浦原商店の屋根に座り、浦原は無言で夜空を見上げている。 下からは、トーン、カーン、とテッサイが家を補強する音が聞こえてくる。 群れを成して現れていた破面は嘘のように姿を消し、空座町の街並は平和な夜闇に包まれている。 辺りは静寂、そのものだった。 「……こんな平和な世界があるんだな」 しみじみと呟いた声に、夜風に吹かれていた浦原は振り返った。数メートル離れた屋根に、逸輝と恵蓮が腰を下ろしていた。 ふたりで寄り添っている姿は、恋人同士のようにも家族のようにも見える。 「ここの空気は、穏やかで好きですわ」 うーん、と恵蓮が背中を反らせる。ふらり、とバランスを崩した肩を、逸輝が慌てて支えた。 年のころは、十三、四歳くらい。冬獅郎と同じくらいだ。 こうやって横顔を見ると、大人と言うよりは子供の雰囲気を、まだ色濃く残している。 こんな風に話し合っているところは、王族の御子たちの会話とも思えなかった。 「まるで、平和な世界を知らないような言い方ではないですか」 「知らねぇよ。王廷は、俺達が産まれる遥か昔から、戦時中だからな」 浦原は、それには何も答えず、目を見張る。王廷といえば、瀞霊廷を初めとする下位空間に護られた、あらゆる空間の上位に位置する場所ではないのか。 恵蓮は、驚いた様子の浦原を見て、微笑んだ。 「この世の中に、極楽はないということですわ」 ただ無邪気なだけではない、深く澄んだ輝きが翠の瞳に灯っていた。 戦争中……ということは、一体誰と。 浦原は、逸輝の古傷だらけの体を一瞥して、目を細める。 逸輝は、こうして傍に座っているだけで鳥肌が立つほどに、強い。浦原が知るどの死神や破面と比べても、次元が違うほどに。 これほどの力を持つ少年を、あれほどまでに傷つける者が、この世界のどこかにいるというのか。 「……桐生(キリオ)が、泣いていました」 物思いにふけるように夜空へ視線をやっていた恵蓮が、不意に言った。 「わたくしは、あの女(ひと)が好きです。だから、悲しくなりました。 『瀞霊廷を護れる力になれればと、王属特務になる道を選んだのに。滅びようとする時に、手を貸すこともできないなんて』と泣くのを見た時は。 そして、彼女の戦場へと発った背中を思い出します」 「桐生……曳舟桐生。元十二番隊隊長ですか」 浦原にとっては、懐かしい名前だった。自分の前に、十二番隊の隊長の座に就いていた女傑の名だ。 最も、その飛びぬけた力を見込まれ王属特務に請われた彼女と、直接顔を合わせたことはなかったけれど。 「王廷の中にも、死神を救おうとしてくれた者がいたのですね」 「勘違いすんなよ」 逸輝の答えは、鋭く返された。見下ろすような視線の中に、間違えようも無い支配者としての圧力が加わる。 「お前らの敵の親玉は元死神だろ。世界の秩序を護るべき死神が、身内の争いのために住人を危険に曝し、秩序を破壊した罪は重い。 王廷直々に滅ぼしても良かったんだ。それをせずに成り行きに任せたのは、死神が自力で解決するなら不問にする、という暗黙の諒解があったからだ」 やはり、そうなのか。 逸輝の言葉は辛らつだったが、おそらくそれが真実なのだろう、と思わせる率直な響きを持っていた。 「……まぁ」 少年の唇が苦笑の形に歪められる。 「俺達も、他人のことは言えねぇがな。……でも、それももう終わる」 どういうことだ? 浦原は聞き返そうとしたが、逸輝は軽く口を振った。これ以上話すことはない、とその表情が言っていた。 どこかで、クラクションの音が聞こえる。 耳を澄ませば、どこかの家でテレビの音が聞こえ、誰かが笑っている声まで聞こえてくる。 屋根から道路を見下ろせば、赤い光がかすかに見える。あれは、赤信号の光だろうか。 しかし、数分前に平和と思えた世界は、今はとてもそう見えなかった。 紙一重の、平和。赤い光が、まるで血の色に一瞬見えた。 バサッ、と風を切る音がしてきたのは、その時だった。浦原が顔を上げると、闇の中をまっすぐに飛んでくる、白い鷹が目に入った。 普通の鷹ではないことは、すぐに分かった。そもそも夜目の利かない鳥が、夜にこれほど自在に飛ぶことからして、ありえない。 「鉄 逸輝殿。緋鹿 恵蓮殿」 だから、その白鷹がふわりと逸輝の腕に舞い降り、人の言葉を口にした時にも、驚かなかった。 「霊王がお待ちです。王廷にお戻りください」 死神が使う地獄蝶のようなものだろうか、と浦原はそれを見て察する。 「何だ? 急用か?」 首を傾げた逸輝に、白鷹は機械的な声音で返した。 「破面来襲が近いようです」 「何と……?」 浦原は思わず声を上げる。対照的に、逸輝はふぅん、と鼻を鳴らし、恵蓮は無言のままだった。 「何者だ、貴様は」 白鷹が、ギロリと瞳を浦原に向けた。 「かまいませんわ」 視力の弱い瞳で、その視線に気づいた訳ではないだろうが、恵蓮が口を挟んだ。 