗り越え、地面に横たえられた乱菊の傍に駆けよった。 「大丈夫かよ?」 声をかけるが、 「うぅ……」 乱菊は、呻き声を漏らすのみで、目を開けない。 「大丈夫だ、絶対助かるから……!」 懐からハンカチと消毒液を取り出すと、手早く応急処置をする。サッカーという生傷の絶えないスポーツをしているだけに、道具を持ち歩いていたことに感謝した。 ただこの傷では、病院に一刻も早く連れて行かなければいけないのは明らかだ。だが、夏梨の体格では、とても乱菊を抱えて、瓦礫の中を降りてゆくことなどできない。 「冬獅郎……!」 夏梨は、冬獅郎と、黒衣の女が消えていった西塔の方角を見やった。 「……っ……」 思わず、空いている左手で、右の二の腕を押さえた。夏梨のように霊圧の敏感な者には耐えられないほどの霊圧が、そこからは放出されていたからだ。 「早く、しねえと……」 夏梨は唇を噛み、今や分厚い雲に覆われた空を見上げた。辺りは、漆黒の闇に覆われ始めていた。 「破道の六十三! 双蓮蒼火墜!」 雛森が、両掌を冬獅郎に向け、凛とした声を放つ。その両手から、蒼い炎が吐き出され、その場が明るく照らし出された。 片手で放つ蒼火墜と違い、数十メートルにも及ぶ圧倒的な質量の炎が、一瞬にして生まれる。それは、西塔の一角に炸裂し、その一角を燃え上がらせた。 「もう一発!」 息を切らせながらも、間髪いれず、同じ場所に術を放つ。 双蓮蒼火墜は、その威力の分、消費する霊圧も桁違いに大きい。雛森の代で、双蓮蒼火墜を二連発できたのは、鬼道の達人と呼ばれた彼女だけだった。 しかし。 それに応じたのは、地響きのような低い叫びだった。 「―― なに?」 向かい合った雛森の腕に、ヒヤリとした空気が届いた……と思った途端、ピキピキと音を立て、腕が凍りだす。 「くっ!」 雛森はすばやく飛び下がる。 その時。 上空を走った稲妻が、辺りの風景を照らし出した。 「……」 それを目にした雛森は、言葉をなくして、その場に立ち尽くした。 双蓮蒼火墜により放たれた炎は、炎の形のまま、その場に凍りついていた。 そして、その先の上空で白銀に輝いていたのは、身の丈20メートルに迫る、巨大な氷龍だった。 生き物のようにとぐろを巻き、紅い瞳が、まっすぐに雛森を睨みつけている。 「……氷輪丸」 雛森は、かすれた声でつぶやいた。 氷雪系最強の斬魂刀の化身。かれの前には、鬼道など問題にならない。 間断なくとどろく雷、そして閃光。その閃きが、竜の頭の部分に片膝をつき、こちらを見下ろす死神を露にした。 ―― 日番谷冬獅郎。 普段は落ち着いた翡翠色の瞳が激情に駆られるとき、明るい蒼に彩(いろ)を変える。 片手に刀を携え、爛々と輝く瞳で自分を見下ろす冬獅郎の姿は、まさに命を狩る「死神」のものだった。 冬獅郎の力は、熟知していたつもりだ。 しかし…… 「これまで貴方が私に剣を向けたのは……本当に、本気じゃなかったのね」 かすかに、雛森は苦い微笑を浮かべた。 冬獅郎が、無言でその長刀の切っ先を、天に向けた。 ―― 氷雪系の技か! 雛森の得意技は炎熱系。敵対する上には、申し分の無い相性だった。 雛森が炎の鬼道の詠唱を始めようとしたとき。間髪いれず、冬獅郎の凛とした声が響いた。 「雷吼砲!!」 しまった! 雛森の背に、ゾクッと戦慄が走る。雷は炎の属性。雛森が放とうとしていた、炎熱系の術では対抗できない。 直後、天で明滅していた雷が、一気に雛森めがけて殺到した。 「な……!」 乱菊の肩を抱え、西塔を見つめていた夏梨が、声を上げて身を乗り出す。 天から降り注いだ巨大な稲妻が、西塔を直撃し……ボロ屑のように、西塔が粉々に吹っ飛び、崩れ落ちるのを目の当たりにしたからだ。 「冬獅郎!!」 叫ぶ夏梨の腕の中で、乱菊が、うすく目を開いた。 「とうし……ろう……?」 かすかな、その声に気づかず、夏梨は西塔があったところを凝視していた。 その視線の先には、巨大な氷の龍が出現していた。 龍の頭の部分に、人影が見える。あれが冬獅郎なのは間違いない。 龍はゆっくりと頭を下に垂れ、冬獅郎が影のように、その頭から滑り降りた。 ゆっくりとした足取りで瓦礫を乗り越え、歩みを進める。その先の岩場に、背中をもたせ掛けた小さな人影を見て、夏梨は口の中で叫びを漏らした。 ―― 殺すのかよ…… 殺さなければ、殺される。そんな世界に縁がなかった夏梨だが、それくらいのことは分かる。 でも…… 夏梨は、唇をかみ締める。 冬獅郎と戦っていたのは、どこにでもいるような、あどけなさを残した少女だったはずだ。 芯からの悪人なんていないのかもしれない。でも、殺さなければならないほどの者とは、どうしても思えなかった。 本当に、こんなことが正しいのか? 