それから間もなく、死神化した一護は、夜空を駆けていた。 「あっち! 西の方よ」 織姫は、確かにやちるの霊圧を夜空に感じ取ったと言っていた。西の上空に向けて飛び続けて、もう随分時間が経っている。 見上げれば、傾きかけた下弦の月が見えた。見下ろせば、街のネオンは目がくらむほどに遠い。 ……と、思った時。ふと光が朧になる。月の光も、ネオンも消え、あたりは亡羊とした闇に包まれた。 「……なんだ?」 一護の独り言は、あっという間に闇に吸い込まれた。方向感覚が分からないような感覚に襲われる。 やちるの気配は、相変わらず一護には感じられない。ここで自分が叫ぼうが、何をしようが、何もできない。 誰も……いない。 ―― 俺は、無力だ…… 押さえていた感情が噴出したのは、突然だった。いきなり頬を流れた涙に、一護は戸惑う。 拳でぬぐってもぬぐっても、新しい涙は一護の意志に反して、次から次へと噴出してきた。 「ちくしょう……!」 気づけば、叫んでいた。 「ちくしょうちくしょう、ちくしょう!!!」 声と共に、勝手に涙が伝い落ちた。 こんな上空では、一護の叫びに気がつくものは居ないはずだったから。 ずっとずっと、怒鳴りたかった、わめきたかった。 浦原にしろ織姫にしろ、自分と同じくらい、またはそれ以上苦しんでいるだろう人たちの間に挟まれて、苦しいと発露することもできなかった。 八方塞がりのこの状態を、打開する方法が見当たらないんだ。 どうすればいい?? そのときだった。 ―― いっちー。 あどけない声が耳に届き、一護は我に返った。 「いっちー」 「……やちるか?」 一護は、信じられない思いで、死覇装の袖で涙をぬぐった。 「こっちだよ」 その声に目を凝らすと……そこにはいつの間に現れたのか、一護が夢にまで望んだ、穿界門があった。 「……ここか?」 一護は、心臓がどくどく波打つのを感じながら、その扉……障子の取っ手に、指をかけた。 スラリ、とほとんど何の抵抗も無く、障子は開いた。 その先に広がっていたのは……どこまでも続く、どんよりとした闇だった。 「やちる!」 一護は、ためらいなく、その闇の中に飛び込んだ。 その先に、かすかに。光が見える。そこからは、肌に突き刺さるような瘴気が漂ってきていた。 そのときには、一護ももう、気づいていた。光の先には、瀞霊廷があるのだと。 薄ボンヤリとした闇の中を、一護はまっしぐらに駆け続けた。何かに躓いて、肘を何かにかすったが、つんのめりながらも、光の方だけを見た。 「今行く!」 肩に背負った斬月の柄を、強く握り締める。 どんな現実が待っていても、ひるまぬように。 「……ん?」 その光が大きくなるにつれ、何か小さな、黒い点のようなものが、光の中に見えた。 それが大きくなり、人の形に見えた、と思ったとき…… 「うわ!!」 一護の体は、いきなり壁のようなものに突き当たり、背後に吹っ飛ばされた。 「アッハ! 相変わらず慌てんぼうだね、いっちー」 そのあどけない少女の声は、思いがけず近くに聞こえた。 「っつー……やちる! お前、よかった無事だったんだな!」 一護は鼻を押さえながらも、すばやく立ち上がった。そこに立っていたのは……微笑をたたえた少女、見間違えようも無い草鹿やちるだった。 「やちる……って、なんだこの壁みたいなやつは?」 やちるに近づこうとしたとたん、また壁に阻まれた。暗闇の中で手をやると、目に見えない壁にダン、と手のひらが着いた。 一護とやちるの立つ幅は、わずか1メートルほど。二人の間を阻んだ壁が、ピシッ……と、わずかに稲妻のような光を放つのが見えた。 「んー……」 やちるは、人差し指を口元にやって、小首をかしげた。 「いっちー、そこは通行止めだよ」 「通行止めって、オマエな」 「だって、瀞霊廷なくなっちゃったもん。