「……現世とて、これ以上事態が進めば無関係ではありませんから」 「な……にを」 「破面を見たでしょう? すでに前兆は現れていますわ」 ウルキオラ。グリムジョー。この5年、現れたことのなかった破面たちの姿が脳裏に現れ、消えた。 「霊王は、事態を重く見ておられます。今こそ、主戦力を投じるべき時だと仰せです」 「そこで俺の出番って訳か?」 気負う様子もなく、さらりと逸輝が返す。白鷹がその前に頭を垂れた。 「はい。貴方と……玉(ギョク)の御子にも出陣命令が」 「興世(コウセイ)が? あのお坊ちゃまが実戦で使えるのかね」 憎まれ口を叩きながら、恵蓮を支えながら立ち上がった。その腕から離れた白鷹が、再び中空へと舞い上がる。 鋭く高く、夜空に向って一声鳴いたと思った時には、その姿はもう掻き消えていた。 その代わりに、二人の前には和風の門のようなものが現れた。門の向こうには、得体の知れない気配が満ちている。 「王廷に、戻られますか」 月光に銀色にけぶってみえる恵蓮と、影のように傍に佇む逸輝を、浦原はまぶしそうに見上げた。 「死神どもに伝えておけ。今更、間違ってもソウル・ソサエティに戻って破面と戦うとか言い出すなよ。無駄だから」 「無駄ですか」 「無駄だ。結果は既に出てるだろうが。勝ち目ねぇよ」 確かにそうだ、と浦原は思う。 五年前に三千人いた死神が負けたというなら、六人で立ち向かったところで結果は目に見えている。 しかし……だからと言って、指を銜えて見ているような連中だろうか。 浦原は、心中首を振る。 「勝ち目がなければ、無駄ですか?」 浦原の問いに、逸輝は言葉を止めて見返した。 「当然だろ?」 あっさりと言い返す。対する浦原はふぅ、と息をつく。 「五年前死神達は、圧倒的な劣勢の中で、最後まで戦い抜きました。歴史の流れが破面に傾いている……それを知りながら、ね。 歴史の本流に立ち向かい敗北し、そして歴史から瀞霊廷の名は消えた。……歴史に忘れられ捨てられてゆく。見事な生き様ではないですか」 逸輝は目を見開いて、浦原を見返した。 次の瞬間、アッハッハ、と声を立てて笑った。少年らしい笑顔が、すぐに歪められる。 「……たった今、死神が滅びた理由が分かったぜ」 「そう思いますか?」 「ちょっとだけ、うらやましくもある」 そう続けた少年の言葉に、ふと考える。黒と、紅の御子。この二人は、一体どれほどのものを背負ってここにいるのだろう。 そして、恵蓮の翠の瞳が自分を見つめているのに気づき、無言で見返した。 「あなたは、罪を犯しましたね」 桜色の唇から紡ぎだされたその言葉は、質問ではない。断定だった。 「……アタシの罪?」 浦原はスッと表情を顔から滑り落とし、恵蓮を見つめた。 「どの罪でしょう? 瀞霊廷を護れなかった罪? それとも、死神の生き残りの記憶を弄くった罪」 「違います」 恵蓮も、浦原を見つめ返した。 「……あぁ、その罪のことですか」 浦原は目を細め、わずかに微笑んだように見えた。 「それは、アタシが墓場まで持って行きます。勘弁してください」 「恵蓮?」 逸輝が、恵蓮を見下ろした。 ふる……と恵蓮は首を振り、それ以上は追求しようとしなかった。 「それでは、わたくし達はこれで」 「えぇ。……時空を渡る姫よ」 頷いた浦原が、不意に呼びかけた。 感情(おもい)のこもった声音に、門の前に進み出た恵蓮が振り返った。 「貴女は、複数の世界を渡るという。どこかに死神が、幸せに暮らす世界はあるんだろうか」 浦原は束の間、寂しげに唇を噛んだ。返事の変わりに、ふわり、と恵蓮が微笑んだからかもしれない。 「どこかで、彼ら彼女らに出会ったら。今度は護ってあげてください。こんな『結末』がくる前に」 それは、彼女に求めてもおそらく何にもならないこと。分かってはいても、言わずにいられなかった。 恵蓮は門を通りざまに、涼やかな声で言い残した。 「約束しますわ」 *** 「……約束、か」 浦原は、星が瞬く夜空を放心したように眺めていた。 その中に、闇よりも黒い姿が、次々と浮かび上がる。なんだか、それを見たとき、とても懐かしい気がした。 「戻ってきましたね。……だが、傷は深いようだ」 先頭が、一角・弓親。 その次に乱菊を抱き上げた冬獅郎と、夏梨を背負った一護が続く。 恋次とルキアが後方を護っていた。 「浦原サン。井上を呼んでくれるか。乱菊さんの傷がかなりひどい。冬獅郎も重傷だ」 タッ、と屋根に飛び降りた一護が、浦原に声をかけた。 「もう呼んでありますよ。そろそろ到着するはずです」 屋根の端に、続いて冬獅郎が飛び降りた。乱菊は意識を失っているらしく、冬獅郎の腕にぐったりと、頭をもたせ掛けている。 冬獅郎の表情は月を背にしているせいで、全く見えなかった。 「戻られましたね。『日番谷隊長』」 顔を上げたとき、その翡翠色の瞳に光が渡った。 「教えてくれ。五年前、瀞霊廷に何があったの。そして今、どうなっているのか」
last update:2010年 7月20日