一角は、カウンター席のひとつに陣取り、グラスに湛えられた琥珀色の液体を、喉を反らせて一気に飲み干した。 ウイスキーを麦茶のように飲む、と呆れた口ぶりだった幼馴染は、今カウンターの向かいでやはり、呆れたような顔をしている。 「風情がないねぇ。こういうのはもう少し、美しく飲むものだよ」 「けっ。ちびちび飲めばいいってのかよ? 胃に落ちれば同じだろ」 一角が悪態をつくと、弓親はシェイカーを振りながら、器用に肩ををすくめた。 シェイカーからとろりと注がれた、優雅な青色の液体が、グラスの中で踊る。 弓親は、すっきりと折り目の入った黒のパンツに白いシャツ、黒のベストに蝶ネクタイと、典型的なバーテン姿だ。 さきほどまでのリクルートスーツ姿よりも、よほど様になっていることだけは間違いない。 弓親の後ろにはおびただしい数のボトルが並び、まるで一枚の絵のようだった。 間接照明しか使っていない店内は、黄昏時のようなセピア色に包まれている。 壁や仕切りの多い店内は半個室のようなつくりになっており、客が何人いるのかも定かではない。 時折誰かの談笑が聞こえたかと思うと、キラリ、とグラスやアクセサリーが硬質な輝きを放ち、すぐにセピアの中に戻ってゆく。 その景色は、まるで深海で魚の鱗がちらり、ちらりと輝くのを連想させた。「deep blue」、このバーが深海の名を持つ所以だと。 弓親がかつて、そんなことを言っていたのを思い出す。 「WILD TURKEYをストレートで。あとチェイサーを」 深海を揺らさない穏やかな男の声が聞こえる。近くから聞こえたが、すぐ後ろは仕切りになっているため姿は分からない。 声は落ち着いているが多分、自分達と似たような年齢だろう。 「嬉しい注文だね。酒の味を楽しもうとしてる」 はい、と返事をした弓親は、なんだか嬉しそうな顔をしている。不愉快だ、となんとなく思う。 酒の飲み方に作法なんてあるものか。 *** ウエイターにウイスキーとチェイサーを託した弓親は、ちらりと一角を振り返る。 なんだか不機嫌そうな顔でグラスを傾けている姿に、苦笑する。 「どうかした?」 前に立って見下ろすと、唸るような機嫌の悪そうな返事が返ってきた。 「お前はいいよな。就職なんてできなくても、いざとなりゃこの店で働けばいいだろ。昼間行ってる美容院でもいいだろうし」 「一角だって、たまに顔出してる剣道教室の先生やればいいじゃない」 弓親が微笑する。ケッ、と一角は吐き捨てる。よく思うが、自分達が同じ男だとは思えなくなることがある。 強面で、無口で、傍目から見ればヤクザの跡取りくらいにしか見えない一角が、人並み外れて面倒見がいいのを、弓親はよく知っている。 実は人一倍繊細な感性を持っているくせに、それを隠すかのように幼い頃から格闘技に傾倒していた。 剣道や空手、柔道といった日本武道は特に適正があるらしく、すべて黒帯である。 そんな彼が上京したてのころ、偶然通りすがった剣道教室のあまりのお粗末さに呆れ、ボランティアで教えだしたのも、弓親からすれば自然の成り行きに思えた。 「バカ言うんじゃねえ。下町の剣道教室の師範なんて願い下げだ」 「でも、リクルートスーツより袴のほうがよっぽど似合ってるじゃない。似合わない服を着なければいけない仕事なんて、つくもんじゃないよ」 「へ。そのまんま返すぜ」 互いの、首から下が合成写真のようだった姿を思い出し、同時に噴出す。 「……そんな簡単じゃ、ねーんだよ」 急に沈んだ声のトーンに、弓親が一角を改めて見やった。 「どうしたんだい」 「親父がな。きっと、そろそろ死ぬんだ」 「……は? 健康そのものだったじゃないか。一体どういう……」 一角は、そんな冗談を言う男ではない。弓親はそれっきり絶句し、一角の父親……寺の住職をしていた、豪放で恰幅の良い男を思い出した。 「癌らしい。大体5年で死ぬって言われたんだってよ。5年前、俺たちが田舎を出る直前にそう言ってたから、そろそろだな」 あの親父が、そんなアッサリ死ぬなんて思えねーけど。言い捨てながらも、一角の表情は浮かない。 「……こっちに来てから、親に連絡したことって」 「ねーよ。あんな風に喧嘩別れしといて、どのツラ下げて連絡できるか」 「まあ、ね」 田舎で浮きまくっていた二人が、はじき出されるように故郷を出て上京してから、5年。 「……そろそろ、帰り時かな」 弓親の言葉に、一角は無言で眉間の皺を深めた。物思いにふけっているその姿を見て、弓親は邪魔をしないように、そっとその場から離れる。 まっとうに働いて、家族を作って、老いて、死んでゆく。田舎町で人生の選択肢はそんなにない……いや、ひとつしかないといってもいい。 そのレールが見えたとき、二人は離脱を選んだ。例えそれが故郷や、家族との別離を意味してもだ。 具体的な将来像が見えなくても、自分達には、自分達にしかできない何かがあると信じていた。 「使命」とか、「生まれてきた意味」とマトモに向き合うほど、青臭かったということだ。 バイトをして、何とか二人で食いつないできた。あの時の気持ちは、少しも弱まっていない。むしろ強くなったと思うことさえある。 でも…… かつてはためらいなく切り捨てた自分達のルーツを無視できなくなってきたのは、事実。 