ちらり、と行灯の燈が揺れる。思い思いに座る死神たちの姿を、影絵のように障子に浮かび上がらせていた。 「ありがと……織姫。アンタいい女になったけど、腕もあがったわね」 布団に横たわった乱菊の細い指が、そっと織姫の頬を撫でた。織姫は涙ぐみながらも微笑み、軽く首を振った。 織姫が浦原商店に辿り着いたのは、一護たちが戻ったのとほぼ同時だった。 ―― 「織姫」 苦しい息の下から、乱菊が少し大人びたその姿に呼びかけた時。駆け寄った織姫は、冬獅郎ごと、乱菊をぎゅっと抱きしめた。 ―― 「乱菊さん、冬獅郎くん。……おかえりなさい」 震えるその腕が、この五年を耐えて暮らしてきたのは、この娘も同じだということを示していた。 乱菊を覆っていた淡い乳白色の光が、少しずつ小さくなり……そして、ふっと消えた。 その場で光を放つのは、行灯と夜空に浮かぶ月光だけだ。 「うん、もう平気みたい。相変わらずすごいわね」 乱菊はひょい、と起き上がると、斬られた右肩をぐるぐると回して見せた。 「さっきまで死にかけてたくせに、すぐに起きんな」 柱に背中を持たせかけ、両足を畳に投げ出した冬獅郎が、乱菊にぶっきら棒に声をかけた。今も死覇装のままで、右手に氷輪丸の鞘の部分を握っている。 「相変わらず心配性ですね〜。でも、だいじょぶですから」 「お前が、楽観的すぎんだよ」 二人の会話を楽しげに聞いていた織姫が、ぷっと吹き出した。 「変わらないね〜、ふたりとも。あたしの家で、三人で暮らしてた時のこと思い出しちゃうな」 「同じ人間なんだから、そうそう変わらねぇよ」 ため息をついた冬獅郎が身じろぎした時、袖のわずかな重みに視線を落とした。 夏梨が、畳の上に横たわった体勢のまま、冬獅郎の袖をぎゅっと握りしめていた。 見下ろせば、スースーと寝息が聞こえる。兄のバイクに跨って氷輪丸を冬獅郎の所にまで届け、戦いの最中は乱菊をずっと庇っていた。 精神的にも、肉体的にも、もう限界だったのだろう。糸が切れたかのように熟睡していた。 「……この子はすげぇよな。思い返してみれば、この子の言うことが全て正しかったわけだ」 一角が、彼には珍しく優しい口調を向けた。そしてそれは、冬獅郎も同感なのだった。 「呑気な顔して寝やがって。……礼も、言えねぇじゃねぇか」 見守る冬獅郎の頬に、ほろ苦い笑みが刻まれた。 ガラリ、と襖が開き、毛布を手に一護が入ってきた。 夏梨が冬獅郎の袖を掴んだままなのに気づくと、一瞬困ったような表情を浮かべて後頭部を掻きながらも、毛布を上にかぶせてやる。 「……悪ぃな。後で連れて帰るから」 「かまわねぇよ。それより」 そう言いかけた時、 「いや〜、今宵はいい月だ。役者も揃ってることだし、長話にはちょうどいい」 一護の後ろから入ってきた浦原が、満月を見上げて声を上げた。 部屋の奥から、乱菊と織姫、冬獅郎と夏梨、一護、恋次、ルキア。 開け放たれた障子の傍で、縁側に足を投げ出して寝転んでいるのが、一角。傍に弓親が胡坐をかいている。 月光に照らし出された死覇装姿の死神は、この世のものでないほどに朧に見える。 「長話なんて、いらねーんスよ、浦原さん」 浦原が入ってくるのを見上げた一角が起き上がると、その場にくるりと胡坐をかいた。 「起こっちまったことは変えようがねぇ。今、戦況がどうなっているのか。それを知りてぇんだ」 「……さっきの戦いで、市丸と雛森に会った」 続けて言ったのは、冬獅郎だった。鞘におさめた氷輪丸を、暗い表情で見下ろした。 「市丸は言っていた。