一体何を話しているのか、店の奥の部屋に入ってしまった一護と浦原の話し声は全く聞こえない。
落ちつかない気持ちで一護が出て来るのを待ちながら、夏梨は五年前の出来事を思い出していた。


***


その年、夏梨はいつになく胸苦しい気分で、冬を迎えていた。柔らかい岩のような圧力で空から垂れ下がる雲のせいでもなく、日増しに下がる温度のせいでもない。
夏梨はその重苦しさを振り払うように、部屋の窓を開け放った。木枯しが部屋の中を吹き荒れても、気持ちは全くすっきりしなかった。

窓から身を乗り出して、灰色で一律に塗りつぶしたような空を見上げる。その時、筆で一本黒い線を引いたような模様が見え、夏梨は目を凝らした。
「また……だ」
あれが何なのか、夏梨には分からない。ただの線にも見えるし、何だか異界への穴のようにおどろおどろしく感じることもある。
ただ、あれが空に出没した時には、必ず「化け物」が出没すると、経験上知っていた。

その黒い線を追うように、黒い影がいくつか家の屋根を渡ってゆく。尾を引く高い音を立てて、夏梨の目の前を行き過ぎた。
あまりにもスピードが速いため、黒い疾風のようにしか見えなかった。それなのに夏梨の髪はそよ、とも揺れなかった。これも「異界」の者達だ。
その黒い影が「死神」だということを、いつしか夏梨は知っていた。なぜなら自分の父と兄も、「死神」の一員だったからだ。

そして、夏梨には見えるそれらの異質なものが、他の人たちには見えない。いつとはなしに理解していたことだった。
しかし、最近「化け物」が現れた後は、大抵街のどこかが破壊される。
死神と「化け物」が戦っているんだと夏梨には推測できるが、霊的現象だ、ポルターガイストだと世間は大騒ぎになっていた。


「夏梨」
突然名前を呼ばれて、慌てて夏梨は右を見やった。兄の一護の部屋の窓から同じように身を乗り出していた少年に気づき、思わず声をあげる。
「冬獅郎! 来てたのか」
「……ヤな天気だな」
冬獅郎はそれには答えず、空を見渡した。その視線が空の上の黒い線に止められ、眉が顰められるのが夏梨にも分かった。やっぱり、あれは凶兆なのだ。
冬獅郎の小さな黒い肩の上に、たおやかな白い指が置かれる。その巨大な胸で冬獅郎の背中を押しつぶすようにして、副官の松本乱菊が身を乗り出した。
「どけ松本……」
冬獅郎の額に青筋が浮かんでも、全く気がつかない素振りだ。

「曇り時々虚、みたいな感じですねぇ」
「……時々じゃねえよ」
苦々しく言い返すと、乱菊を押しのけ中空へふわりと滑り出た。乱菊とルキア、赤髪の死神がそれに続く。最後に、兄の一護が窓から身を乗り出した。
「どーすんだよ?」
「……瀞霊廷に、連絡がつかねえんだ」
冬獅郎は、乱菊が持った携帯電話のような機械を目で示した。
「瀞霊廷全体を、異様な気配が覆ってて、中の様子をうかがえねぇ。加えて、現世のこの虚の数……何か起きてる」
「瀞霊廷が……?」
一護の表情が一瞬で強張る。一方の冬獅郎は平静な表情を崩さず、死神たちをざっと一瞥した。
「俺と松本は瀞霊廷に戻る。阿散井と朽木は、黒崎と一緒に虚の駆除を頼む。十一番隊の二人はどこ行ったんだかしらねぇが、どっかで戦ってるんだろ。連携しろよ」
「はっ!」
死神たちは同時に直立不動となり、それぞれに頷く。
「ちょっと待て!」
一護が間髪いれず割って入った。冬獅郎は眉を顰めて見返す。
「そういうことだったら、死神は全員瀞霊廷に帰ったほうがいいんじゃねぇか? 空座町は俺一人で大丈夫だから、気にすんな」
「話にならねぇ、この数をどうするつもりだ」
「俺は死神代行の人間だ。この町を護るのが俺の役割だ、違うか? チャドも石田も、井上もいる。絶対、大丈夫だ」
一護は冬獅郎を見返した。あの兄が、冬獅郎を押しているように見える。夏梨は固唾を飲んで見守った。
「俺を信頼してねぇのかよ、冬獅郎!」
まっすぐに投げられた言葉に、一瞬言葉に詰まった冬獅郎が、ゆるゆると首を振った。
「死ぬなよ」
それが答えだった。一護は一度、きっぱりと頷く。
「十分、アテにしてるわよ」
優しい声で乱菊が口を挟んだ。