こっち来ても、もう何もないよ」 やちるが何気なく発した言葉に、一護は耳を疑った。 「お前、今なんて! 瀞霊廷が……どうなったって?」 「敗けちゃったの」 やちるの表情から、ふっと炎を掻き消したように笑みが消えた。どくん、どくん、と一護の中で動悸が高まるのを感じた。 「敗けたって……なんでだよ? 瀞霊廷は、隊長たちが護ってたはずだろ?」 ウン、とやちるは頷く。 「ひとり……いなくなっちゃった」 「逃げた死神がいたのか?」 一護の知る限り、隊長格の死神で、ただの一人も敵前逃亡するような者はいなかったはずだ。 やちるは、うなずくでも首を振るでもなく、そのまま続けた。 「でね。その、穴が開いたところから、破面が押し寄せてきたの。40日くらい前だったかな。あっという間に、乗っ取られちゃった」 40日前? 一護は、その言葉に耳を疑う。一護が瀞霊廷で膨れ上がる霊圧を感じ取って浦原商店に駆けつけたのは、一ヶ月前だ。 それよりも更に10日前に、瀞霊廷はすでに破面の巣窟になっていたというのか? 浦原は、それを知っていたのだろうか? 「……やちる。それは……」 いろんな思いが頭の中を渦巻き、すぐには次の言葉が出てこなかった。 「ももちゃんはね」 やちるは、頬に少しだけ、笑みを浮かべながら続けた。 「そうちゃんが、大好きだったの。ホントにホントに、好きだったの」 「そ……そうちゃん?」 「藍染惣右介」 一護を見上げたそのピンクの髪が、風にふわり、と揺れる。 「だから……そいつは、瀞霊廷を裏切って、藍染についたのか」 それが、どれほどの結果を招くと思っているのだ。 「ヒトを好きになっちゃいけないの?」 やちるの質問が、激情にかられた一護の耳に、涼やかに聞こえた。一護はやちるの無心な顔を見下ろした。 「……ダメじゃねえ。ダメじゃねえよ。でも、犠牲になったものがデカすぎるだろ!」 「そうだね」 やちるは、瞳をゆっくりと閉ざした。 「でもあたしは、ももちゃんの気持ち、少しだけわかるよ」 「瀞霊廷は! どうなったんだ!」 その、どこか諦めたような表情が、一護の焦りに拍車を駆けた。 「みんな戦ったんだけど、敵さんがすごく、強かったの。みんなでまとまって戦おうとしたんだけど、すぐに一人ひとり、引き離されちゃった」 「なんだって……」 「あたしはね。やることがあってきたの」 闇に飲まれて今まで見えなかったが、やちるは自分の身長くらいの斬魂刀を携えていた。 音も無く、それをスラリと引き抜くと……その刀が、朧な光を放つ。光に照らされたやちるの顔は、泥とも、血ともつかないもので汚れていた。 「これが、最後の穿界門だから。壊さなきゃ」 「壊す……なんでだよ!! なんでそんなことする必要がある!!」 一護の心を、イヤな予感が暗雲のように広がってゆく。 やちるは、どこか寂しげな微笑を浮かべた。 「穿界門を壊せば、瀞霊廷から出ることも、入ることもできなくなるの。敵を閉じ込められるよ」 これも、総隊長の命令か。気づいた一護は、唇を噛み締めた。 瀞霊廷から空座町へ、穿界門を通じて破面が出てこないよう、浦原商店の穿界門を壊させたのだと思っていたが、それどころじゃない。 瀞霊廷から外の世界へ通じる門を全て破壊しようというのか。……それが導く結論は、ひとつしかなかった。 「じゃあ! お前らはどうなるんだよ! この状態でヴァストーデと一緒に閉じ込められて、勝ち目あんのかよ!!」 確かに、瀞霊廷に敵を閉じ込めれば、それ以外の世界……現世や王廷は助かる。だが……死神はどうなる? 「自分達を犠牲にして護られたって、ちっとも俺達は嬉しくなんかねぇぞ!!」 その、表情から消えない微笑の壁を、何とか打ち破りたくて、一護は声の限りに叫んだ。そしてやちるに手を伸ばす。 「こっちへ来い!!」 「ダメだよ。