明朝。 花刈ジン太は、店の入り口にかけられたカーテンをざっと引き開けると、ため息をついた。 ガラス戸の向こうで、降り続いていたのは雨。どこか生ぬるい春の空気の中で、しとしとと、糸のように延々と降り続いている。 ―― 今日は客もこねーな、きっと。 後ろを振り返り、店内に雑然と納められた駄菓子を見やる。 相手は大体、懐にいいとこ500円くらいしか持ってないガキどもだ。20円と30円の菓子を見比べ、真剣に悩んでいる姿を見ると、つい笑ってしまうが。 つい数年前までは、売り物の菓子に手を伸ばしては、テッサイに怒られていた自分を棚にあげて。 「ジン太くーん……」 店の奥から、たよりないウルルの声が聞こえた。続けて、けほけほっ、と小さな咳。 「ごめんね、あたし、今日店番なのに」 「いーんだよ。どうせ雨だし、どこにも行けやしねーよ。寝てろ!」 出来るだけ乱暴に言い捨てると、 「ありがとう」 調子の狂う答えが返ってきた。何か言い返してやろうと思ったが、それっきり何も聞こえない。 本当に、調子外れな奴だと思う。 普段は「馬鹿」がつくほど健康体のくせに、こんな春先になってカゼひくなんて。 居住空間につながっている薄暗い廊下を見て、そう思ったときだった。ガララ、と店のガラス戸がひき開けられた。 「悪いけどな、まだ開店前……」 「知ってるよ」 「なんだ、お前か」 ジン太は目をやる前にそう言って、肩越しに振り返った。ガラス戸に置かれた腕に、長い黒髪がさらりとかかっていた。 「ちょっと……話があるんだ」 なんだよ、と無愛想に言い捨てるには、夏梨のまなざしは真剣だった。 「……入れよ。まだ開店までには間がある」 ジン太は、店内を親指で指して言った。 *** 「なんだぁ?そりゃ」 レジの向こうに座ったジン太が、調子外れの声を出した。その表情には、困惑が色濃い。 「あのねーちゃんや冬獅郎そっくりな奴が出てきて、お前とか死神のことは知らねぇって言ったのか?」 「それだけじゃないんだ。冬獅郎の副官やってた女の人とか、赤髪の男の人も死神だったハズ……」 「その場にいたやつの、名前は?」 「ルキアちゃんだろ、それに冬獅郎。乱菊さん。それから……恋次って呼ばれてた人と、あたしの常連の、一角さん、弓親さん」 「お前」 ジン太は、それきり黙った。そして、バリバリと後頭部を掻く。 「なんだよ?」 「気づいてねえで言ってるのか? そいつらは、全員死神だ!」 「え? 一角さんも、弓親さんもそうなのか?」 「ハゲた目つきの悪い兄ちゃんに、オカッパ頭のオカマみたいな兄ちゃんだろ? 五年前、日番谷先遣隊として来てた面子だぞ。うちにも来てたからな、間違いねぇよ」 「は? それって」 ダン、とレジ台に手を突いた夏梨を、ジン太は見返した。 「お前、動揺してんだよ。まともに考えてみたら、答えは一個しかねえだろ。一人ならとにかく、六人分間違えるわけねぇ。そいつら、死神なんだよ。 何か理由があって、お前に隠してるに違いねぇ」 「でも、一兄も、あいつらは別人だって」 「お前の兄貴は死神代行だろ?口裏合わせてんだって」 「……」 夏梨は、視線を、レジ台についた自分の手に落した。昨日の夜、冷静さを取り戻した頭がはじき出したのも、同じ答えだったのだ。 あの六人は間違いなく、夏梨が五年前に会った死神達と同一人物で、何らかの任務のために現世へと訪れている。 しかし任務に巻き込まないために、夏梨を見ても他人のフリをした。 元々、死神である彼らが、夏梨に接点を持ち続けることのほうが異常だったのだ。そんな仮説に至るのは、難しいことじゃない。 「でも……」 夏梨は、昨日のやり取りを思い出そうとしながら呟いた。 