冬獅郎が本をなくした、翌日の朝。 「うっ!」 誰かの腕が胴体を直撃し、冬獅郎は自分のうめき声で目を覚ました。隣にあるぬくもりを、しかめっ面で押しのける。 「てめっ、松本、寝相悪すぎ……」 「綺麗なお姉さん、お目覚めはいかがですか?」 ん? 耳慣れない声に、やや目を覚ます。視界に入ったのは、寝ぼけ眼で迫る異様な髪形の男だった。 艶めく黒髪は肩の辺りでバッサリと断ち切られ、長い前髪はあろうことか七色に染められ、触覚のように前に突き出している。 異物だ。 目にした瞬間、そう思った。 「誰だお前!」 叫ぶと同時に、冬獅郎は撥ね起きた。 オカッパ虹色男(と、冬獅郎が反射的に名づけた)は、目をしばたかせて見下ろすと……動じることもなく、再び迫ってきた。 「美しければ男だろうと女だろうと、僕の許容範囲だよ」 「俺は許容しねえ!」 ドカッ、と容赦なく男の腹を蹴りつけると、踏まれた蛙のような音を発した。その途端右足首に激痛が走り、冬獅郎は息を飲み込んだ。 何だ何だ? 一体何があったんだ? ズキンズキンと痛む足首を両手で押さえ、覚えのある痛みを頼りに昨夜の記憶を辿ろうとした。 改めて、部屋の中を見回す。そして、いつもの部屋に転がっていびきを掻いている、もうひとつの異物を発見する。 つるりと剃った頭を見た途端、げんなりする。そうだ、この頭が全ての元凶だったんだ。 *** 昨夜、深夜1時ごろ。 冬獅郎と乱菊は、黒と白のトレンチコートを羽織り、夜の街を並んで歩いていた。 子供の玩具のように色とりどりなネオンを抜け、閑静な住宅街に足を踏み入れたところだった。 「ねー、飲みに行かない?」 部屋にいた乱菊が、前後の会話の脈絡も何も無視して、いきなり言い出したのが夜の十時ごろ。 「ひでえ保護者だ。未成年を酒に誘うな」 机に中学校の宿題を広げていた冬獅郎はそうぼやいたが、この女の「行かない?」という問いかけは、むしろ「行くわよ」という意味だと知っている。 何だかんだ言っていつも、付き合わされる羽目になるのだ。まあ、夜歩くのも嫌いじゃない、と自分を納得させる。 ただ、乱菊のザルのような飲みっぷりは失念していた。 少し火照った頬に、まだ冬の冷たさを残した春風が心地よかった。くすくすと、乱菊の笑い声が背後から聞こえた。 「ねぇ、とーしろー君。そっち、家とは逆方向」 「……」 まじかよ、と思ってあたりを見回せば、確かに乱菊の言うとおりなのを認めざるを得ない。 うめき声とも返事ともつかない声を発して振り向いた途端、ゆらりと足元が揺れた。 「……お前、あの量の酒が、その体のどこに入るんだ?」 「確かめたい?」 「結構だ」 なまめかしく体を揺らした乱菊を肩で押しのけ、歩みを速める。 「あっ、ひどーい」 言葉とは逆に、全く堪えていない笑い声を上げ、乱菊は軽々と冬獅郎を追い抜いた。その背中が、少し小さくなる。 ぼんやりとした蛍光灯の光に照らされた後姿が、角を曲がって見えなくなる。 乱菊を追いかけるのを早々に諦め、空を見上げた。すると、こんな都会でも北斗七星は、はっきりと瞬いていた。 五年前まで暮らしたノルウェーでも、星は綺麗だった気がする……が、思い出そうとすると記憶はぼんやりと遠のいてしまう。 自分でも、どうしてこれほどまで、故郷や親というものに興味がないのか、不思議だった。 その時。 するり、と冬獅郎の背後から長い腕が伸びた。肩から前に回りこんだ、誰とも知れない指先に、顎を捉えられる。 やはり思ったより酔っていたのか、全く誰かの接近に気づかなかった。ぞわっ、と反射的に背筋に寒気がはしる。 「こんな深夜に女の子が出歩いてたら、危ないよ?」 耳元で囁いたのは、高めだが男の声だった。 「誰だ、てめえ!」 反射的に腕を振り払うと、その場から飛び下がり、男と向き合う。