それから、五年後の春。
一護はジーンズにトレーナー、ジャケットというラフな格好で、大学の構内を歩いていた。肩からかけている、A4版が余裕で入るサイズのがっしりした鞄が、医学生らしい。
友人と談笑しながら校門まで歩いてきた一護はふと、門の入り口に目をやる。守衛の男性に話しかけられ、頭に手をやって照れている女性を見つけて、眉間に皺を寄せた。
「いやあなたみたいな綺麗な人、初めて見ました! よかったらぜひ今度」
「守衛サーン、仕事に戻ってくださーい」
ガッ、と守衛の肩を掴んで背後から話しかける。
「黒崎くん!」
パッと笑みを広げた織姫は、二十代になってぐっと大人びている。化粧をするようになったからかもしれない。
ちっ彼氏持ちか、という守衛と、お前こんな美人を、という友人の羨望のまなざしを受けながら、
「じゃーまたな」
一護は織姫を連れ、その場を後にした。

「お前よー、大学まで来なくていいんだぜ」
しばらく歩いて振り返って見れば、そこに織姫はいない。ん? と思って背後を見ると、ヒールが溝に嵌ってウンウン唸っている姿を後方に見つけた。
「えっ、なにー? 黒崎くん!」
「……もういい。ほら、手、つかまれ」
慌てて戻り、腕を出す。ごめんね、と言って腕に捉まり、ヒールを救出した織姫の指先の感触に、ドキリとする。男子高校生じゃあるまいし、と自分でおかしくなる。
男子が多い医学部の中では、女子も男子化している場合が多く、織姫のような女子度満開ぶりは目だってしょうがないのだ。
大学構内を一緒に歩けば、あからさまに振り返って見る男子学生も少なくない。
しかも相変わらずのおっちょこちょい振りで、転んでみたり何かを落としたり、声をかけられる隙だらけなのだ。

織姫には、いつも世話になっている。どこかのカフェでケーキでも奢るか、と、数少ないレパートリーを考えていた時だった。
ふと、思考が止まる。そして、上空に視線を向けた。ハッ、と見上げたのは織姫も同時だ。
「……破面。また……」
「悪ぃ井上、ちょっとここで待っててくれ」
一瞬強張った表情をすぐに元に戻し、織姫を見下ろす。しかし織姫は、心配そうに見返してきた。
「……大丈夫? 黒崎君」
「大丈夫だよ。俺があんな破面に遅れ取ると思うか?」
織姫が心配しているのはそんなことではない、と知っている。しかし敢えて一護は気づかない振りをし、一瞬で死神化した。
「すぐ戻る」
そう言い残し、ぐん、と上空に飛び上がった。



この五年、死神の姿を見ることはなかったが、それと真逆に虚や破面の類はぐんと増えた。
死神の支配が及ばなくなったため、これ幸いと重霊地である空座町に現れているのだろう。
街一番の、三十階建ての建物の屋上に降りた一護は、風のにおいを嗅ぐように上空を見上げる。
「……あっちか」
この五年で、霊圧探査の能力は飛躍的にあがっていた。
すぐに、屋上の柵を蹴り、東へと向かった。

ぽつんと上空に浮かぶその人影は、遠くからでもよく目立った。急行してくる一護の霊圧に、振り向いた破面と目が合う。
アジューカスか、と一護は判断する。人型に近いが完全ではなく、その風貌はどことなく獣に似ている。
口からは長い牙が伸びており、爪も異様に長い。半人半獣のような外見だった。一護の死覇装を見て、その黄金色の目が見開かれた。
「死神……? まさか。もう滅びたはず」
一護は動揺を見せず、は面を睨み返す。
「てめえは何を知ってる? 瀞霊廷に行ったのか」
「いや? あんなトコ、霊圧が渦巻いてて近寄れたもんじゃねぇよ。結界もあるしな」
ただの噂レベルか、と一護は嘆息する。誰も近づかないのか、近づいたものは戻らないのか、瀞霊廷の情報を持っている破面には一度も出会わない。

