稲妻のような勢いで、冬獅郎は振り向いた。 崩れかけた本館から自分を見つめる、蜂蜜色の髪の女と視線が絡み合う。 「……まつ、もと」 唐突にまどろみから叩き起こされたかのように、醒めきらない声がその唇から漏れた。 「冬獅郎! あんた……」 半信半疑の表情で、夏梨が問いかける。冬獅郎は横たわる乱菊から、彼女を抱えた少女に視線を移して、一度目をしばたかせた。 「……あたしが分かるか?」 「夏梨……なのか」 涙を浮かべ、夏梨が何度も何度も頷いた。 「記憶が戻ったんだな、冬獅郎!」 「……記憶? 俺が……?」 呟いた途端、頭に閃くような痛みが走る。冬獅郎は思わず、こめかみを左手で押さえた。 ―― どうなってんだ。確か…… 記憶が、混ざり合う。自分の体を見下ろせば、死覇装の裾が風に翻っている。懐かしい、と思った。 確か、俺は総隊長に命じられ、先遣隊を率いて空座町にやってきたはずだ。 そこで黒崎一護と合流し、破面と戦った。それは、まるで昨日起ったことのように、鮮やかに思い出せる。 しかし。 今視界に映る夏梨の姿は、自分の記憶とは比べ物にならないくらい成長している。10歳だったはずだが、今ではもう15・6歳くらいに見える。 そこまで考えたとき、冬獅郎はふと足元の氷に視線を落とした。 正確には、氷に映った、自分の姿に。自分の記憶とは全く違う、成長した自分の姿に、彼は愕然と見入るしかなかった。 「夏梨……」 あれから、どれだけ経ったんだ。そう訊ねようとした途端、初めに会った時の夏梨の言葉がエコーのように甦った。 ――「お前、何やってたんだよ! 五年間も全く連絡寄こさねえで!」 「五年間……?」 嘘だろ。 文字通り、頭がくらりとする。 死神と破面の戦いは、一体どうなったんだ。 その間、俺は何をしていたんだ? 「もう、手遅れなのよ」 その答えは、思いがけない場所から返された。 視線の先に懐かしい少女の顔を見つけても……冬獅郎はしばらく、何も返せずにいた。 「……雛森」 血と泥に汚れた、どこか幼さを残した顔。 全く変わらぬ、華奢なその体つき。真っ白な細い喉には、刃が突きつけられている。 その刃を辿り……自分の腕に行き着いた時。冬獅郎は喉の奥で一瞬悲鳴を上げた。 「雛森! 大丈夫か!」 カシャン、と取り落とした氷輪丸が地面に弾ける。それにかまわず、冬獅郎は雛森の足元にかがみこんだ。 「日番谷……くん」 「すまねぇ、何でこんな……」 思い出せない。 どうして他ならぬこの自分が、雛森に氷輪丸を突きつけなければいけないんだ? この少女だけは何があっても護ると、固く誓っていたというのに。 「まだ、混乱してるの……? それとも、思い出したく、ないの?」 雛森はかすれた声でそう返すと座り込んだまま、かつての幼馴染を見上げる。 つぶらな瞳に色濃く浮かんだ疲れと諦めが、冬獅郎の心を粟立たせた。 「まさか……」 辺り一面を覆う氷。そしてその中に漂う、ものが焦げたような匂い。 雛森の足や着物のところどころは、氷に覆われている。 その状況から導き出される答えは、ひとつしかない。 傍らの氷輪丸を見下ろした冬獅郎の全身が、びくりと痙攣した。 「俺が、やったのか……全部?」 こみ上げてきた吐き気を飲み込むように、口元をぐっと掌で押さえつけた。 まさか、俺は、たった今。 ―― 「死ね! 雛森!!」 そう叫んだのか? 「あなたは、悪くない」 雛森は、そう呟いた。その場の重苦しい空気にそぐわぬ、穏やかな声だった。 「だってあたしは、狂ってるもの」 「雛……森?」 「藍染隊長にもう一度微笑みかけてもらいたい。ただそれだけのために瀞霊廷を裏切ったの、あたしは」 知らない。 そんなシナリオは、知らない。冬獅郎の膝は、かすかに震えだしていた。 「本当に、キレイな刃ね。日番谷くんの心の中みたい」 雛森は、どこか歌うように口にすると、泥と血にまみれた手を伸ばし、地面に転がった氷輪丸の柄を掴む。 