吹き抜ける風は春にしては生ぬるく、季節が夏に向かっていることを思わせた。
人通りのない、真夜中の暗い道。切れかけた街灯がジジ……と音を立て、蛍光灯に蝶がまとわりつく。
ぼんやりとした光の中でパッと散った燐粉が、弓親の目にやけに儚く見えた。

まだ手はある、と言い切った日番谷の言葉が、胸をよぎっていた。
おそらく残された手段と言うのは、一角に答えていた、完成せずに終わったヴァストローデの対処方法と関連があるのだろう。
ただ、具体的にそれがどういうものなのかは、想像の域をでなかった。ただ彼が言うことなら、何かしら見つかるだろうと言う漠然とした期待だけがあった。

先遣隊として現世にいた頃から思っていたが、全ての隊長の中で、もっとも彼はバランスの取れた采配をした。
全ての隊長の中で最強ではなく、最も老獪でもなく、最も博識というわけではない。全てを兼ね備えた人物というなら、総隊長自らか更木か、卯ノ花か京楽辺りが選ばれていただろう。
しかし、自分が皆を、引いては瀞霊廷を護ってゆくのだという意志の強さで、日番谷冬獅郎の右に出る者はいなかった。
―― 隊長の自覚、か。
自分達を犠牲にしても、あの少年をぐいと未来へ押し出した他の隊長の意志と、
自分達を除く死神が全滅し可能性が高い、この過酷な状況の中で、まだ諦めていない日番谷冬獅郎の背中。
五年経ち、生死の断絶に阻まれても、通じるものはあるのだろう。

もし、選ばれたのが更木だったら。それを思って、弓親は思わずくすりと笑う。
現世で暮らせるとは到底思えない上、こんな状況下に立たされたら、浦原の制止など意にも介さず、そのまま瀞霊廷へ突っ込んでいただろう。
そもそも彼は、派手に戦って派手に死ぬのが至上の喜びだと信じていたクチだから。
彼が最強だと信じる気持ちは弓親の中で変わらないが、彼が選ばれなかったのは正解だと思った。



「気に入らね――――――なあ」
不意に、一角が夜空を見上げ、大声を出した。
「どれがだい?」
思わず弓親は聞き返した。気に入らないことなんて、両手で数え切れないくらい聞かされた気がした。
「山本総隊長の采配だよ。俺ら以外の人選はまだ分かるが、俺達を戦いから外すなんてよ。あの四人だけにしとけってんだ」
「僕たち六人は、現世で何も知らずに子供でも作れってことだったんじゃない? 死神から生まれた子供は、真血だ。強力な死神になる可能性が強いからね。……黒崎一護のように」
「恋次と朽木、日番谷隊長と松本なら分かるぜ。俺達は?」
「いざとなった時の戦闘要員、とか?」
ひょい、と一角が振り返る。
「悪くねぇな、それ」
「一角ならそう言うと思って、更木隊長が選んでくださったんだよ、きっと」
更木ならこんな時、てめえらのためにおいしいトコ残してやったんだよ、とでも言うだろう。
まあ、おいしい戦闘は部下に残すというよりも、自分で全て食らってしまうようなタチではあったけれど。

「……ねぇ、一角」
「何だよ?」
「いや。更木隊長が亡くなられたのは、間違いないんだろうね」
口にしてみると、それは意外と湿っぽくは無く。ただ、それは厳然たる事実なのだということが、自分の声を聞くと同時に分かった。
「あぁ」
一角も同じ思いだったのだろう、すぐに頷いた。
「もしも生きてたら、王廷なんぞに、こんな楽しそうな戦いを任せておくはずねえ」
「そして……副隊長も」
「……だろうな」
一角は、うつむいた。


―― 剣ちゃんは、あたしの全てだから。
なんの衒いもなくそう言い切っていたやちるの、満面の笑みを思い出す。
そんな風にあっけらかんと言えるうちは、まだ分かっていないんですよ。そう言うと、「分かってるもん!」とふくれっ面をされたことを思い出す。
悪かった、と思う。その気持ちは、きっと「本物」だったのだろう。こんな形で、思い知らされたくはなかったけれど。
無骨な男ばかりの十一番隊ではあったが、皆、彼女の幸せを願っていたのだ。