切れ長の瞳で睨みつけると、男は目を見開いて見返してきた。 「……あれ? 君、男の子?」 心から不思議そうなその声に、冬獅郎は一瞬でブチンと切れる。 身長ばかり伸びて、一向に筋肉が追いつかないため、遠目には背の高い女にも見えることを、実は気にしていた。 「俺のどこが女だ、言ってみろ!」 ふざけた髪型しやがって、と思う。何をどうオーダーミスすれば、そんなオカッパで七色になるのか。 女っぽい優男できっと美形なのだが、髪型のせいでとてもそうとは思えない。 奇妙な男は、日番谷が怒ったのを見ても、意にも介さないらしかった。 「男か女かなんて、些細なことじゃないか。問題は、美しいか・美しくないか、だよ。君は美しい。僕が言うんだ、間違いないよ」 ぴくり、と頬が引きつった。一瞬どこかの宗教かと思った。発言そのものといい、その言い方といい、気に入らない。 ふざけんじゃねぇ。冬獅郎がそう言おうとした時だった。 「ふざけんじゃないわよ!」 角を曲がった先から聞こえた乱菊の声に、ハッとそちらを見やる。 男を押しのけて駆けつけると、少し離れた自販機の前で、乱菊と長身の男がなにやら言い争っている最中だった。 「一角!」 冬獅郎の後を追ってきた男が、言い争う二人を見て声を上げた。 「てめえの連れかよ」 冬獅郎は吐き捨てると、大股で乱菊に向かって歩み寄った。 自販機の人工的な光が、髪一本ない男の頭を照らし出していた。禿げるような年ではなく(20代半ばに見えた)、かといって坊主でもなさそうだ。 とすればいいところヤクザだ、と冬獅郎は見当をつける。明らかにガラが悪そうだ。 「あぁ? この女。俺に絡んでくるとは、いい度胸じゃねぇか」 歩いてくる冬獅郎に気づかず、ハゲ男は言い募っている。対する乱菊は引くどころか、胸を反らして言い返した。 「あんたこそ、あたしに絡んでくるとはいい度胸じゃない!」 なんでこの女は、根拠もないのに自信たっぷりに振舞えるんだろう。こんな事態なのに、冬獅郎は少し感心した。 「あ? なんだぁお前!」 乱菊の剣幕に、ハゲ男は一瞬たじろいだが、すぐに乱菊に一歩踏み出し手を伸ばす。 その肩に指先が触れようとした時、 「近づくな」 足を速めて近づいた冬獅郎が、ガッと男の後ろ襟を鷲掴みにし、思い切り背後に引いた。 「っとぉ?」 引き倒すくらいの力を込めたつもりだったが、ハゲ男は身軽に体勢を整え、冬獅郎と向き合った。 「……」 互いを見つめたまま、沈黙が落ちる。 ―― なんか武術やってるな、きっと。 冬獅郎にそう思わせたのは、男の身ごなしに加えて、ジャケットの上からでも筋肉が分かるほどに鍛え上げられた体格だった。 身長は、冬獅郎を大きく凌ぐ180cm以上。それにも関わらず、動きは敏捷だった。 「身長は一丁前だが、筋肉とか骨格が追いついてねぇ。まだガキだな」 男も、同じように冬獅郎を観察していたのだろう。野卑な外見に似合わず、そんなことを言ってきた。 「なんか武術やってるな? お前も」 「別に」 さらりと返したが、確かに武術を習ったことはなかった。しかし、多少腕が立つ男程度なら、負ける気は全くしなかった。 その自信が、無意識のうちににじみ出ていたらしい。 「生意気な顔してやがる」 男がニヤリと笑い、一歩踏み出してきた。 ちらりと乱菊を見やり、冬獅郎も一歩前に出る。自然と、庇うような形になった。 「冬獅郎かっこいい! 惚れ直した!」 手を叩かんばかりの乱菊に、呆れた調子で声をかける。 「まぜっかえすな、松本。下がってろ」 声はいつもの調子だが、刺すような視線を男に向けたままだ。 「ちょっと待った、一角! そこの君も」 その場に割り込んできたのは、オカッパ男だった。 「そこの善良そうな女の人が、何をしたっていうんだ?」 善良そうな。