冬獅郎は反射的に身を伏せる。次の瞬間、数メートルに伸びた神鎗が耳を掠めるように通り過ぎた。 たたらを踏んだその姿がフッと瞬歩で掻き消え、少し離れた瓦礫の上に姿を現す。 「……てめぇは」 翡翠色の瞳が胡乱に細められる。その左目の真横の皮膚が切れ、赤い血が流れ出していた。 「前より動き良うなっとんちゃうか? 十番隊長さん」 ぬるり、とでも形容すべき動きで、暗闇からその全身を現したのは…… 「……ギン」 乱菊が、呟きを漏らす。 冬獅郎よりも、やや暗い色の銀髪。口元に浮かんだ、亀裂のような微笑。そして、チラリと覗く真紅の瞳。 冬獅郎の記憶と寸分変わらぬ、「市丸ギン」の姿がそこにはあった。 「雛森から離れろ」 雛森のすぐ背後に立った市丸に、不快感を露に冬獅郎が睨みつける。 「おーおー、相変わらず雛森ちゃんには優しいんやなぁ、十番隊長さんは。ボクにもその優しさ、分けて欲しいわ」 神鎗を元の長さに戻しながら、市丸はおどけたように言った。 しかし冬獅郎の知る市丸は、笑顔を浮かべた直後に襲ってくるような、笑顔と狂気が紙一重で同居する男だった。 冬獅郎は油断なく、鞘を構えなおした。刀と比べると著しく使えないが、それでもないよりマシだ。 市丸は冬獅郎の姿を見つめ、嘗め回すような陰性の笑みを浮かべた。 そして、その翡翠の瞳がますます険しく顰められるのを面白がるように、雛森の肩に腕を回す。 「雛森ちゃん、正直に言わなアカンわ。何したかちゃんと伝えんと、十番隊長さんコトの重大さが分からへんで」 雛森は口を開きかけたが、やがてぎゅっと閉じる。逡巡しているのが、その様子からも伝わってきた。 「……何の話だ」 冬獅郎の声音が、また一段と低められる。 「教えたろか?」 「……っ」 雛森が唇を噛むが、やがて諦めたように力を抜いた。 「5年前。半年に及んだ死神と破面の全面戦争の末、瀞霊廷は壊滅。生き残った死神も、破面が追い詰めて殺したんや。 『最後の一人まで生かすな』。藍染隊長の命令のもとに」 神鎗の刀身が再び伸び、冬獅郎の首元をなぶるようにゆっくりと掠める。 「殺した……総隊長も? 隊長達も? ……平隊士達も、すべて、なのか」 首筋に赤い線が入り、血が流れ出しても……冬獅郎は動けなかった。 「てめえらには……それでも、心があるのか」 やがて押し出された声は、震えていた。 「何を言うか思たら、おもろいこと言うなぁ。なくしたわ、心なんて。虚の力を手に入れた時にな」 神鎗の刀身を滑る赤い血を、市丸は愛でるように見下ろすと、嗤った。 「そうやな、敢えて言うとおもしろかったで。偉そうにふんぞり返ってた死神を捕えて、なぶって、殺すんは」 「……!」 ギリ、と歯を食いしばり、冬獅郎は市丸を燃えるような瞳で刺し貫いた。 それと同時に、周囲に身も凍るような冷気が満ちてゆく。 「……っ」 雛森が、握った氷輪丸に視線を落とす。その刃は冬獅郎の怒りに反応し、青白い光芒を放っていた。 市丸は笑みを浮かべたまま、自分の前に雛森の体を押し出した。 「……どけ。雛森」 怒りを抑えた声が、雛森に向けられる。しかし彼女は、俯いたまま動かなかった。 「復讐したいんやったら、怒りはこの子に向けるべきやな」 「……なんだと?」 「藍染隊長と通じ、瀞霊廷に破面を引き入れ……滅亡の切欠(きっかけ)を作ったんは、雛森ちゃんやからな」 不気味に静まり返ったその場に、市丸の声が響き渡った。その言葉の余韻が消えても、冬獅郎は微動だにせず、俯いた顔からは表情は窺えない。 