どうせ、更木がどれほど離そうとしても、ぴったり傍についていたのだろう。
そして更木と共に戦い、更木が死ぬと前後して、彼女も命を落としたに違いない。
誰かが誰かに、生き方を押し付けることなど傲慢だと分かっている。自分がされたら、相手が誰だろうが許さないだろう。
それでも。
「……普通の女性として、生きて欲しかったね。副隊長には。あの子はまだ、生き方を決めるには幼すぎた」
弓親の言葉に、一角は黙って、地面に唾を吐いた。

「……これから、祭りが始まるよ」
「あぁ。大物は後から来るって言うしな」
「だから。涙は最後にしなよ」
「うっせーよ」
一角は苦々しく吐き捨てるつもりだったのだろう。
しかし、その語尾は苦しそうに掠れた。まるで空気を求めるかのように、一角は空を仰ぎ見た。


***


弓親と別れた一角は、家へと帰る気にはなれず、河川敷へと出た。
当然のように暮らしてきたあの部屋も、今思えばただのママゴトのようにしか思えなかった。
一旦戦いに沸き立った血は、もう平穏を望んでいない。出来ることなら、いますぐ瀞霊廷へ突っ込みたいくらいだった。

死神として生きるか、人間として生きるかの選択肢。そんなものは、ハナから必要ないのだ。
人間として、偽りの過去を土台に生きた五年間。それは、死神として生きた何百年と比較すれば、吹けば飛ぶような過去に思えた。

自分には自分にしかできないことがある、と故郷を飛び出した気持ちも、
弓親と将来について語り明かした青臭かった時代も、この街も、全て。
不意に立ち止まった一角は、空座町の街を見下ろした。温かな家々の明かりが、闇をオレンジ色に切り取っている。


―― 「本当はね。僕ら以外の四人には、人間として暮らして欲しいけどね」
別れ際にそう言った弓親の気持ちが、分からない振りをした。そんなのありえねーだろ、と素っ気無く返した。
分かってたまるか、と思う。それでも。

治ったとはいえ、傷の負担は大きかったのだろう。話が終わってすぐに眠りについた乱菊を、じっと見下ろしていた冬獅郎の横顔を思い出す。
彼は、死神に戻るつもりだ。一角にはすぐにそれが分かった。
「ん……」
乱菊がかすかに身じろぎする。ふと我に返ったように、冬獅郎は顔を上げる。
そして、これが最後とばかりに、一瞬食い入るように乱菊を見ると、振り返ることなく、障子を開けて姿を消した。
あまりにも静かな、決別だった。
一緒に暮らしてきたんだろ。そんなんでいいのかよ。
そう、一角ですら言いたくなるほどに。
でも、今更どんな言葉が、二人の間にあるというのだろう。

それからすぐに、ルキアと恋次も立った。
「……じゃな。一角さん、弓親さん」
「ああ」
手を挙げて一角と弓親が答える。恋次はかすかに微笑み、先を行くルキアの後を自然に追った。
何の言葉も交わさないまま、夜道を肩を並べて去ってゆく姿は、まるで寄り添っているように見えた。

―― 「例え仮初の生活だとしても。貴方がたがすごした五年は『ホンモノ』だ」

ぶうん、と羽音を立てて、小さな甲虫が一角の袖に止まる。何気なく払い落とそうと手を近づけて、一角の動きが止まった。
今、吹き抜ける風が。感じる闇が。この小さな虫が指を這う感触こそが「現実」ではないのか。
一瞬、死神だった頃が全て偽りで、今の生活こそが本物に感じた。
こういう選択肢もあるのかと、不意に目が覚めたような気がした。人間として、このままの生活に戻る。

甲虫は、指先へ向かって移動してゆく。一角は、指先を夜空に指し示した。
かすかな音を立てて、甲虫が再び空へと戻ってゆく。
「……馬鹿馬鹿しい」
一角は独り自嘲うと、また歩き出した。







last update:2010年 9月 7日