聞いていた夏梨には分かった。死神達は、何かとてつもなく大きなものと戦っている。
夏梨が目に見える化け物たちよりも、もっと恐ろしい何かと。もしかしたら死神達が乗っているのは、既に沈みかけた船なのかもしれない、と恐ろしくなる。
冬獅郎は、おそらく無意識なのだろう、肩に担いだ刀に手をやっている。「氷輪丸」という名前なのだと聞いていた。
ちらりと自分の刀を振り返った時、冬獅郎の表情によぎった色濃い緊張が、はっきりと分かった。

「……冬獅郎!」
思わず、呼びかけていた。なぜだか分からないが、いてもたってもいられない気持ちだった。ただ、「そっちへ行ったらいけない」という予感が強くした。
止めなければ、と夏梨は思ったが、言葉がうまく出て来ない。
「戻って、来るよね?」
やっと絞り出した言葉に、振り返った冬獅郎は、少し困ったような顔をした。
「……瀞霊廷で、新しい義魂丸を開発しているらしいんだ」
「は?」
あまりに予想とかけ離れた答えに、夏梨は首をかたむけた。一体こんな時に、何を言っているのか。冬獅郎は構わず続けた。
「涅が吹聴した言葉を信じるなら、現世に今よりも来れるようになる。……全部終わったら、一カ月でも二カ月でも現世にいてやるよ」
「マジで? 知らなかったわ……サボれるってことですか!」
乱菊が顔を輝かせ、すぐに冬獅郎に睨まれて黙った。
「……全部終わったら、だな?」
そんな時が、来るのだろうか。一抹の不安が頭をよぎる。

冬獅郎。
夏梨は思いを込めて、その横顔を見やった。
お前はすごく真面目で、仕事熱心な奴だって聞いてる。なのにどうして、そんなこと言うんだよ。
普段から無口で、こと死神の世界のことは一切口に出さない癖に、どうして今日に限って、副隊長の乱菊さんさえ知らないことをあたしに話してくれるんだ?
今だってあたしの視線を感じてる癖に、どうしてこっちを見てくれないんだよ。

六人分の義骸の保管を最後に一護に頼むと、冬獅郎たちは瀞霊廷へと発った。
それからもう既に、五年の歳月が流れた。


***


あの時止めた方がいいと思ったのなら、どうして止めなかったんだ。夏梨は唇を噛んだ。
夏梨は昨日、一護の前で取り乱して嗚咽した。あんなに動揺するくらいなら、
どうして五年前、なりふり構わずしがみついてでも冬獅郎を止めなかったんだ。
でもいくら過去の自分を罵ったこところで、もうどうしようもないことは分かりきっていた。

―― 「あいつは、戻って来るって……あたしと約束した」
夏梨は昨日、一護にそう言った。
でも改めて冷静に思い返してみれば、「戻って来るか」という問いかけに対して、冬獅郎は返事をしていなかったのだ。
いきなり無関係な話を持ち出したのは、直接返事をするのを避けるためだったのだと今なら分かる。
でもあの頃の夏梨は、何だかんだ言っても冬獅郎たちは必ずまた、何食わぬ顔で現れると信じていた。
冬獅郎が一瞬見せた、困った表情の意味を考えてみることもせずに。

拭いがたい悔恨。
五年間で、新しく夏梨が知った感情だった。
あの子供の割に低い声を、翡翠色の目を、こんなに懐かしいと思ったのは初めてだった。
もう一度会うためなら、夏梨はきっと何だってやれるだろう。
それなのに一護は、「諦めろ」とはっきりと言った。一体一護は、何を知っていると言うのか。

廊下の床の目を見下ろし、はぁ、と息をついた時。そのため息は、途中で断ち切られる。
―― なんだ?
ゾワリ、と背中の産毛が一斉に立ち上がるような寒気に、夏梨は凍りついた。


「ちくしょう、聞こえねえな……」
夏梨に並び、部屋の中の会話に耳を傾けていたジン太が、痺れを切らしたように呟いた。
一護と浦原が、この部屋に入ってから30分が経とうとしていた。ぼそぼそ、とたまに声が聞こえるが、それ以外はシンと静まりかえっていた。
「オイ夏梨、お前も何か手を考えろ……って、どうかしたか?」
引き戸の向こうの景色から、目をそらせない。ジン太の視線を感じた夏梨は、無言でその袖を引っ張って、注意を外の景色に向けた。
言葉を発することができない。まるで、蛇に睨まれた蛙のように。

