―― 「おねえちゃん!」
はっ、と振り返った。すると、まだ走れるようになったばかりの幼い男の子が、横断歩道を渡って一散に駆けていくところだった。
横断歩道の向こうには、中学生くらいの女の子が笑みを浮かべて待っている。
大きく広げた腕の中に、男の子の小さな体が勢いよく飛び込む。
抱きとめた女の子が、ふと顔を上げ、じっと見つめていたルキアを不思議そうに見返した。途端、ルキアは赤面して目を反らした。

うらやましかったのだ。
自分にもあんな風に、呼ぶほうでも呼ばれるほうでもいい、求め求められる家族がいたならば。
その誰かを守るために、顔をしっかり上げて前を向いて、生きていけるに違いないと思えた。
こんなに心細く、寂しい思いを抱えて生きている自分は偽りで、いつか大切な「家族」を得たならば、本当の自分が顔を出すのだ――

「なんのことはない」
ルキアは、噛み締めるように呟いた。
口元にだけ浮かんだ笑みが、微笑なのか、自嘲なのか、自分でもよく分からなかった。
本当に、なんのことはない。やっと見つけた「本当の自分」も、誰かの背中を憧れと寂しさを乗せて見ていた。



五年前のことを、ルキアははっきりと思い出していた。
懐に、先遣隊選抜の辞令を収めて、ルキアは足早で朽木邸へと急いでいた。
脳裏には、さきほど隊長である浮竹と、雨乾堂で交わした会話が去来していた。
―― 「現世への先遣隊……ですか? 私が?」
―― 「ああ、そうだ。お前ならきっちり、役目を果たしてくれると思ってるぞ」
直々に辞令をルキアの前に置いた浮竹は、いつものように温かい微笑を浮かべていた。
いつも守るように浮竹の近くにいる二人の第三席の気配はない。珍しいな、と思ったが、特に気には留めなかった。
窓の外で蝉時雨が聞こえる。二人きりの部屋の静寂が、際立つ。

藍染が虚圏へと姿を消したすぐ後のことだった。虚圏の動向を探るための先遣隊。瀞霊廷の命運にも影響する、重要任務だ。
十番隊の日番谷冬獅郎を始め、他の同行者も松本乱菊、阿散井恋次、斑目一角、綾瀬川弓親と、実質副隊長以上の実力を持つ死神の名が並んでいる。
一護と懇意だから自分が選ばれたのかと思ったが、それでも誇らしい気持ちが胸を満たした。

―― 「ありがとうございます、隊長。お役に立てるよう、精進します」
―― 「ああ。日番谷隊長の指示を、俺の指示だと思ってよく聞くんだぞ」
まるで父親のようなことを言うと、浮竹は立ち上がった。そして、ルキアを見下ろしてさりげなく言った。
―― 「出立前に、白哉に挨拶をしていけよ」
―― 「えっ?」
―― 「ほら、いつ戻れるか分からないんだし」
―― 「あ、はい……」
浮竹の心遣いは痛いほどよく分かった。しかしどうしても、語尾が小さくなってしまう。
義兄を厭うているわけではない。しかし、白哉に報告するのは、苦手だった。
「その程度のことで、いちいち報告に来るな」。言葉に出されなくとも、そう言われているような気がして。
押しも押されもせぬ大貴族の当主である義兄に比べて、自分は姉がかつての妻だったというだけの縁で迎えられた、元々は赤の他人である。
戸籍上では「家族」でも、義兄は自分をどう思っているのか、なぜ傍に置いているのかと疑問が先に立つような関係だった。

浮竹は、そんなルキアを見ると、腰を落としてルキアの肩をぽんと叩いた。
―― 「そりゃ、お前の気持ちも分かるさ。白哉はあんなだしな。それでも、あいつはお前のことを思ってるんだぞ?
信じてやらないか、お前は白哉のたった一人の妹なんだからな」
そういう訳で、その時ルキアは白哉に報告すべく、義兄の自室へと向かっていたのだ。