本当は守らなければいけなかった人々のことを思うとき、自分のプライドや、意地や、夢など何の価値があるのだと思い始めたのも、また事実。 誰かにそれを指摘されたら、間違いなくそいつをぶん殴るだろうけど。気づけば、捨てたはずの道に、再び足を向けようとしている自分もいる。 だからと言って、まともな就職先を得ようと就職活動をしてみたところで、全然そぐわない。 4年間を大学というモラトリアムで過ごした学生とは、明らかにまとう空気も違うのだった。 一旦レールから外れた人間に、この社会は冷たいのだと思い知った。後悔は、しないけれど。 「……一角、見ない本だね」 しばらくして、他の客のオーダーを一通りこなした弓親が、静かになった一角を見た。 「あぁ、拾ったんだ。さっき降りた駅のホームで」 薄暗いバーの光の中で、弓親は一角の手元を覗き込んだ。それは立派な表紙の洋本で、中には細かい英語や、いくつかの図形、数式が見て取れる。 「この英語、分かるのかい?」 「読めねえよ、俺は国語は苦手なんだ。でも、数式の意味は何となく分かる」 Σ、α、β。さまざまな記号が並ぶ数式をじっと見つめながら、一角が呟く。 「数式ってのはキレーだよな。曖昧なものがねえし、完璧で潔い」 こんな外見をしていても、数学の成績は全国模試でトップレベルだった。 それでも決まりきった道を嫌い、自ら進んで未来を棒に振った一角は、馬鹿だし不器用だけど、少なくとも醜くはない。 弓親が見守る中、一角はその本をパタリと閉じ椅子の上においた。 「どうせだから、持っていったら?」 「イヤ。どうせ、どこかの金持ち大学生の持ちもんだろ。俺が持ってても、そぐわねえ」 「持ち主の名前とか、どこかに書いてないの?」 「今ひっくり返してみてたが、何もねえよ」 一角はそれだけ言うと、それきり本のことを忘れたかのように立ち上がり、スーツの上着を肩に引っ掛けた。 「帰るぜ」 「あ、僕も一緒に出るよ。今日は手伝いで入っただけだから、いつでも抜けられる」 *** カラン、と軽やかな音を鳴らして、「deep blue」のドアが閉まる音に、一組の男女が耳を傾けていた。 女は落ち着いた黒のタートルネックに、優しい黄色に花柄のプリントスカートを履いている。 こげ茶色のブーツの華奢なヒールを、空中に揺らせていた。 控えめに右手を膝に置き、左手でグラスを支えながら、男の話に笑顔で頷いている。 腰までもある栗色の髪が、すんなりと背中に流れていた。 黒目がちの大きな瞳が、年齢の割りに彼女をあどけない子供のようにも見せている。 カウンターに肘をつき、女の方に体を向けて話しかけている男は、女と同じくらいの年齢……20歳前後に見えた。 オレンジ色の派手な髪も、このうす暗がりの中では、落ち着いたブラウンに見える。 時折、ニヤリと口角を上げる癖は、少し前までさぞ悪さをやらかしただろうと思わせる。 しかし、眉間に深く刻まれた皺や、穏やかな目の光からは、知性もほの見える。 セピア色の光が満ちた店内に、そのふたりはしっくりと馴染んでいる。 「すごいよね、医大って難しいんでしょ? 勉強大変?」 穏やかなピンクベージュに彩られた女の華奢な爪が、グラスを飾る。 「いや、楽しいよ。まあ、忙しいけどな。親父の跡を継ぐのも悪くねぇさ」 チェイサーを置いた男が、思い出したように琥珀色の液体が満たされたグラスを置く。 一口含んだ後、一拍あけて穏やかな表情になる。 「変わったね。高校のころは、お父さんとケンカばっかりしてたのに」 男の口元がへの字に曲がるのを見て、ふふっ、と女は微笑んだ。男の骨太な指が、ガラスの小さなトレイに盛られたナッツを摘まんだ。 「ケンカしてると最近、妹の目が冷てぇんだよ……」 ぷっ、と思わず女は噴出した。 「もう、小学生じゃないもんね。女の子の前で殴りあいはダメだよ」 「前は全然、平気だったんだけどな」 男は頭を掻くと、まだ笑みを浮かべている女の横顔を見やった。 「お前こそ、どうなんだよ? 大学卒業したらどうするかとか、決めてんのか?」 「うーん、あたしはね」 桜色の唇の、口角が持ち上げられる。 「決められないの。食べるのも、かわいい服を着るのも好きだし。動物も本も、旅行も好きだし」 「お前らしいよ」 男は微笑むと、空になった女のグラスをチラリと見やり、スッと腕を上げてウエイターを呼んだ。 「同じものを」 そう言う女を横目で見た男の瞳が、ふと少し離れた、カウンターの椅子に注がれる。 「どうかした?」 「いや……」 男はスツールから滑り降りると、その椅子に歩み寄った。そして、いつから置かれていたのか、一冊の本を取り上げる。 その分厚い表紙に視線を落としながら、女のところに戻ってきた男の動きが、まるで電池が切れたかのように唐突に止まった。 「なに……英語の本? 小説かなあ。……どうしたの?」 遠目に表紙を覗き込んだ女が、さすがに男の異変に気づく。 男は無言で、その表紙を凝視している。 その唇から、人の名が漏れた。 「……冬獅郎」 女がピクン、と反応する。そして、つんのめるような姿勢でスツールから降り、駆け寄りながら男を呼んだ。 「黒崎くん。今なんて」 「……井上」 黒崎一護は、目をこぼれそうなほどに見開いて自分を見上げる井上織姫を、見返した。その首が、ゆっくりと振られる。 「まさかな。そんな訳ねぇ……俺の勘違いだ」
last update:2010年 3月20日