「なるほど。たった一人、間違えて生き残っちまったってクチか」
破面は、腰に帯びた刀を引き抜く。
「一人で何ができる。最後の死神、俺が殺してやるよ」
そう言うなり、一足飛びに一護に向かって斬りつける。愉悦に歪んだ顔が、目の前に迫った。
一護は、避けもしない。刀を引き抜きさえしなかった。破面の動きが、止まってみえる。隙だらけだ、と思った。
突っ込んでくる破面の胴体に、思い切り拳を打ち込む。ぐっ、と何かが潰れたような声を立て、破面は刀を取り落とした。

「な、なんだ、てめえ……死神、じゃねえのか」
腹を両手で押さえ、内臓が破裂したのか血を口から流しながら、破面がよろよろと背後に下がる。
死神がこんなに強いはずがない、と恐怖に満ちた表情が物語っている。それを、一護は追った。
「死神だぜ、俺は。これ見たら分かるだろ」
無造作に、肩に背負った斬月の刃を引き抜くと、破面の顔が見る見る間に引きつった。
「やめろ、何もしねぇ、二度とこの街には来ねぇよ、見逃してくれ!」
一護はスッ、と目を細めた。一人でこの街を護り始めてから、なんど破面から同じ言葉を聞いたことか。
「……悪ぃな。破面だけは、絶対に許せねぇんだ」
言葉に篭った憤怒、とさえいえる感情に気づいたのだろう。破面は、今にも泣きそうな顔をした。
一瞬奔った太刀筋は、破面には見ることも出来なかっただろう。痛みもほとんどなかっただろうと思う。
黒い霞と化して消えた破面に、わずかに瞑目すると、一護はその場から背を向けた。



「井上、お前、こんなトコまで来てたのか」
織姫の気配を辿った一護は、ただ真下に降りていくだけでよかった。すぐに、ぜえ、ぜえと息を切らしている織姫の隣へ降り立つ。同時に人間の姿に戻った。
鞄を担ぎなおし、汗だくの織姫を見下ろした。
「待ってろって言ったのに。それに、戦ってるとこには近づくなよ」
「だって、もし黒崎君が怪我したらって……」
「大丈夫だよ。あんなレベルの破面に負けたりしねえよ」
そう言ったのは、やせ我慢でもなんでもなかった。この五年で、自分の腕はとんでもなく上がったと思う。
アジューカスは、以前なら虚化してやっと倒していたレベルだが、今では始解しなくても倒せることが多い。

織姫は息を弾ませたまま、背後の壁に寄りかかった。その華奢なバッグを、一護が引き取る。
「うん……今は、ね」
織姫の視線は、古い傷がいくつも残っている一護の腕に向けられた。
「ごめんね。あたしがもっと早く着いてれば、こんな傷残らなかったのに」
この五年間で一護が破面と戦った数は、ゆうに3ケタを超えている。初めは、毎回苦戦していた。
「バカヤロー。今、誰のおかげで生きてると思ってんだ」
そう言って、ニヤリと笑う一護の表情に、もう影は無い。

織姫は、スッと視線を落として口を開いた。
「戦い方、変わったよね。黒崎君。五年前、やちるちゃんのところから帰ってきてから」
「……え」
やちるの霊圧を追い、一人で戻ってきてから、「あの時」何があったのか、一護も語らず、織姫も聞くことはなかった。
「自分をね、護ろうとしない戦い方になったよ。……だからあたし、黒崎君が心配なの」
そうかもしれない、と一護はそれを聞いて、認めざるを得なかった。
傷を追うことを、厭わなくなった。そして決して、劣勢でも逃げなくなった。
「狂ったような」戦いぶりにも見えたのだろう。あの破面が、異様なものを見るような目で、自分を見てくることも何度もあった。
破面が、憎かった。何度血を浴びても、その怒りは全く、収まるすべを持たなかった。