刀を支えに、よろめきながらも立ち上がるのを見ても、冬獅郎は微動だにしなかった。 「あなたは、ずっとあたしにとって救いだった。助けてもらいたかったわけじゃないわ。 狂ってしまったあたしを、あなたなら止めてくれる、そう信じてたから。きっとそのために、あなたとあたしはもう一度、出会ったのね」 そして。白銀に輝く刃先を地面に向け、柄を冬獅郎に向って差し出した。 「だからあたしを、殺して」 冬獅郎は、まるで初めて見るかのように、雛森の手にある愛刀を見下ろした。 「……嫌だ」 ポツリ、と返す。 「嫌だ」 繰り返した。 「刀を取りなさい。さもなければ……」 雛森の腕が、炎に覆われる。光の球がいくつも周囲に生まれた。 「冬獅郎っ、逃げろ!!」 夏梨の声に、冬獅郎は一瞬、振り向いた。次の瞬間、その場所に炎の球がいくつも直撃した。 もうもうと土煙が上がり、冬獅郎の背後の壁が吹っ飛ぶ。 「隊長っ!」 乱菊の悲鳴が弾ける。 「雛森っ、あんた……馬鹿!!」 乱菊が傷みに顔をゆがめながらも、雛森に向って身を乗り出した。 「瀞霊廷を裏切ったって……あんたに何ができるってのよ? まさか滅ぼしたわけじゃないでしょ?」 雛森ひとりが裏切って藍染についたとしても、副隊長一人の離脱が、どれほど戦況に影響するというのだろう。 雛森は、しばらく無言だった。その口元が、笑みとも嗚咽ともつかない形に歪むのを、爆炎の向こうに乱菊は見た。 「まさか」 どくん、と鼓動が跳ね上がる。 「まさか、あんた」 乱菊と雛森の間に落ちた重い沈黙の中、ガララ、と音が響く。冬獅郎が瓦礫を押し上げ、立ち上がっていた。 あの一瞬で、霊圧の壁を作り防いだのだろう。重傷は負っていないが、頬や腕のあちこちに、火傷が傷を開いている。 「ずっと昔から、藍染が危険な奴だっていうのは、何となく分かってたんだ。それでもいいと思ってた。お前があいつの隣で、笑っているんなら」 ざっ、と地面を鳴らし、ゆっくりと雛森に向って歩みを進める。 対する雛森は、氷輪丸を片手に下げたまま、後ずさった。対峙する冬獅郎の瞳の中には、痛みがあった。 「そう思ってたのに。お前は泣いてるんだな」 「……え」 雛森は、目を見開いた。泣いてなんか、いない。 そう思った矢先、ぽろりと涙が零れ落ちた。まるで、その一言が引き金になったかのように。 「あ……あたしは!」 「来い」 雛森は、信じられないように、自分に差し出された手を見つめた。 「裏切ったのよ……あたしは」 「それでもいい」 重い言葉を、冬獅郎はためらいも見せず言い切った。 「藍染といて泣くくらいなら、俺と来い」 その声に含まれていたのは、五年前と寸分変わらぬ、家族の情。 五年前とは二周りは大きい冬獅郎の掌を、雛森は言葉を失って見下ろす。 その息が、震えた。 「日番谷くん……あたし、は」 次の瞬間。 雛森の背後の空間が突然、布を引き裂くように割れた。 「あかんなぁ、雛森ちゃん……」 ビクッ、と雛森の両肩が揺れた。 空間の裂け目の奥。暗闇の中から聞こえた声。 くつくつと笑っている誰かがいる。その存在に気づいた時、暗闇から閃光が走った。 「ちっ!」 それが刃の切っ先だと気づくと同時に、冬獅郎は腰から鞘を引き抜いていた。 次の瞬間、自分に向かって突っ込んできた相手の体を、受け止める。 ビリビリと衝撃が全身に響く。 冬獅郎の鞘は、突きこまれた長脇差の刀身を滑り、相手の鍔の部分に突き当たっていた。 相手の刀の切っ先は、冬獅郎の目と鼻の先で止まっている。 「……あァ、あかんわ。十番隊長さん」 真紅の瞳が、どこまでも冷たく冬獅郎を射る。 冷たい戦慄が背中を駆け上がった。 「『射殺せ。神鎗』」 眼前の刃が、恐ろしい勢いで伸びる。 その切っ先はあやまたず、冬獅郎の目を狙っていた。 「日番谷くんっ!」 「隊長っ!」 雛森と乱菊の悲鳴が、その空間に弾けた。
last update:2010年 7月10日