五年前の戦争の末、死神が滅びたと。……事実か」 ガタッ、と音を立て、ルキアが身を起こした。隣で恋次も息を飲み、目を剥いて冬獅郎に詰め寄った。 「滅びたって……全滅ってことですか、日番谷隊長!」 そうだと、口に出すにはあまりにも重く、冬獅郎は一度頷いただけだった。 最後の隊長だとはっきりと言われたことが、重くのしかかっていた。あの口ぶりでは、他の隊士も生き残っているとは到底思えない。 今ここにいるメンバーが、死神の生き残りの全てだと、受け入れるほかないと思うようになっている。 悪い夢なら醒めてくれ。 そういう心境だった。しかし、今となれば、人間として生ぬるい生活を送って来たことのほうが夢のように遠く思える。 黙っていた浦原が、口を開いた。 「確認する術はないんスよ。瀞霊廷への穿界門は全て破壊されているんで、現状をこの目で見ることはできないんです。 ただ、瀞霊廷が壊滅状態なのは間違いない、と思っています」 冷徹、と言っていい響きだった。まるで死刑宣告を受けたかのように、その場は重い空気に沈んだ。 「……馬鹿な。三千人もいて、瀞霊廷を護れなかったというのか……?」 ルキアが上半身を起こした体勢のまま、額に手をやって、呻いた。 「騒ぐなよ」 一角が、立ち上がった恋次を視線で制した。 「相手のほうが強かった、それだけのコトだろ」 「ただ、そうなるとやはり理由が知りたいね。僕達がどうして蚊帳の外だったのかも気になるし」 弓親が、鋭い視線を浦原に向ける。浦原は、覚悟を決めていたかのように頷いた。 「……五年前。アナタ方は破面の動向を探るため、先遣隊として空座町を訪れた。それは覚えていますか?」 「ああ。この数時間で、すいぶん記憶がはっきりしてきたのでな」 ルキアが答え、他の面々もそれぞれに頷いた。 「いいでしょう。では質問を変えましょう。覚えている最後の記憶は?」 「現世で虚を倒してた」 一角と斑目が、ほぼ同時に答えた。織姫に支えられて布団の上で上半身を起こしていた乱菊が唸った。 「そんなあんた達に、あたしは伝令神機で連絡を取ったわよね。なんだったかしら」 「瀞霊廷の様子がおかしい上に連絡もつかねぇから、俺たちは現世を黒崎に任せて瀞霊廷に戻ろうとしてた。 斑目と綾瀬川を呼びだして、一旦浦原商店に集まっただろうが」 「さすが、一番覚えてますね」 言いかけた乱菊が、あぁ、と声を上げた。 「隊長、そのあと怒ってましたよね」 「……天廷空羅で、総隊長から俺に連絡が入ったんだよ」 記憶はもう、五年前のことが昨日のようにくっきりとしていた。 それにつれて、自分が強烈に腹を立てていたことが思い出されてくる。 「瀞霊廷が破面に襲われる危険が増している、と総隊長は言った。本来離れているはずの虚圏が、何らかの力によって無理やり瀞霊廷に近づいていると。 そうなれば断界は力づくで消滅させられる。こんな事態だ、瀞霊廷に戻ると言ったのに、総隊長は先遣隊は戻るな、の一点張りだった」 「……安心しましたよ」 浦原は、ほっとしたというよりも、満足したように言った。 「五年間のブランクがあっても、人間ボケはしてないみたいですね」 「……時間は待っちゃくれねえんだ」 それは、わずか数時間前に、思い知らされたこと。 とはいえ、もしもあの時、一護たちが助けに入らなければ、破面と戦う気力があったかは自分でもわからなかった。 「アタリですよ、日番谷隊長。あの時藍染は、百を越える数の破面を引き連れ、瀞霊廷を襲おうとしていた。