だって、穿界門を壊すには、こっちからじゃなきゃ、できないもん」 「だから、壊すなって言ってんだ! 諦めんなやちる!」 諦めるな。その言葉に、やちるはにっこり笑った。 「いっちーのそういうトコ、大好きだよ」 笑みをたたえたまま、一歩後ろに引いた。手にした斬魂刀は、ますます光を増してきている。 「いっちー。つるりんはね。本当にケンカが好きだから、現世でもし会ったら、相手してあげてね。 ゆーみんは、キレイ好きだから。手を洗ってから会わなくちゃ『美しくない』って言われちゃうよ? ひっつんはねー……」 「やちる、やめろ」 「ひっつんはね、小さいとか言ったら怒るよ! そのうち背、伸びると思うんだけどなぁ」 「やちる!!!」 一護は、大声を出して、しゃべり続けるやちるを遮った。 「いっちー、お願いだよ」 その時、やちるは不思議な笑みを浮かべた。 「みんなのこと、あたし大好きだよ。だから護ってあげて」 ダン!!! 返事の変わりに、一護は結界を拳で叩いた。拳がミシリと音を立て、血が飛び散っても、一護は結界を叩き続けた。 「いっちー、この結界、そっちからは壊れないよ」 「お前は……こっちへ来るんだ!!」 「剣ちゃんが、死んだよ」 不意に、やちるがそう言った。 「あァ??」 結界に集中していた一護が、その言葉の意味を理解するのには、しばらく時間がかかった。やがて、一護は血が流れる拳を、結界から離した。 「なん……っつった? 今」 「剣ちゃんが……死んだよ」 やちるは、繰り返した。その大きな瞳に、あっという間に涙が膨らみ、頬から零れ落ちてゆく。 しゃくりあげ、その場にかがみこんだやちるに、一護は手をさし伸ばそうとした。頭を撫でようとしても、その指先は届かない。 「やちる」 更木のことが自分の全てだと、満面の笑みで言い切っていたやちる。 ―― 剣八…… 死んだなどとは、信じられない。でも、泣きじゃくるやちるを見れば、それが嘘でないのは明らかだった。 それでも。なんとか、やちるだけでも連れ戻さなければ。そう思った瞬間、涙を拭いたやちるが、急に斬魂刀の刀身を、結界に押し当てた。 「やちる!!」 しまった! その行動の意味に気がついた時には、その斬魂刀から放たれた光が、辺りを真昼のように照らした。 ぐにゃり、と空間が歪む。はるか後方に見えていた穿界門が、音も無く砕け散るのが見えた。 「もし、現世のみんなに会ったら、伝えて」 やちるの、涙に光る大きな瞳が、まっすぐに一護を見つめていた。 「あたしたちの後を追ってきちゃ、絶対にダメだよ、て」 「待て……!」 手を伸ばす一護に、ふわりと微笑を返す。そして、迷いない動きで、一護に背を向けた。 「馬鹿野郎、戻れ!」 声を限りに怒鳴ったが、一護自身も、やちるの姿も、どんどん闇に飲まれてゆく。 ぼんやりとした景色の中。やちるの姿が……ふわり、と揺らめき……光り輝くのが見えた。 ―― え。 目を見開いた時には、やちるのいた処は、ぼんやりとした光の粒子に包まれ……やがて、消えた。 ―― 「死神というのは、人間と違っていてな。霊子から生まれ、霊子に戻るのだ」 何気ない会話の中で聞いたルキアの声が、耳によみがえった。 ―― やちる。 そうか。 お前は、もう、とっくに…… 次に気がついたとき、一護は、闇の中に立ち尽くしていた。 しかし、見下ろせば町の明かりが見える。上には、月が煌々と輝いている。 「……お……」 ―― いっちー、お願いだよ。 やちるの声が、サァッと真っ白になった一護の脳裏をかすめてゆく。 ―― みんなのこと、あたし大好きだよ。だから護ってあげて 「おお……」 どこにも、気配を感じない。 やちるも、穿界門も、瀞霊廷も。 「うぁぁぁ!!!」 一護の慟哭が、闇の中に響き渡り……そして、闇に飲み込まれた。
last update:2010年 8月 8日