違和感に気づいたか、ジン太が引き戸の向こうに向き直った。
ガラス戸の向こうは、本降りになり始めた、春の雨。軒先に停められた一護のバイクの、ハンドルに雨が当たるのが見えた。
雨どいから、雨水が伝い、水溜りに水滴が跳ね返る。まるで、別の世界を見ているかのように、ジン太や夏梨のいるところには、雨音さえも聞こえない。
突然。
その世界がつなげられるまでは。

「な……!」
ジン太が、電流を流されたような機敏な動きで、立ち上がった。バイクの後ろの風景が……突然、布地を裂くように、「切り開かれた」。
裂かれた風景の向こうには、墨を流したかのように、漆黒が広がっている。そして、その男は……漆黒の向こうから、やってきた。


驚くほどに白い肌。その顔を、黒いイレズミが彩っている。
イレズミに隈取られた瞳は、まるで感情の無い蛇。肩まで伸びた黒髪。その頭を、殻のような「仮面」が半分ほど覆い隠していた。
その喉元に、拳が入るくらいの大きさの、穴が開いている。
「破面!」
ジン太が歯を食いしばる。男は、無表情に一歩、夏梨やジン太のいる世界へ踏み出した。夏梨は無言のまま、じり、と後ろに下がる。

―― 何だ、こいつ……半端じゃねえ!
「ジン太! 逃げるんだよ!」
気づけば夏梨はジン太を振り返り、叫んでいた。あの男は、あたし達が何をしたところで、敵うような相手じゃない。
それだけは確かだと思えたからだ。ぞくり、と、男に背を向けた夏梨の、首筋が粟立つ。
―― しまった……
こいつに、背中を向けては絶対にいけない。振り向いた夏梨の目に、男が腕を上げ、ジン太と夏梨に向けて振り下ろすのが見えた。
直後。
ドン、という強い衝撃に、夏梨とジン太は互いを庇いあい、廊下に座り込んだ。
「あいつ、何を……」
ジン太が顔をあげた瞬間。ふたりに向かって、天井が崩れ落ちた。



「……なぜ、刃向かおうとする」
ガラスを音もなく踏み、数瞬前まで店だった残骸の中を、男は近づいてきた。
「もうお前達は、明日を失っているというのに」
「てめえ……」
強い怒りがこめられた、その言葉と同時に向けられたのは、一太刀の剣。
「大丈夫っスか」
廊下に突っ伏したジン太と夏梨を庇った、浦原が二人を見下ろして微笑んだ。
「心配ないスよ。黒崎サンがいますから」

「え……」
夏梨が顔を上げ、ジン太もそちらを見た。
三人の視線の先にいたのは、風にはためく死覇装。
「ウルキオラ……なんで、てめえがここにいる!」
一護は、斬魂刀「斬月」の切っ先をウルキオラ、と呼ばれた男に向けて言った。

対するウルキオラは、相変わらず感情のない双眸で、一護を一瞥する。
「もう、空座町にも貴様にも、用はないはずだったがな」
「ウルキオラ。てめえには聞きたいことがある。逃がさねぇぞ」
まるで炎と氷のように、真逆の温度の視線が交錯する。

「昨夜。六つの力が空座町に現れた」
ピクリ、と一護が片方の眉を動かした。
「何が言いてえんだ、てめえは」
「いや、むしろ元々あったものの、一つ一つは目立たぬほど小さな力だったというべきか。集まらなければ、力として認識できぬほどに」
ウルキオラの冷たい瞳が、一護を見下ろした。
「貴様が何も知らぬはずはない、と思っているのだがな」
「何のことだか、分からねえな」
分からない、という割には、怒りを隠しきれないような声だった。
「黒崎サン!」
ジン太と夏梨の前で片膝をついていた浦原が、普段と比べれば別人のような鋭い声を上げた。
「狙いは『アレ』です! 行ってください!」