「……俺は、変わっちまったかもな」
自嘲気味に呟けば、織姫は首を振った。
「戦い方は、変わったよ。でも黒崎君自身は、変わらないよね。黒崎君は優しい人だもん。……だから心配なの。あたし、一緒に戦えなくて、ごめんね」
俯いてしまった織姫の頭を、ぽん、と指先で叩く。弾かれたように顔を上げた織姫に、背中を向けて歩き出した。
「いいから、行こうぜ。なんかおごってやる」
「う、うん! ありがと……」
高いヒールを気にしながら追ってくる織姫の頭は、自分よりずいぶん低くなっている。
「俺が必要なのは、戦ってくれる奴じゃねーよ。ただ隣にいてくれる奴だ」
織姫がいなければ、今生きていなかった。肉体的にも、精神的にも。
「ヒトは、一人じゃ生きられねーからな!」
それは、この五年間で毎日のように、思い知らされてきたことだった。


そして、「その瞬間」は、突然にやってきた。
「!」
ふたりの動きが、同時に止まった。


「黒崎君っ、この霊圧!」
「あ、ああ」
精神を研ぎ澄まし、そのかすかな霊圧を追いかける。織姫が、一護の腕をぐっと握り締めてきた。
「朽木さん……乱菊さん……冬獅郎君も! 黒崎君も分かる?」
「……ルキア」
五年前までは、当たり前のように隣にいた霊圧。それは、年月を経ても当たり前のように「彼女」のものだと分かった。
一護を驚愕させたのは、あの先遣隊の六人の霊圧を、同じ場所で感じたからだ。しかも、その場所を追った一護は愕然とする。
「クロサキ医院じゃねぇか!」

五年前、それぞれの新しい記憶を埋め込まれ、人間としての生活を始めたあの六人。
あの後、別々の人生を歩いているはずだ。それなのに、再会してしまう可能性は、一体どれくらいなのだろう?
「……出会っちゃ、まずいんだよ……」
思わず、呟いていた。それは、浦原から聞かされていたことだ。
六人が集まれば、互いに微細な霊圧に刺激され、封じ込めたはずの記憶が断片的にでも戻る可能性があること。
そして記憶が戻ると同時に霊圧も戻り、封魂術じたいを破ってしまう可能性があること。もちろん、わずかな可能性ではある。

「悪いな、もう一回待っててくれ、あの六人を引き離してくる」
俺は何を言っているんだ?
しゃべっている自分の口が、別人に思える。
動揺……していた。この5年、凍り付いていた心が、突然溶け出したように。
クロサキ医院までは、瞬歩を使えば、全力で5分もあればたどり着ける距離だった。
「黒崎君」
再び死神化しようとしたとき、織姫の声に振りむいた。その瞳に、涙が溜まっている。
「黒崎君、今……嬉しそうな顔、してるよ」
数秒、二人の目が合った。一護はほろ苦い笑みを浮かべ、その場を後にする。



一人でいれば完全に隠れるほどに微細な気配。しかし、六人も集まれば、このように漏れ出してしまう。
これでは、破面にも気づかれかねない、と思う。これが偶然なのか、何かの符牒なのか、一護には見当もつかなかった。

ぜえ、ぜえ、と己の息が弾む。
心を満たしていたのは、喜びと焦燥、そして不安が入り混じった気持ちだった。
あの六人がこの五年、どんな人生を歩んでいたのかはわからない。別人のように性格が変わっている可能性だってある。
そうでなくても、見知らぬ者を見る、温度の無い瞳を向けられるのは間違いない。彼ら彼女らは、一護のことを覚えていないのだから。
それでもいい。一護はそう思った。

あの六人を何事もなかったかのように、それぞれの人生に戻らせなければならない。ほつれている過去に、気づかせてはならない。
自分の役割を自覚しながらも、どうしても嬉しいと思ってしまう自分に、一護は唇を噛んだ。
もう一度、「一護」と呼んで欲しい。そして、もう一度共に戦えたなら。
「……駄目だ」
一護はクロサキ医院の家にたどり着いた瞬間、頭を振って考えを振り払った。


