―― 今より五年前 ―― チッ、チッ、チッ…… 静まり返った部屋の中に、時計の音だけが響いていた。 一護は、電気もつけないまま自室のベッドに寝転がり、目を閉じていた。 夕日が沈み、濃厚な闇が降りてきているのは、瞼を閉じていても分かった。 ―― 静かだ、な。 たった一週間前まで、押入れの中にはルキアが隠れ住んでいた。互いに言葉を交わさないことも多かったが、それでも、静かだとは思ったことがなかった。 こんな風に、時計の音が耳に障ったことは、一度もなかったように思うのに。 一護は、ゆっくりと目をあけた。 開けたままの窓から風が吹き込み、カーテンがまくれ上がる。夜空の向こうに、満月がぽっかりと、顔を覗かせていた。 もしかしたらルキアも、どこかでこの月を見上げているのかもしれないと、ふと思う。 死神だった時の記憶を全てなくし、普通の人間として生きているはずの彼女も。 *** 一ヶ月前。瀞霊廷が破面に侵攻された時、突然心臓を直に叩かれたようなショックを感じたことを思い出した。 まるで目の前の火事が起こっていて、肌が炎でチリチリするように、瀞霊廷を包む霊圧を感じた。 今と同じようにベッドに寝転んでいた一護は、跳ね起きると同時に死神化した。 その足が向かったのは、日番谷先遣隊が定宿にしていた浦原商店だった。あの場所に行けば、瀞霊廷への穿界門もある。 「浦原さんっ、冬獅郎! 瀞霊廷が……」 息を切らせて浦原商店に飛び込んだ一護は、菓子屋に続く引き戸を開けた途端、浦原と鉢合わせした。 その時身に感じていた霊圧を浦原が気づいていないはずはないのに、何事もないような冷静な顔をしている。 「……シッ、大声を出さないでくださいよ」 今にも瀞霊廷に飛び込んでいきそうな一護をいさめた浦原の背後で、わずかに襖が開いている。 部屋の向こうに、寝かされた人影をいくつか見つけ、一護は物も言わずに家の中へと上がりこんだ。 襖を開け放った途端、一護は目を疑った。 「冬獅郎、ルキア、恋次……? 全員いるのか。なんでこいつら、寝てるんだ……?」 先遣隊の六人が、私服姿のまま畳の上に寝かされている。眠っているのか気を失っているのか、全員ピクリとも動かない。 何よりも一護が驚いたのは、この六人から全く霊圧を感じないことだった。まるで、ただの人間のように。 「あまり刺激を与えないほうがいいっスよ。禁術『封魂術』をかけたばかりですから」 「封魂術? なんだよ、それ……」 瀞霊廷が攻められているこんな時に、一体何が起こっているのか。一護が戸惑いも露に問いかけると、浦原はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。 「……いいでしょう。アナタは、知っておくべきだ」 十分後。浦原の説明を聞き終わった一護は、思わず頭を抱えていた。 「じゃあ、こいつらはこの後、人間として暮らす、てのか……? 待てよ、戦いはまだ始まったばかりだろ!」 「始まったばかりですが、すでに敗北は見えている。攻め込んだヴァストローデの数は十五体を越えると伝達がありました。 すぐに六人に封魂術をかけよと、総隊長より直々の命です。……総隊長は、分かってるんスよ。今瀞霊廷にいる死神は、誰も助からない。 死地に、わざわざこの六人を送り返す必要はない」 「……先遣隊については、分かった。でも俺は、そんな命令知ったこっちゃねえ!」 危険だから助けない、そんな理屈があるだろうか。危険だから、絶体絶命だからこそ、助けの手を必要としているのではないのか。 一護は身を翻し、地下空間へと続く扉に向かった。あの場所には、穿界門がある。今ならまだ、間に合うかもしれない―― 「無駄、スよ。穿界門は破壊しました」 ピタリ、と一護は足を止めた。 「何……? あんたが、やったのか」 声に、憎しみに近い感情が篭ったのは否めない。見返す浦原の、帽子の鍔の向こうの目がちらりと見えた。 「穿界門は、向こう側から開けることも当然できる。この門を使って、瀞霊廷から現世へ破面が攻め込むことも、ありうるんですよ。 だから門は壊すように。これも、総隊長の命令です。そして黒崎サン、アナタにも役目がある」 「役目……? 