「なんか、変な符牒が一個だけあったんだ」 「なんだよ?」 「あたしが最後に空座町で冬獅郎達に会ったのは、五年前だ。そして、六人とも五年前に、この町に来たって言う」 腑に落ちない、という顔をしてジン太が黙った。 それは、死神たちが嘘をついていたとしたら、どうでもいい些細なことだ。 だが……些細なことだからこそ、なぜそんな嘘をつく必要があるのか、分からなかった。それに、あの時六人が見せた当惑は、演技とは到底思えなかった。 「……」 互いにそれに答えられる言葉はなく、二人はしばらく黙り込んだ。 夏梨は、はぁ、とため息をついて、ジュースが入っている冷蔵庫に、背中をもたせ掛けた。 少なくとも、動揺してる、というジン太の指摘だけは正しかったようだ。 「ジン太。お前が最後に死神に会ったのも、五年前か」 「あぁ。破面が空座町を襲ってきたときのことだよ。お前、霊圧にやたら鋭いから、分かってただろ」 「……あぁ」 夏梨は頷いた。そして、しばらくして口を開く。 「空が静かになって、一兄は戦いが終わったって言った。当然、勝ったんだって思ってた」 「どうなったのか俺も知らねえよ。店長も、それに関してはダンマリだしな。でも、戦いの場所を空座町から変えただけで、どっかで続いてるってのは、ありえるぜ」 そう言って顔をあげたジン太は、遠くから聞こえてくるバイクの音に、顔をあげた。 「あれ、この音……」 夏梨が振り返り、足早に入り口に歩み寄る。 雨の中、上着を羽織っただけの姿で飛ばしてきた男は、ザザッ、と浦原商店の前でバイクを止めた。フルフェイスを脱いだ姿に、夏梨は声をあげて駆けよった。 「一兄! どうしたんだよ」 「ちょっとな」 一護は夏梨を見ると一瞬バツが悪そうな顔をしたが、浦原商店の軒先にバイクを寄せるとジン太に歩み寄った。 「悪いな、突然。浦原さんはいるか?」 *** 「悪いな、突然」 阿散井恋次が下宿する古アパート。 ジャージにTシャツ、髪もボサボサのままの恋次は、戸を開けた途端に固まった。綺麗に梳かした髪に、シワひとつないワンピースに身を包んでいる。 その身嗜みの小奇麗さはいつものルキアだが、「朝から」「恋次のアパートに」「平日なのに私服で」訪れる、その全ての要素が、恋次の口をあんぐりと開けさせたままでいた。 ルキアは恋次のだらしない格好にも動じず、凛とした目を向けた。 「学校をサボる気はないか? つきあってほしい場所があるのだ」 へっ? 恋次は、思わずルキアの真面目くさった顔を凝視した。 ルキアは、恋次と違って優等生で、学校も皆勤に近い。恋次が言い出すならとにかく、ルキアとは思えないセリフだった。 「何だか知らねーけどよ、行くから。そんな思いつめた顔、するんじゃねーよ」 恋次の言葉に、ルキアが目を見開き……そして、うつむいた。 通勤時間を過ぎた電車は、気が抜けたかのようにすいていた。ルキアは、ドアに背中をもたせ掛けて立ち、何とはなしに、流れてゆく風景に瞳を向けている。 ―― どこ向かってんだか…… 今声をかけても、ルキアは気づくまい。そう恋次は思う。昔から、物思いに浸りだせば最後、なかなか我に返らない奴だった。 ―― なにか、おかしい…… ルキアは、カンカンカン、という音とともに景色を流れてゆく、踏切に目をやりながら思った。 具体的に、何が違和感なのか。それを説明する術をルキアはもたない。しかし、その違和感は、昨日決定的なものとなった。 黒崎夏梨、という少女に、問いかけられたその時に。 五年前、どこにいたかは迷うまでもなく答えられる。 ただ……「何をしていたのか」と聞かれたとき、とっさに言葉に詰まってしまったのだ。 