「ただいま!」
いつにない緊張感と共に、玄関に足を踏み入れる。その途端、
「一兄!」
泣きそうな顔をした夏梨が、リビングから玄関に飛び出してきた。
夏梨には、当時の事情は何も話していない。自分のことを覚えていない死神達を見て、混乱するのは当然だろう。

どくん、どくん、と鼓動が胸を叩く。リビングに足を踏み入れた瞬間、一護が目にしたのは、呆れるほどに変わっていない、「あの」六人だった。
「一兄、この人ルキアちゃんだろ? ここにいるの、冬獅郎だろ? みんな、あたしのこと知らないっていうんだ。あたしがオカシイのか?」

一護に向けられた瞳が、他人を見るそれだったのは、確か。でも、噴き上げるように体の奥からこみ上げてきた懐かしさに、一護は一瞬心を奪われた。
―― 変わってねぇ、な。
ルキアは相変わらす強い瞳でそこにいたし、隣には恋次がいた。
一角と弓親の眼光は、何かに飢えているかのように鋭い。そして、程よい距離を保ちながらも、身内のような空気を漂わせた、冬獅郎と乱菊。

―― 「約束だよ」
一護は、やちるの言葉を思い出す。瀞霊廷を、護れなかった自分が唯一、今でも守れるただ一つの約束。
この六人を、今のままで。幸せに暮らせるように、護りつづけること。
「……夏梨。この人たちは、別人だよ」
夏梨にはかわいそうだが、他の言葉は思いつけなかった。

ただ、夏梨がこれほどまでに冬獅郎のことを思い詰めていたとは、迂闊にも泣きじゃくるのを見るまで気づかなかった。
戦いに関わらないこの妹までも、小さな胸を痛めていたのかと思うと切なかった。
諦めろ。そう言ったのは、半ば自分に言い聞かせるためでもあった。
目の前にいる六人は、確かに一護と共に戦った死神でありながら、二度とその記憶を取り戻すことはない。会話を交わし合う事もない。
諦めろ。一護はもう一度、心の中に刻み込むように呟いた。


一人、また一人とクロサキ医院を出てゆくのを、一護は見送った。もう、会うことはない。そのつもりだった。
「恋次、長居するのはよくない。そろそろ行くぞ」
ソファーに落ち着こうとする恋次を、きびきびした動作でルキアが引き起こす。何だよ、としぶしぶながら恋次が従う。
それを見た一護は、思わず笑みを浮かべた。死神だった時も、この二人の関係は、こんなだった。
冬獅郎と乱菊。一角と弓親。恋次とルキア。この組み合わせで、今も親密に暮らしていることに驚いたが、
死神時代にどれくらい身近にいたのかを考えれば、それは偶然と言うよりも、必然のように思えた。

一護が笑ったのに気づいたルキアが、顔を上げる。もの言いたげな、大きな瞳を向けられる。
「一護、と言ったか。世話になったな、ありがとう」
「一護」。その言葉をその唇から紡がれた瞬間、胸にこみ上げたのは、切なさだった。あの頃と同じ声、同じ表情。
思わず、ルキアに向かって一歩、踏み出していた。

「?」
ルキアが不思議そうな顔で見上げる。一護はかろうじて、ルキアの肩に手を置くことで自分を抑えた。
「……元気でな。『ルキア』」
五年前、同じ言葉をかけた時、ルキアは忘我の表情を浮かべていた。しかし今、ルキアはわずかに震えて、一護を見返してきた。
「……」
数秒、沈黙が流れる。まずい、と思った。不完全な術だとは聞いていたが、こんな一言でも綻びを生じさせるものなのか?
しかしルキアは、すぐに何事もなかったようにするりと隣を通り過ぎる。振り返ったが、彼女は一度も振り向かず、廊下へと姿を消した。


last update:2010年 8月 8日