瀞霊廷を護る、それ以外のどんな役目があるってんだよ!」 「いまやただの人間と化した先遣隊の六人を、護ることです」 浦原は顎をしゃくって、六人を見やった。 「諦めてください、黒崎サン。アナタが瀞霊廷に行ったところで、戦況が覆ることはない。でもここにいれば、できることがある。1+1より簡単な選択でしょう」 「何、言ってんだよ」 一護は、ギリ、と歯を食いしばった。 「諦めろだ!? 諦められるかよ! アンタよく平気でそんなこと言えるな。死神は、今でもアンタの仲間だろ。瀞霊廷はアンタの故郷だろ。何も思わねぇのかよ!!」 背を向けたまま立ち尽くしている浦原の襟元に、一護は手をかけた。 怒りのままに大きく揺さぶった時、一護の拳にぽたり、と何かが落ちる。一護は思わず言葉を止めた。 ―― 涙? 「……アタシは、無力だ」 帽子の鍔をぐっと引き下ろし、浦原は一言、そう呟いた。気づけば、一護の手はするりと浦原の襟元から落ちていた。 その時、六人が寝ていた居間から、かすかに物音が聞こえた。 一護が慌てて覗き込むと、冬獅郎が起き上がるのが見えた。続いてルキアや乱菊も。 「冬獅郎! ルキア!」 声をかけた一護は、すぐに異変に気づいた。二人とも確かに目を開け、立ち上がってはいるが、一護の呼びかけに全く反応しない。 心ここに在らず。まるで、夢遊病の患者のようだった。 「……封魂術は魂を封じる術。記憶を封じると同時に、新たな記憶を植えつけることもできます。 これから彼らは、それぞれ別々の場所へ向かう。そして目覚めた場所で、人間として与えられた生活を始める」 浦原の言葉が、まるで現実味なく聞こえた。立ち上がったルキアのうつろな瞳は、一護を捉えてもすぐに通り過ぎてしまう。 言葉をなくした一護の隣で、ふらりとよろめいた。思わず、一護は腕を伸ばし、ルキアの肩を支える。 こんなにも、細い肩だったのか、とこんな時なのに愕然とした。動揺に、浦原の声が重なる。 「お願いです。この六人を護ってください、黒崎サン。この街の死神は、もうアナタしかいないんだ」 一体どうなってんだと、叫びたかった。どうして一瞬にして、こんなことになるんだ。 ただその時、自分が死神の仲間全員を失ったことだけは、理解できた。 もう二度と、ルキアと憎まれ口をたたきあうことはない。更木と刀を交わすことも、白哉と対峙することも、二度とない。 「……」 ルキアの感情のない瞳が、一護を見上げていた。その小さな肩を掴んだままだったのに気づく。離せば、きっともう二度と出会えない。 「……元気でな。ルキア」 かろうじて、そう言うのが精一杯だった。その言葉を最後に、一護は手を離す。 ルキアは、何事もなかったように一護の隣をすり抜け、玄関へと向かった。他の六人も、次々と後を追う。 六人の行き先を、見送る気にはなれなかった。行き先を知れば、必ず様子を確かめに行きたくなる。 しかし、死神である自分が近づけば、霊圧を完全に消して現世へまぎれている意味がなくなってしまう。 やがて。ピシャッ、と扉が閉められる音は、まるで一護から全てを閉ざしたように感じた。 そして。一護は生ぬるい日常に戻された。 *** 「ちくしょう……」 一護は月から目を反らすと、ベッドに仰向けになったまま、ひとり呟いた。しかし心の中では、自分の動揺を他人事のように見る、もう一人の自分もいた。 たった三ヶ月前は、敵だとしか思っていなかった。更に二ヶ月前は、死神、というものがこの世にいること自体、夢にも思っていなかった。 たった五ヶ月前に、記憶を巻き戻せばいいだけだ。そしたら、何事もなかったように生きていける。 それなのに。それは絶対にできないと、即座に否定する自分がいる。 瀞霊廷が滅びる。一護にはどうしても、ピンとこない言葉だった。あの白哉が、更木が、そう簡単に負けるとは思えない。 浦原は可能性がない、というようなことを言っていたが、本格的な戦いが始まった直後から敗北を確信するなど、性急すぎるように思えてならなかった。 力を手に入れたばかりのくせに生意気な、と言われるのかもしれないが、自分がいけば何とかなると、心の底では思っていた。 自分は、戦える。