「信じてやる」などとおこがましいことは言えないが、義兄が自分を思ってくれていることは、かつて自分が死刑宣告を受けた時に知った。
裏切り者の市丸に腹を貫かれながらも、ルキアを庇ってくれた。わずかな間だが、抱きしめられた温もりは忘れられない。
白哉は、不器用なのだ。きっと、自分と同じように。
分かっているのだが、何十年もの間、白哉との間に積み上げられてしまった沈黙を崩すには、まだ時間がかかるような気がしていた。
「まだ」。そう思えるだけでも、少しずつ自分達の関係は、変わっているのかもしれないが。
「……ルキアか」
部屋の前で膝を突いた時、ぴったりと閉められた障子の向こうで、白哉の静かな声が聞こえた。覚悟を決めるような気持ちで、声を押し出す。
「……兄様。ご報告があります。入ってもよろしいでしょうか」
「かまわぬ」
すぐに、涼やかな言葉が返された。

―― 「……という経緯で、先遣隊として現世へ赴きます。時期は未定ですが、しばし、屋敷を空けます」
言葉を選び、ゆっくりと報告する。五十畳はある広々とした部屋だった。
正座をしたルキアと、縦三畳分くらいあけて、背を向けた白哉が端座している。ルキアが入ってきても、振り返ることはなかった。
ルキアが報告し終わっても、しばらく返事はなかった。居心地が悪くなり始めた時、白哉が口を開いた。
―― 「そうか。励め」
―― 「はい。……失礼いたします」
これ以上、物思いにふけっているらしい義兄の邪魔はできないと立ち上がる。その時、不意に白哉がルキアを振り返った。
―― 「……兄様?」
いつもの、濡羽色の瞳がルキアに向けられている。見てもらえることを望んでいたはずなのに、まともに視界に収められると動揺が走った。
しかし、それは数秒のこと。白哉はすぐに、何事もなかったかのように、視線を前に戻した。


……ルキアが先遣隊に入れられたのは、瀞霊廷が滅びてもルキアが生き残れるよう、という白哉の計らいだと浦原は言った。
それは本当なのか? だから、義兄はあの時、振り返ったのだろうか。
あの時のまなざしを思い出そうとした。でも、思い出そうとすればするほど、視界はぼやけてゆく。


***


「……ルキア?」
恋次は、数歩遅れてついてきていたルキアの足音が止まったのに気づき、振り返った。
浦原商店から、自宅へと向かう道の途中である。住宅街はしんと静まり返り、蛍光灯の朧な光が、斜めに差し込んでいた。
「どうしたんだよ」
そういい終わらないうちに、言葉を止める。
見返してきたルキアの大きな瞳の中に、あっという間に涙が膨らみ、頬を零れ落ちた。
「兄様は、亡くなられてはおらぬだろう? 恋次。負けるはずがないのだ、兄様は強い方だから」

恋次にだって分かるはずがない、答えようもない質問だとルキアも分かっていたはずだ。
それでも問いかけたのは、何でもいいから救いが欲しかったのだろう。……でも、恋次には答えられなかった。
恋次が知る限り、朽木白哉は最強の男だ。彼が一護に敗北したと知っても、その思いは少しも薄らぐことはなかった。
逆に、立ってはいられないほどの重傷を負いながらもルキアを救った白哉に、人としての凄みを感じもした。
ただ無力に、破面に殺されるところなど想像がつかないのだ。
彼は生きているはずだ。そう信じる反面、やけに冷静に、生きているならこの場を静観しているはずがないと思う自分もいた。

「……落ち着けよ、ルキア」
こんな時に、気が利いた優しい言葉をかけてやれればいいのにとも思う。本当に、そうしてやりたいのに、口を出るのは無骨な言葉ばかりだ。
「……これから時間をかけて、分かり合えればと思っていたのに。これでは、あまりにも……」
「ルキア」
仲間を殺された時も、自分に死刑宣告が下された時でさえ涙のひとつも見せなかった気丈な少女が、嗚咽している。
「兄様に、伝えたいことがたくさんあったのに」
もう会えぬというのか。そういい終わる前に、小刻みに震えるルキアの肩を、恋次はぐっと引き寄せた。
そして、その胸の中に抱きしめる。ルキアはビクリ、と一瞬全身を震わせたが、何も言わず恋次の胸に収まった。