しかし、氷輪丸を覆っていた光が、炎が消えるようにふっと掻き消えた。 冬獅郎の動揺を舐めるような視線で観察しながら、市丸が愉しげに続ける。 「誘拐犯と被害者、みたいな関係なんか? 藍染隊長とアンタは。全ての元凶は目の前の男にあるのに、そいつがおらんと生きてけんようになってしまう。 ちょっと優しい言葉かけられて、笑いかけられただけで、よぅ自分を刺した男を受け入れられたもんや」 くつくつ、と市丸が雛森の後頭部を見下ろす。 「ま、この子は一生、藍染隊長に依存したままや。助け出そうなんて無駄なことせん方がいいで」 そのような言葉をかけられても、決して否定はしない雛森を、冬獅郎は言葉を失って見つめた。 その小さな肩にはやはり、深い諦めの影が見えた。何度も後悔し、何度も脱出を試み、それでも藍染の言葉ひとことひとことに支配されてきたのだろう。 「……雛森」 冬獅郎は地面に飛び降りると、ゆっくりと雛森に向って歩み寄った。 その強い響きに、雛森が顔を上げる。 「認めるのか。市丸が言ったことを」 二人の視線が、交錯する。まともに見詰め合うのはこれが最後ではないか。お互いにそんな予感をはらみつつ、すれ違った。 「……えぇ」 頷いた雛森の声は、二人の間を完全に断ち切った。 「……あァ、そうや。藍染隊長からの伝言、伝えなあかんなぁ。十番隊長さん、アンタ宛や」 ピクリと冬獅郎が眉を動かす。 藍染。 その名前の持つ意味を、今の冬獅郎は痛いほどに分かっていた。 「『これから、破面は王廷との一騎打ちに入る。もはや君達死神に、戦いに割り込む余地はない。 普通に暮らすなら、見逃そう。ただし我らに戦いを挑むなら、決して容赦はしない。かつての同胞と同じ目にあわせるまで」 「……随分、甘ぇじゃねぇか」 「正直言うとな、ボクらもそんな余裕ないねん。王廷の連中はめちゃくちゃ強いしなぁ。今更引っ掻き回されたない、ていうんが正直なところや」 市丸は、本当なのか嘘なのか分からぬ、食えない笑みを浮かべて続けた。 「最後の六人の死神。その命運を決めるんはアンタや。『最後の隊長』として」 最後の隊長。 その言葉に、冬獅郎は凍りついたように立ち尽くす。 山本総隊長。砕蜂。卯ノ花。白哉。京楽。狛村。更木。涅。浮竹。 本当に全員、滅ぼされたというのか。 ごくり、と唾を飲み込んだ冬獅郎を他所に、市丸はくるりと背を向けた。 「ほな、行こか。藍染隊長が呼んではる」 「……分かったわ」 「市丸!」 「日番谷くん、待って!」 市丸に詰め寄ろうとした冬獅郎に、雛森が叫ぶ。その言葉は、いまだに冬獅郎の動きを引き止める力を持っていた。 雛森は日番谷を見上げると、抜き身の氷輪丸を地面に突き立てた。 「最後にひとつだけ、あたしの言葉を聞いて。『ルーツを求めては、ダメよ』」 「……ルーツ? どういうことだ」 ふる、と雛森は首を振り、すぐには答えなかった。ちらり、と市丸が乱菊を見つめる。しかし視線はすぐに逸らされた。 「言えないわ。でもルーツにたどり着いた時、貴方達は……」 「もうよいやろ、雛森ちゃん」 続けようとした言葉を、市丸が遮った。 「待て!」 冬獅郎が駆け寄ろうとした瞬間、二人の姿は闇に飲まれ、ふっ、と消えた。 「……」 冬獅郎は無言で、二人のいた場所に歩み寄った。 突き立てられた氷輪丸は、五年前と同じ輝きを放って主人を待っている。 その怜悧な輝きは、冬獅郎には平和な日々を思い出させる。 同僚だったほかの隊長を、いつも面倒な存在だと思ってきた。