ルキアを救い出したように、瀞霊廷だって救ってみせる。それなのに、瀞霊廷への入り口がないなんて。 その時、控えめにドアがノックされ、一護は上半身を起こした。 「……井上、か?」 「うん。……入ってもいい?」 「ああ」 スッ、と戸が引き開けられる。廊下の蛍光灯の光りが、燈を消した部屋の中に長く差し込んだ。 ドアのすぐ外に立っているその姿は、影絵のように真っ黒に見えた。 一護はベッドから起き上がると、部屋の電気をつけた。まばゆい明かりに顔をしかめながら、カーテンを閉める。 入ってきた織姫は、彼女らしくない疲れた仕種で一護の勉強机の椅子に、腰を下ろす。一護は床に座り、織姫を見上げた。 「今までに、誰か死神の気配……感じ取れたか?」 「うん、毎日やってるんだけど……カケラも感じ取れなくて。でも頑張るよ!」 照れたように頭を掻いた織姫にも、疲れが見えた。 「お前。毎日どれくらいの間、霊圧を探ってるんだ?」 「うーん。平日だと4時間くらいかな?」 「4時間!」 一護は思わず大声を出して、織姫を見下ろした。 休日だとどれくらいの間試みているのか、聞きたくも無かった。 「平気、平気よ、全然。死神さんたちに比べたら……」 語尾は、小さくて聞き取れなかった。 「……くしょう、俺にも霊圧辿る力があれば」 ルキアにしっかり学んでいればよかった、と今更のように一護は後悔していた。 「この1ヶ月、ずっと探ってるんだけど、ダメ……。何も感じないよ」 織姫の声音が、泣きそうにかすれる。 「ねえ、黒崎くん。死神さん達は、大丈夫だよね?」 「心配ねぇって、井上。お前だって知ってるだろ? どんだけ死神が強いか」 確証は何もない言葉だったが、それでも織姫は、一護がそう言うのを待っていたように微笑み、頷いた。 「ごめんね、黒崎くん。しょっちゅう押しかけちゃって」 「かまわねーよ。……なぁ、井上」 一護は、織姫のほうを見ずに声をかけた。 「死神がこっちに来たら、穿界門を開けてくれるよう頼むつもりだ。そして、一緒に瀞霊廷に戻る。 先遣隊の六人を護るとは言ったけど、だからって瀞霊廷を護らないってことにはなんねぇだろ。あの六人は、護る。でも瀞霊廷も、救ってみせる」 正式な死神でない一護には、穿界門を開けることはできない。それならば、現世に死神が現れるのを待つしかなかった。 浦原の思いを裏切ることにはならない、と一護は思う。浦原だって本当は、瀞霊廷を護りたいと思っているはずなんだ。 迷いそうになるたび、頭の中にルキアや恋次が浮かぶ。迷っている一護を見れば、何をしているのだ、早く戻れと叱咤するだろう。 「……うん、分かってたよ」 織姫は一護を見返し、どこか寂しげに微笑んだ。そして、ポツリと続ける。 「一人で霊圧を追いかけてると、たまにすごく……怖くなるの」 それは、1ヶ月前の彼女だったらまず見せない、苦悩がにじんだ表情だった。 「どうしても、悪い予感のほうに頭がいっちゃって」 一護はとっさにどう声をかけていいかわからないまま、織姫を見下ろした。 「でも、大丈夫。黒崎くんが近くにいてくれれば。……がんばってみるね」 織姫は微笑むと、スッとその大きな瞳を閉ざした。 目を閉じていると、織姫の憔悴ぶりはますます目立った。目の下には暗い影が差しているし、頬も少し痩せたように思える。 もどかしかった。霊圧を感じ取る力が弱い一護には、織姫がどれくらい精神力を消耗しているのか、想像もつかないからだ。 一ヶ月探し続けて、一度も見つからない死神の気配。……また、嫌な予感がした。 これ以上見つからなければ、何か他の手を考えた方がいいのかもしれない。……それが何かは、まだ分からないけれど。 どれほどの時間が流れたのか、感覚が麻痺していた。ふと時計を見上げると、日付が変わるころだった。 そのときだった。 織姫がパッと目を見開き、一護は慌てて床から身を起こした。 「お……おい、井上どうしたんだ?」 その体が小刻みに震えているのを見て、一護は織姫の顔を凝視した。 「やちるちゃん……やちるちゃんが!」 目をこぼれそうなほどに見開いて、織姫が一護の肩を掴んだ。
last update:2010年 8月 1日