視線を落とした夏梨は、その時ようやく、自分の腕で身じろぎした乱菊に気づいた。 二人の目が、至近距離で合う。 「あ……あんた」 夏梨は、かすれた声でつぶやいた。 *** 「み……ごとな、ものね。自然の雷の力を利用するなんて」 雛森は、かすれた声でつぶやいた。投げ出された脚が、自分の体じゃないみたいに、動かない。 立ち上がったところで勝ち目がないことは、もう分かっていた。もうもうと上がった煙の中から、ゆっくりと、死神の姿が現れるのを、雛森は黙って見上げた。 五年前は背中に担いでいた氷輪丸を、今は腰に差している。そして、身長が雛森を大きく越えている以外は、変わらない姿だった。 怒りに燃えていたその瞳には、今は穏やかな翡翠が戻ってきている。 「今度はこちらが質問する番だな、雛森桃」 その落ち着いた声に含まれるのは、隊長として死神の頂点に立ってきた者の、絶対の威厳。一分の隙もない冷たい瞳が、雛森に向けられた。 「投降するか? それとも死ぬか。選べ」 雛森は、その言葉にしばし、言葉を失ったように沈黙した。そして。地面に投げ出されていた飛梅の柄を、血がにじむ手で握り締める。 「あたしを生かしておけば、何度でも狙うわよ。それがあたしの役割だから」 それに対し、冬獅郎はわずかに、怪訝そうに眉をひそめた。 「なぜ挑発する? 死にたいのか」 「……死にたい……?」 雛森は、投げかけられた言葉を、咀嚼(そしゃく)するように反芻した。 「死なねば、終わらない道よ」 眦を決し、雛森は冬獅郎を見返した。 飛梅の柄を両手で握り、ありったけの霊圧を込める。 「……そうか」 冬獅郎はしばらくの沈黙の後、そうつぶやいた。 「記憶は、まだ戻らないの?」 雛森の問いに、日番谷は怪訝そうに眉を顰めただけだった。この朦朧とした霧はいつかは晴れそうな気がするが、今はまだその時じゃない。 「……そう。じゃ、覚えておくといいわ」 雛森の声は、穏やかにすら聞こえた。 「『貴方のせいじゃない』ということを」 *** 乱菊の耳には大丈夫か、という声が届いたが、なんだか遠くに聞こえた。体がとてつもなく重くて、ピクリとも動かせない。 ―― 冬獅郎は…… 頭の中が朦朧としているが、それだけが気になった。 「とうし……ろうは?」 「アイツはあっちだ!」 自分を見下ろしていたのは、クロサキ医院にいた、少女だった。綺麗な顔を泥と炭で汚し、眉間には泣きそうなほど、深い皺を寄せている。 乱菊が動けないのを見て、その首を、崩れた西塔の方へ向けさせた。 ―― なに……をしてるの? とうしろう…… 意識が、ゆれる。ゆらめく景色の中で、銀色の髪が見えた。 ―― なんで、そんな格好……してるの? 漆黒の死覇装が、風にはためいている。手にした白刃がギラリと輝く。一陣の強い風が吹き抜け、乱菊が凝視する先で、羽織がはためいた。 ―― 十。 背中に黒々と染め抜かれた、その数字。かすんだ乱菊の目には、十字架を背負っているように見えた。 「……まだよ!」 その時、風に乗り、かすかな女の声が乱菊のところにまで届いた。お団子にしていた黒い髪はほどけ、腰まで波打っている。 ―― あれは、あたしを斬った女…… いや、違うのか? 判然としない。 あの女と会うのは初めてではない……それどころか、あの輪郭、あの瞳、あの声……自分の脳裏にしっかりと刻み込まれている。 ―― 「ホント、信じられないわ。あのシロちゃんが偉くなっちゃって」 あどけない声がよみがえる。無邪気な笑顔が、銀髪の少年を、見下ろしている。 ―― 「もうお前より偉いんだ。俺は××だからな」 ニッと笑って、女を見上げたのは、今よりもずっと子供の、冬獅郎。 ―― あたしは、何を考えてる? 突然舞い込んできた脈絡の無いイメージに、乱菊は戸惑う。 視線の先では、女が手にした刃が赤い光芒を帯び、冬獅郎に斬りかかった。 冬獅郎は慌てたそぶりも見せず、その一撃をかわすと、逆に一歩踏み込んだ。そして、氷輪丸の切っ先を雛森の喉下に突きつけた。 「……っ!」 夏梨が、目を硬くつぶり、体を強張らせた。 ―― 「だから」 乱菊の記憶の中の冬獅郎は、少しためらいがちに目を落とした後、急に睨みつけるように、女を見た。 ―― 「これからは、俺がお前を護るんだからな、雛森!」 「ち……がう」 気づけば、乱菊はそうつぶやいていた。 なにか、とんでもない間違いが、起ころうとしている。 どくん、と胸が高鳴る。 「た……」 その唇が、言葉を形作ろうとするが、うまく出てこない。冬獅郎の声が、その場に鋭く響き渡った。 「死ね! 雛森!!」 ―― ひ・な・も・り。 「隊長っ!! ダメですっ!!」 ダン、と手を地面に着き、身を乗り出して。乱菊は、声の限りに絶叫した。
last update:2019年 3月 8日