恋次の中をその時通り過ぎたのは、この少女を愛した、この五年間のことだった。
無くなるわけじゃない、と恋次は自分に言い聞かせる。
この少女が心に占める割合は、死神だったころも、この五年も。そしてこれからも、変わりはしない。


そのとき。風のように不意に、頭をよぎった言葉があった。
―― 「阿散井君は、朽木さんを護りたいんだね。好きなの?」
少女のようなあどけなさを残しながらも、やけにきっぱりとした、懐かしい声。
朽木家に養女として迎えられ、遠い存在になったルキアに、いつか必ず追いついてやる。そう仲間に打ち明けた日のことだった。
……雛森、桃。その名前に、胸がきりりと痛む。
まっすぐに質問を投げかけられたそのとき、恋次はいつになくうろたえたのだった。
―― 「ああ? 何言ってんだ。ルキアは家族みてぇなもんなんだよ。そんなんじゃねぇ!」
―― 「そうやってムキになるから疑惑は晴れねぇんだよ」
―― 「ま、阿散井君には朽木さんはもったいないよね」
―― 「なんだとコラァ! 吉良!」
―― 「そうやってムキになるから疑惑は晴れねぇんだよ」
―― 「って檜佐木先輩、今同じこと二回言ったよな?」

吉良、そして檜佐木。もう遠い昔、真央霊術院で学んでいたころの話だ。
すぐに忘れてしまうような何気ない会話。どうしてこんなに急にはっきりと、思い出したのだろう。
今日聞いた話を真実とするなら、吉良も、檜佐木も、もうこの世にはいないということになる。
雛森に至っては……裏切りは推測ではなく、冬獅郎や乱菊がその事実を目の当たりにしている。
彼女を、憎むことも恨むこともできそうになかった。
―― 生きていた。
そのことを喜ぼうとさえしている自分がいる。
彼女が変わってしまったとしても、恋次にとっては大事な同期だった。
そんな大事な存在を、裏切りにまで走らせたのは一体何なのか。その「何か」を、恋次は心から憎んだ。
確かに彼女は、時に聞いていて不安になるほど、藍染に心酔していた。いつから、何が彼女をそうさせたのだ?
無意識に、雛森の言葉を記憶の中から手繰り寄せていた。

―― 「いいなぁ、『家族』なんて。うらやましいなぁ」
あの時恋次の言葉を受けて、雛森は呟いたのだった。
思い人なんかじゃない、ただの家族だ。そう言ったつもりなのに、雛森は違うように受け取ったらしい。
雛森に思いを寄せ、彼女のことには何かと詳しかった吉良が、口を挟んでいた。
―― 「でも雛森君、君も流魂街に『家族』がいるんだろ? 弟みたいな男の子と暮らしてたって聞いたよ。君の弟なんだ、かわいいだろうなぁ」
優しい姉の雛森と、甘える顔も知らない弟。そんな美しい風景が頭をよぎったのだろうか。
でも雛森は、思わず、というように噴出した。そして、ようやく笑い止むと、人差し指を自分の眉毛の上に乗せて見せた。
―― 「こーんな眉してね。いつも怒ってるし、口を開いたら憎まれ口ばっかりなの。全然可愛くなんてないのよ。
周りの人は、不気味なくらい冷たい気配があるって怖がるの。周りの子供達もそれを感じ取って、逃げたり、苛めたり――」
そう言った雛森は、恋次の知らない顔をしていた。その「弟」を、心の底から心配し、いたわっているのが伝わってくるような横顔だった。
―― 「そりゃひどいね、僕が庇ってあげるよ!」
―― 「あたしもね、そう思ったの」
雛森はそのとき、遠くに視線を向けた。
―― 「あの子を護りたくて、死神の学校に入ったのかも。あの子が冷たい氷のようだっていうなら、
あたしは氷を溶かすあたたかい炎になりたかったの。……そして、これからもずっと変わらずに、一緒にいたかった」
あぁそうか、とそのとき恋次は納得したのだった。
どうして、あの穏やかで心優しい彼女の属性が「炎」なのか。