破面は、ヴァストローデ・アジューカス・ギリアンの混合部隊」 「でも、こっちは三千人だろ! たかが百体の敵くらい……」 「ヴァストローデは何体いた?」 恋次の言葉にかぶせるように、鋭く冬獅郎が問うた。 「……おそらくですが、十五体は」 「……それじゃ、死神が何人いても勝てねぇよ」 破面の戦いに緊迫していた瀞霊廷の様子が、まざまざと頭に甦りつつある。 「隊長格以外には知らされてねぇがな。ヴァストローデの実力は隊長格よりも上だ。現れたら、隊長が相打ちで殺せと言われてた。 当時の隊長の数は十人。つまり、十体のヴァストローデ級が現れれば、瀞霊廷は終わりだってことだ」 続けた冬獅郎に、一角が思わず、というように身を乗り出した。 「……そんなの、十体で収まるかどうかなんて完璧に破面任せじゃないスか。何か他に手はなかったんスか?」 冬獅郎はため息をつき、一角を振り返る。 「瀞霊廷だってそこまでウカツじゃねぇよ。……一つだけ、手を打とうとしてた」 「何なんスか、それは」 当然訊ねられるだろうと思っていたが、冬獅郎は首を振った。 「ただし、その手は結果的に『間に合わなかった』と俺は思ってる」 隊長であれば知らされる重要な情報のはずだったが、冬獅郎自身、直接話を聞いていなかった。 先遣隊として現世にいた時に、残っている隊長たちで話し合われていた可能性はあるが。 ―― いや……間に合っていたら、どうなってたんだ? いずれにせよ、今の中途半端な時点で話すのは、時期尚早な気がした。 さらに問いかけようとする一角の視線を感じたが、冬獅郎は敢えて答えなかった。 「死神達がどうなったのか、分かっていることは他にないのか?」 沈黙が落ちた間を縫って、ルキアが浦原を向いて訊ねた。 「……瀞霊廷に破面が攻め込んでほどなく、死神側の敗北は決定的だったのでしょう。そして、死神たちは徹底抗戦を選んだ。 被害が外部に及ばないよう、瀞霊廷の周囲に強固な結界を張り巡らせ、破面を閉じ込めたうえで全ての穿界門を破壊したんです。 そして……その後は推測ですが、ゲリラ戦に持ち込んで抵抗を続けたはずです。そして……」 そして。 その続きを、浦原が口にすることはなかった。 「……俺達は、どうしてたんだ?」 一角が畳に膝立ちになり、浦原ににじり寄った。 「その辺だけ記憶がねぇんだ。俺達は現世で今生きてる。ってことはまさか、瀞霊廷に戻って戦わなかったのかよ!」 「話が戻りますが、日番谷隊長は総隊長に現世にとどまるように言われていましたが、拒否しています。そのうえで瀞霊廷に戻ろうとした、それは事実です。 しかし、たどり着けなかった。アタシとテッサイがその前に、貴方達の記憶を封魂術で封じ込めましたから」 「な、」 そこで絶句したのは、一角だけではなかった。一護と浦原、織姫を除く全員が、食い入るように浦原に目をやった。 「よせ斑目!」 冬獅郎が、畳に転がしてあった刀を一角が掴むのを見て、一喝した。一角は刀の鯉口を切る手こそ止めたものの、声を荒げて怒鳴りつけた。 「そりゃねぇよ浦原さん! いざって時に瀞霊廷を護れないんじゃ、なんのための先遣隊か分かりゃしねぇよ! なんでそんなことになってんだ!」 「『なんのための先遣隊』……ですって?」 浦原が、自嘲のような笑みを頬に浮かべた。 「何が言いたいんです?」 弓親が、一角を制しながら、浦原に向かい合った。 「日番谷隊長」 浦原は、そこで冬獅郎に視線を振った。 「どう思いました? 先遣隊のメンバーが発表された時。