そんな漠然とした問いにぱっと答えるのは難しい、と自分に言い聞かせても、違和感だけが残った。 「……」 ルキアは我知らず、自分の右肩にそっと手を触れる。昨日、恋次の傷の手当をする夏梨という少女の向こうで突っ立っていた、黒崎一護と名乗った男を思い出していた。 派手な外見の割に、思慮深そうな奴だな。それが、黒崎一護を見たときの初めの感想だった。 恋次が立ち上がったのは、黒崎家のリビングに入って、一時間くらいのことだった。 ―― 「いくぜ、ルキア」 ―― 「ああ」 ルキアもソファから身を起こし、カウンターキッチンにもたれかかっていた黒崎一護に、声をかけた。 ―― 「邪魔をしたな」 そういって、黒崎一護の前を、通り過ぎようとした瞬間。ルキアの肩に、広い掌が置かれた。ルキアが顔をあげたとき、低い声が耳元でささやいた。 ―― 「元気でな。『ルキア』」 ルキアが見たときには、一護はもう、ルキアに背を向けていた。 振り向けなかった。 どうしてだか、分からないけれど、その言葉はとても重たくて。 そのとき。 「次の駅は、御影駅。御影駅です」 女性の声で、電車の中にアナウンスが流れ、ルキアは我に返った。 「次で、下りるぞ」 「御影駅っていったら、児童養護施設のあったとこじゃねえか?」 恋次の心底意外そうな声に、ルキアは一度、深く頷いた。 「そうだ。私は……確かめたいのだ。自分のルーツを」 「お前……そういうタイプの奴だったか」 恋次は、思いつめたルキアの表情を見下ろした。何の計画性もなく、衝動的に、突拍子も無い行動をとる奴ではない、と思っていたのに。 ルキアはすぐには答えず、開いたドアから外に出た。 「そうだな」 改札に向かいながら、ルキアは言った。 「私も知らなかった」 ルキアの赤い傘の後に、恋次のビニール傘が続き、坂を上がっていく。 ―― 5年ぶり、か…… 坂の両側に続く街並みに、恋次は視線をさまよわせた。「犬」というシールが張ってある割に、犬がいる気配が無い家。 ガーデニングに凝っているのか、常に色とりどりの花が咲き乱れているマンションのベランダ。古びて、もう誰もすまなくなった、壁に罅が入ったアパート。 子供の頃、学校から養護施設への登下校に通った、この道。あの時、心を震わせたさまざまな景色が、今もまったく変わらずにそこにある。 それが、新鮮な驚きだった。この坂を上りきったところが、養護施設だ。 ルキアは、全く足を緩めることなく、周りに視線をやることもなく、歩いてゆく。 「……恋次。すまんな、いきなりつきあわせて」 その赤い傘を見下ろしたとき、声が発せられた。 「こんなトコまで連れて来といて、今更何言ってんだ。イヤなら断ってるっての」 「……そうだな」 少しだけ振り向いたルキアは、微笑んでいた。 「1人だけだと、怖かったのだ」 普段、素直に「怖い」なんていう女じゃない。 本当にどうしたんだ。 そう言おうとして前を見たとき、ルキアは急に立ち止まった。その肩が、小刻みに震えているのに気づいた。 「オイ」 恋次が、ルキアの隣に並ぶ。 「どうした」 ルキアは目を掌で押さえたまま、もう片方の手で、前を指差した。何気なくそちらを見た恋次は、初め、目をしばたかせた。 目の前の風景の意味を理解するには、しばらく時間がかかった。……恋次はやがて、絶句したまま、震えるルキアの肩を見下ろした。 「どういう、ことだ」 押し出した声は、えらく乾いていた。 恋次とルキアの目の前、坂を上がりきった場所。 そこには、ルキアと恋次が育った児童養護施設があったはずだった。 しかし、そこにはただ、原野が雨に濡れているだけだった。
last update:2010年 6月23日