視線を恋次たちに戻した雛森は、微笑んでいた。あの時の寂しそうな表情が、ふと恋次の胸を突き上げる。
―― 「でもね、あの子、変わったわ。強い目をしちゃって。霊術院に入るつもりみたいだけど分かるの、あの子あたしよりももう強いわ。
……もう、あたしのことは、いらないみたい」
―― 「そりゃ違う!」
突然大きな声を出した恋次に、その場の視線が集まった。

―― 「違う……って、何が?」
戸惑った声で雛森に聞かれて、恋次は思わず口ごもった。戸惑わせるはずだ、恋次はその少年に会ったこともないのだから。
それでも、他人事とは、どうしても思えなかった。
雛森の話を聞き続けるうち、その少年と自分が重なってしまって仕方なかったからだ。

自分がその少年で、ルキアが雛森の立場だったら。
護られることを、潔しとしないはずだ。
護られるよりも、彼女を護る存在になりたい。そう思うから自分だって、今死に物狂いで強くなろうとしているんじゃないか。
彼女を超えようとするのは、彼女がいらないからじゃない、どうしても失いたくないから、なのに。
―― 「いや……なんでもねぇ」
会ってもいない少年に、自分のことを重ねすぎだ。そう思った恋次は、妙に気恥ずかしくなって会話を打ち切ってしまった。
それは、ささやかな……いずれは埋められるようなささやかな、すれ違いのはずだった。

―― そうか……
恋次は、ふと思う。絶対に、日番谷冬獅郎には伝えられないことだけれど。
彼女は、さびしかったのかもしれないな。



「……恋、恋次! 苦し……!」
胸元でくぐもった悲鳴を聞き、恋次は我に帰った。
「私を絞め殺すつもりか!」
いつの間にか、抱きしめた腕に力がこもっていたらしい。
「あ! 悪ぃ……」
胸板を押すようにして、ルキアは恋次から離れた。
「全く、おちおち悩むこともできぬな! お前といると」
残っていた涙を、指先で振り払う。照れを隠したかったのかもしれない、大きな声を出した。
「いきなり抱きついてくるわ、物思いにふけるわ、絞め殺そうとするわ、情けない顔をするわ。忙しい男だ」
「ちょっと待て。全部納得いかねぇが、最後のだけは違うぞ。情けないって何だ!」
「お前はいつだって私がいなければ、情けないだろうが!」
「何を……」
「だから、私も救われているのだがな」
不意にそう言われて、一拍だけ、脈が跳ね上がった。
目を赤くしたまま微笑むルキアの顔に、寂しそうな雛森の横顔が、重なった気がした。

俺はまだ、何も失っていない。恋次は唇をぐっと噛み締めた。
雛森は生きている。白哉だって、死んだのをこの目で見たわけではない。
そして、ルキアは今目の前にいる。

「恋次」
呼ばれて目を向けると、ルキアの意志の戻った瞳が恋次を見上げていた。

「私達は、死神だ」

凛としたその言葉に、恋次は押されるように、頷く。
「死神は死に涙してはならない。仲間の死にも、人間の死にも、虚の死にも」
それは、真央霊術院の教本に書かれている、基本中の基本。
「……死を司る者として、死の超越者であれ。か」
「面白いものだな。教本の中身はよく、覚えている」
ルキアはそう言うと、くるりと背中を向けた。ピンクのワンピースの裾が、揺れる。
「……例え、人間がそこまで、強くはなれぬとしても」
「お前」
「瀞霊廷に戻るぞ、恋次」
自らに言い聞かせるように、ルキアは続けた。
「瀞霊廷の滅亡、死神の全滅。どれも、この目で確かめたことではないだろう。万が一にでも生き残っている可能性があるなら、私はそれに賭けたい」
「……だな」
決めたな。ルキアの声音に、恋次はそう思う。揺れていた声が、ここにきて定まった。
「何事もなかったかのように、普通に現世で生きてくなんて……できるわけねーよ」
例え、それが総隊長初め、死神たちの総意にそむくことになったとしても。

「恋次」
先に立って、数歩歩いたルキアが、不意に振り返った。
「ありがとう」
そう言ったのは、この五年のルキアなのか、死神のルキアなのか。
その笑顔からは、もううかがい知ることは出来ない。
「……馬鹿ヤロウ」
恋次は微笑み、再び背を向けたルキアの後を追った。


last update:2012年 8月2日