恐らく、総隊長直々の指示だと思いますが」 「……俺は一度、断ったんだ」 記憶を探るように、ゆっくりと冬獅郎は言葉を返す。 「その時指名されたのは、俺と松本、阿散井、斑目、綾瀬川の5人だったが、そこまで現世に行けば瀞霊廷の戦力に影響するだろ。 それに俺の力は、現世のように人間が密集した場で使うには影響範囲がでかすぎる。まして、相手が破面じゃ手加減もできねぇしな。でも総隊長は、聞き入れなかった」 「私は、初めはメンバーに入っていなかったのですか?」 ルキアが怪訝そうに眉を顰める。冬獅郎は頷いた。 「お前は、直前になって朽木隊長がメンバーに入れろと言って来たんだよ。お前は黒崎と懇意だし、浮竹も承認済だっていうから受け入れた」 一角が、いらいらと貧乏ゆすりをしそうな態度で身を乗り出した。 「はっきり言ってくれよ浦原さん。一体何のための先遣隊だったんだ」 「わかりませんか?」 浦原の声は低く、まるで別人のようだった。 「先遣隊の目的は、破面の動向を探ることじゃなく。将来有望な死神達を、現世へ避難させることだったんスよ。優秀な死神の血を、絶やさないために。 だから総隊長は、貴方たちを選んだ。そして、アナタ方が瀞霊廷に戻ろうとした時、戦局上必要だったにもかかわらず、止めようとした。 戻ってきてしまえば、わざわざ現世へ逃がした意味がなくなる」 「瀞霊廷が戦場になった時、俺達に封魂術をかけるよう、あんたに命じたのは……」 「お察しの通り、総隊長です」 ダンッ、と畳を打つ音が響いた。叩きつけられた冬獅郎の拳が震えるのを、その場の全員は言葉を無くして見守った。 眠っていた夏梨が、 「ん……」 とわずかに声をあげ、身じろぎする。それと見た冬獅郎は、力なく拳を解いた。 「……つまり。私達は、ぬけぬけと術中に嵌って、結果的に生き延びさせられた……のか」 「封魂術により、霊圧も、記憶も失って現世に放たれた貴方がたを追うことは、破面にだって不可能だ。 そうして五年間、普通の人間として現世で暮らしてきたんですよ。……アタシを、貴方がたは恨んでいい」 誰も、立ち上がろうとしなかった。それ以上、口を開く者さえいなかった。 騙されたという怒りよりも、脱力感のほうが大きかった。今さら逆上したところで、何が変えられるというのだろう。 「もしもできるなら、山本総隊長の横っ面をぶん殴ってやりてえよ」 一角が、つぶやくように言った。その拳は、青筋が浮くほど硬く、握り締められている。 「でも、もうそれも、できねえのか……どうなったんだ、死神の最期は」 「……それは、俺が話す」 これまでずっと黙っていた一護が、口を開いたのは、その時だった。 「そうだてめぇ、一護! お前は動けたんだろ! 瀞霊廷には……」 「……行ってねえ」 自分を見下ろした恋次に、一護は視線を向けずに返した。 「どういうことだ!」 「行けなかったんだよ……!」 「黒崎くん……」 急に表情を変えた一護を、織姫が気遣わしげに見やった。 「確かに。貴方が話すのがふさわしいかもしれませんね。黒崎サン」 浦原の声は、いつになく優しく聞こえた。 「……五年前。俺は、瀞霊廷に行く方法を、一人で探してた。浦原サンの立場を考えれば、無理やり穿界門を創ってくれとはいえねぇ。そして、1ヵ月後。俺は穿界門に辿り着いたんだ」 まるで、物語を語るような、淡々とした声。それは、まるで別人のように聞こえた。 そして、一護の話は……文字通り、死神たちの心を凍て付かせるのに十分なものだった。
last update:2012年 8月2日