「遅い」
ウルキオラの、鏡のように平坦な声が、その場にやけに通った。それと同時に、腕を一護たちに向かって突き出した、と思った時には、その掌が光に包まれていた。
「チッ!」
一護は、背後の夏梨やジン太をチラリと見やると、その場に踏みとどまった。
「だから貴様は甘いというのだ」
一護の脇を、風のように行き過ぎた影が、一護の耳元で囁きを残した。
その姿が、ふっと、地面にぽっかりと空いた隙間に消えるのを目の端に捉え、一護は再び舌を打つ。
「浦原サン、ここを頼む!」
一護は叫ぶが早いか、床の隙間から、ウルキオラの後を追って地下に身を滑らせる。そこは、浦原商店の地下に広がる、岩場が続く巨大な空間だった。


「待ちやがれ!」
一護は、地下に下りるが早いか、斬魂刀の一閃をウルキオラの背中に振り下ろした。無表情に振り返ったウルキオラが、腰の斬魂刀を引き抜き、一護の攻撃を受け止める。
ギィン!
と金属が弾け合う音がした。

「一兄!」
「夏梨サン、危ない!」
浦原の言葉も聞かず、夏梨は地下へ下りる縄梯子を見つけ出すと、しがみついた。
戦いに集中している一護とウルキオラは、気づかないのか、余裕がないのか、そちらを見はしない。
夏梨が見ても、二人の実力は伯仲しているように見えた。

誰の目にも触れずに、夏梨はスルスルと縄梯子を下りると、近くの岩場に身を隠した。
恐怖と、興奮と……しかしそれよりも強い、焦燥。気分が、やけにザワザワする。
―― 何だ? この気配。
岩に背中をつけたとき、不思議な感覚が夏梨を覆った。まるで、弱く緩く、打ち続ける心臓の鼓動のような。そんな気配を感じる。

耳を覆いたくなるような剣戟の音と共に、火花が地下空間に舞い散る。
「なるほど。岩の中に、結界をかけ封じ込めたか」
「うるせぇ!」
一護の刀が一閃する。跳び下がったウルキオラの頬に、紅い線が一本、刻まれた。
ウルキオラがその場に残した場所に、血の粒が、岩一色の風景の中に、やけに鮮やかに散った。
スッ、とウルキオラが中に舞う血の粒を、指差したように、見えた。その直後、その「血」が、まるで爆弾のように破裂する。

「つッ……」
一護が、自分に石つぶてとなって跳んでくる岩に、顔を腕で覆う。
「うわっ!!」
衝撃と共にあたりが土煙に包まれ、夏梨は思わず目を閉じた。薄目を開けたとき、その目の前に、ザッ……と土を踏む、白い草履が見えた。
「うっ……」
間近で見るウルキオラの姿に、夏梨は凍りつく。

「夏梨!」
それに気づいた一護が、それを見て……走った。
「ここにあったか」
ウルキオラは、夏梨には全く視線も向けず、崩れ落ちた岩の中にその腕を差し入れようとした。
「させねえ!」
横合いから飛び込んできた一護が、斬魂刀を一閃させる。あらかじめそれを予想していたかのように、迎え撃つウルキオラの動きも滑らかだった。

「夏梨! できるだけ離れてろ!」
汗を飛び散らせ、一護が夏梨を振り返る。しかし、夏梨の目は、違うところを見ていた。
たった今、ウルキオラが腕を差し入れようとしていた、崩れた岩の隙間を。
「おい、夏梨!」
一護の声を聞きながら、夏梨は、フラリと岩場に歩み寄る。


岩の割れ目の先は、真っ暗で何も見えなかった。どくん、と、その先で何かが息づく。
―― 何か、いる。
夏梨は、ゴクリと唾を飲み込むと、その中に腕を差し入れた。背後に、一護とウルキオラが激しく斬り結ぶ音が響く中で。

すぐに、手が固い棒のようなものにぶつかった。息をつめると、その棒のようなものをしっかりと掴み、引きずり出した。
それが白日の下にさらされた時……夏梨は、思わず悲鳴をあげて、「それ」を取り落とした。
カシャン、と音を立てて、「それ」が地面に弾む。どくん、と心臓が大きく波打った。

「一兄、」

地面を見下ろしたまま、夏梨は助けを呼ぶように、兄の名を呼んだ。
「昨日言ったよな。ルキアちゃんや、冬獅郎や、他の奴等も。みんな、死神の世界で暮らしてる、って」
「夏梨」
ウルキオラを跳ね返し、距離をとった一護が、夏梨と下に落ちた「それ」を交互に見て、言葉を途切れさせた。
「なら、なんでだよ……」
言葉は、口に出した傍からかすれた。

「なんで氷輪丸がここにあるんだ!」


last update:2012年 8月2日