その言葉に、冬獅郎と一角が同時に噴いた。乱菊が両目を吊り上げる。 「ちょっと、そこの二人。何、今の反応?」 「その女のドコが、善良なんだ! えぇ弓親?」 途端に目を剥いた乱菊を無視して、一角、と呼ばれた男がオカッパ男に声をかける。 弓親、というらしい男は、自信満々に答えた。 「綺麗だからだよ」 「分かってるじゃない♪」 途端に機嫌を直した乱菊の袖を、冬獅郎は無言で引っ張った。 「何よ?」 「良かったじゃねぇか、褒められて。帰るぞ」 馬鹿馬鹿しい。そう思っていた。少し眠くもなってきていたし、とっとと家に帰って寝たかった。 「ちょっと待てぇ!」 背中を向けた途端、後ろから一角が怒鳴る。冬獅郎はげんなりと振り返った。 「まだ何か用かよ?」 「用かよじゃねぇ! この女、俺に暴言吐きやがったんだ。このままじゃ行かせねぇ」 「何言ったんだ、松本」 面倒くさいからとっとと謝れ。そんな冬獅郎の心の声を聞くことなく、乱菊はまた無意味に胸を張った。 「あたしはただ、冬獅郎に水でも買ってあげようと思って自販機に行っただけよ。 そしたら目の前にこの男がいて。頭がまぶしかったから、言ったの。『そこのハゲの人、ちょっとどいてくれない?』って」 「誰がツルッパゲだ、このアマ!」 「あたしはただ、身体的特徴を言ったまでよ! ハゲてんじゃない、どう見ても!」 「俺はハゲじゃねぇ! 剃ってるだけだ」 「見る方からしたらどっちだって一緒よ。言われるのが嫌なら、生やせば?」 「……」 「生やせないんだ、ハゲ」 「うるせぇ!」 冬獅郎は、思わず二人から一歩下がった。 ―― アホらしい…… よく見れば、一角とかいう男の方も、酒が入ってるように見える。ただの酔っ払い同士のケンカか。 乱菊の頭に手を伸ばし、無理やりぐい、と下げさせる。何よ冬獅郎、あたしは悪くないのよ、という声を無視して一角に向き直った。 「ハゲハゲ連発したのは悪かった、こいつは口が悪ぃんだ」 ここは、俺が大人にならなければ。一抹の空しさを感じながら仕方なく謝ると、一角の前を通り抜け、乱菊に歩み寄った。 このまま家に帰って寝よう。そう思った時だった。ヒュン、と男の腕が宙を切り、反射的に振り返る。 「避けもせず、真っ向から受け止めるとはな。お前、かなり好戦的だろ」 見下ろした一角と、冬獅郎の瞳が交錯した。 まっすぐに飛んできた一角の拳を、冬獅郎の掌ががっしりと受け止めていた。 見た目は男にしては指が細長く華奢だと言われるが、握力だけは並みの男よりずっと上だ。 「ふん」 冬獅郎は鼻を鳴らすと、チラリと背後の乱菊を顧みた。下がってろ、と目で合図し、向き直る。弓親がその様子を見て、ため息をつく。 「バァカ一角、その子が避けなかったのは、自分がかわせばお姉さんに当たるからだよ」 「……そうなのか」 毒気を抜かれたような一角の言葉に、こいつは案外悪人ではないのかもしれない、と冬獅郎は思う。どちらの言っていることも事実だ。 「どーだっていいだろ」 乱菊の視線を後頭部に感じながら、振り払うように口にした。 二人の男が、ゆっくりと時計回りに足を進める。まるで、獣が獲物に飛び掛る機会をうかがっているように。 「溜まってんだ。てめぇに恨みはねぇが、ちょっとつきあえ」 その直後、一角が大きく一歩踏み込んだ。そして冬獅郎に向って拳を振りかぶる。 左足を左前に出し体を開いた冬獅郎は、そのまま身をひねるとバネを効かせて跳躍した。 ドッ! 耳を覆いたくなるような鈍い音が響き、一角の腕と冬獅郎の振り下ろした足が衝突した。 「互角」 弓親が鋭く、言葉を挟む。 その衝撃で、より軽量な冬獅郎の体が宙に押し戻される。トン、と一角の肩に指を突くと、その勢いを生かして中空へと舞った。 振り上げた拳を、一角の肩口に見舞う。 「チッ!」 