仲良く会話を交わすことよりも、怒鳴りあうことのほうが多かった。 でも。市丸が語ったような殺され方をしなくてはならないような、そんな奴らじゃなかったはずだ。 総隊長の威厳に満ちた眼差しが。 浮竹の、満面の笑みが。 卯ノ花の、あたたかな微笑が。 次々浮かんでは、泡沫の夢のように消えた。 ―― 日番谷隊長と呼べ! 口癖のように怒鳴っていた時のことを、思い出す。ほろ苦い笑みが、勝手に頬に浮かんで、消えた。 「同僚も仲間も死に絶えたのに、隊長だけ残ったってしょうがねぇよ……」 氷輪丸の柄は、死体のように冷たかった。 両手で握りしめたが、引き抜くことができない。 冬獅郎はそのまま跪くように、刀を抱きしめるように、その場に崩れ落ちた。 *** 「来る!」 夏梨は、ハッと上空を見上げた。 破面たちが三人に狙いを定め、夜空から何人も降りてくるのが視界に映った。 ―― 冬獅郎! 来るぞ! そう呼びかけようとして、夏梨は言葉を切った。 「冬獅郎……」 痛みに耐えるように跪いた冬獅郎に、かけられる言葉なんかなかった。 柄尻に額を押しつけ、森閑として動かない。これほど人が心の痛みに苦しむ姿を、夏梨は生まれて初めて見た。 刀を取れと、そして戦えと言うには、あまりにも酷なほどに。 「……逃げなさい、夏梨ちゃん」 乱菊の言葉に、夏梨はハッと視線を戻す。乱菊は、痛みをこらえながらも、なんとか起き上がろうとしていた。 「乱菊さん! そんな傷じゃ……」 「戦えないでしょうね。でも、傍にいることはできるから」 だから、あんたは逃げなさい。そう言って、乱菊はふわりと微笑む。 幼かった上司を心の深いところで信頼しながらも、いつも労わるような眼で背中を見守っていた彼女を、ふと夏梨は思い出した。 放って一人だけ逃げられるはずがない。夏梨が大きく首を振った時だった。 「月牙天衝!」 何だか、とても懐かしく聞こえた声と同時に、強大な衝撃波が破面達を吹き飛ばした。 「一兄!」 夏梨が上空を見上げ、ほっとした声を上げる。 「冬獅郎! 乱菊さんも、大丈夫か」 一護は瓦礫の上に降り立つと、冬獅郎の傍に駆け寄った。 「その様子だと、知っちまったみたいだな。破面との戦いの結末を」 返事をしない、顔も上げない冬獅郎の肩に、ゆっくりと手を置いた。 「無理もねぇ。下がってろ、冬獅郎。ここは俺が引き受ける」 冬獅郎と夏梨、乱菊を庇うように「斬月」を構えた。 無理もない。 一護は冬獅郎を見返し、もう一度思う。かつての自分も、受け入れるのに何ヶ月もかかったのだ。 死神としての記憶をなくし、普通の人間として生きてきたのに、いきなり過酷すぎる事実を突きつけられ、平然と受け止められるはずがない。 でも……いったん動きだした運命は、もう彼ら彼女らを待ってはくれない。 「でもな、冬獅郎。まだ終わっちゃいないんだ」 自分にも言い聞かせるように、続ける。そう言って見上げた夜空に、キラリといくつかの輝きが宿った。 「舞え、袖白雪!」 「吼えろ、蛇尾丸!」 暗闇を裂いて、甦った死神達の声が聞こえる。冬獅郎が、身を起こす気配を背後に感じた。 「……そうだな」 両手に力を込めると、冬獅郎は一気に氷輪丸を引き抜いた。 「冬獅郎、下がって……」 「いや」 その刀身に再び、青白い光が宿る。 「俺がここで退けるわけ、ねぇだろ」 どこか寂しげな瞳を、冬獅郎は一護に向けた。 「奴らの言葉が正しいなら……俺は、最後の隊長だから」
last update:2010年 7月14日