一角が肩を押さえて飛び下がる。冬獅郎は素早い動きで、一角から飛び離れた。 「驚いたな、一角が捕まえられない奴がいるなんて」 弓親が無意識のうちに、親指の爪を噛みながら呟く。地面に飛び降りようとした冬獅郎の視界が……その時、ぐらりと揺らいだ。体勢がくずれる。 「冬獅郎っ?」 見守っていた乱菊が声をあげた。 ぐきっ、と嫌な音が周囲に響き渡った。そのまま冬獅郎は地面にしゃがみこみ、右の足首を両手で掴んだまま、動かなくなる。 「……あらま。捻っちゃったのね」 駆け寄った乱菊が、冬獅郎の隣にしゃがみこむと足首を覗いた。 「酔っ払ってる時に急に動いたからだね。アルコールが回ったんだよ」 歩み寄った弓親がそう言って、一角に白い目を向ける。 「一角が悪いんだよ。無理やりケンカしかけたりして」 「……! 未成年のくせに酒飲むんじゃねー」 外見とあまりに似合わない発言と共に、一角は髪一本ない頭をつるりと撫でる。彼なりに困っているらしい。 「しかし困ったわね、この辺タクシーも通らないし」 乱菊はしゃがみこんだまま、辺りを見回した。 都心とは言え、住宅街の真ん中のこの辺りに、夜中にタクシーが通りかかるはずもない。 「しょうがねぇな。オラよ」 一角はため息をつくと冬獅郎に背を向け、しゃがみこんだ。 「……なんだよ」 じゃっかん涙目の冬獅郎が、その広い背中を見やる。 「タクシー拾えるとこまで負ぶってやるって言ってんだよ! 歩けねえんだろ」 「いらねー!」 即座に拒絶すると、冬獅郎はその場から立ち上がろうとする。しかしその途端にガクンと前かがみに倒れかけ、乱菊の肩に手をついて支えた。足に、全く力が入らない。 「ホラ、ダメじゃない。無理するんじゃないの」 「歩いて帰る!」 「ワガママ言わないの」 乱菊は、まるで聞き分けの悪い子供を叱るような口調だ。こんな子供みたいな奴らに子供扱いされるなんて非常に不本意だ。 「いいから、この3人の中から選びなさいよ」 冬獅郎は、値踏みするように3人の顔を見比べた。 女。オカマのような……男(多分男)。男。 「……」 冬獅郎は無言で、一角の背中に手をかけた。 「よっしゃ! 途中で24時間やってる薬屋があるから、湿布と……、ついでに酒も買っていきましょ! あんたらも来るでしょ?」 「は???」 三人分の声が聞き返す。今、そういう話をしていただろうか。 「馬鹿ね。こいつに家まで背負ってってもらえば、その分浮いたタクシー代で酒が買えるじゃない!」 何言ってんだお前、という表情を、乱菊と男3人は同時に交わし合った。 「そういう問題じゃねぇだろ」 冬獅郎は呆れて口を挟んだ。 俺が言ってるのは、さっきまで暴力沙汰を起こしていた相手を部屋に誘うなんてマトモじゃねぇ、っていうことだ。 しかし冬獅郎はうっかり失念していた。松本乱菊と、一般常識を下敷きにして議論しても無駄だということを。 「じゃ、どういう問題なのよ? 言うじゃない一期一会って。出会いは大切にしなきゃね。行くわよ!」 「……あの人、まだ酔ってるのかい?」 「いつもあんなんだ」 「イカれてるな」 「否定はしねぇよ」 結局いつも、その時々の自分がしたいようにするだけの女なのだ。 弓親と一角に返しながら、意気揚々と歩き出した乱菊の背中を目で追い……ため息をついた。 ** そして……今朝の、この惨状があるんだった。冬獅郎は自分の隣で眠る乱菊を見下ろした。 タンクトップにショートパンツという半ば半裸の恰好で、まくれあがった裾からは腹が丸見えになっている。 そして幸せそうに大口を開けて眠っている。 まったく、一度親の顔を見てみたいぜ。 乱菊の上に布団をかけてやりながら、冬獅郎はもう一度、それはそれは深いため息を漏らした。
last update:2010年 6月13日